蛇の館へ
賑やかな宿屋の食堂に立つ黒い老執事の姿はいかにも場違いだったが、周囲の目を気にすることなく、物言わぬ枯木のように立って回答を待っていた。
(速すぎる……どうして……)
リズは当惑する。ここはゲセン侯爵の本拠地なのだから、いつかは捕捉されると思っていた。だが、自分たちがアントラーについてから2時間も経っていない。
侯爵はすでに特使としての立場も、護衛の騎士のことも当たり前のように知っている。背筋に冷たいものが走る。だが、自分の役目と目的を思い起こし、フード姿のまま立ち上がって、老執事の前に近づく。
「速やかなご招待、痛み入ります」
動揺を見せないように、できるだけ平静に礼を返す。
「閣下より言伝を申し付かっております」
「言伝?」
「『驚きにはおよびません。かつて申し上げた通り、アントラーの噂は風よりも速い』……と」
老執事の平坦な口調が、言伝の不気味さを増している。
ゲセン侯爵は到着だけでなく、こちらの動揺まで見透かしているのだ。
覚悟を決めてカイルに呼びかける。
「行くしかないよう……ですね」
「あぁ」
カイルが相槌を打つ。
二人ともこのために来たのだ。
「ご足労いただいてのお出迎え、感謝いたします」
彼女は、留め具を外し、纏っていた純白のローブを脱いだ。
現れたのは白く輝く儀礼用騎乗服。
白いダブルブレストのジャケットの上に黒と金のサッシュ――飾り帯が斜めに掛けられ、王家の威光を示す。
町の食堂に突然露わになった凛とした美しさに、人々からどよめきが上がる。
顔に走る縦横の傷すら意思の強さを示すかのように輝いて見えた。
「私、エリザベス・ルミナ・ド・クロムウェル。王族特使そしてクロムウェル家令嬢としてご招待をお受けします」
おかみが思わず手に持っていた皿を落としかけ、目を丸くする。
「か……かっけ~~」
テオが口をあんぐり開けて賞賛する。
リズはふっと表情を和らげ、二人に向けて柔らかく微笑んだ。
「テオ、おかみさん。お食事の最中に申し訳ありません。用が済んだら必ず戻ってきますから」
白黒メッシュの前髪から覗く青い瞳が柔らかく光る。
「あ……ああ、行ってきな……」
おかみの絞り出すような声を聞いて、リズは宿の前に停まる黒い馬車へ乗り込んだ。カイルもそれに続く。
老執事も御者に命じてからキャビンに乗り込み、重い扉を閉める。
馬車が大きな車輪を軋ませながら走り去る。
「……大丈夫かなぁ……」
テオは、夕闇に消えていく馬車を、心配そうに見送り続けていた。
二人を乗せた黒い馬車は下角区から広場に抜け、さらに北西の道を取る。
かつてリズがさらわれ、カイルが乗り込んだゲセンの領主館はアントラー市街の北、上角区にあるはずだった。
「上角区の領主館に行くのでは?」
カイルが疑問を差し挟む。
「上角区の館は別館にございます。閣下は本館でお待ちです。本館は街を一望する高台にございます」
老執事は表情ひとつ変えずに説明する。
黒塗りの馬車は、北西の門を抜けて、アントラーの街の外に出て、緩やかな坂道へと差しかかる。
坂道に入っても車輪は石畳を叩き続ける。この長い坂すべてが領主のためだけに舗装されているのだ。馬車が揺れるたび、リズの緊張も高まっていく。
右手の窓に、夕日に照らされたアントラーの全景が見える。年に一度の大市を目前に控えた街は、無数の天幕に彩られ、遠くからでもその熱狂的な活気が感じられる。
一方、馬車の向かう先を見れば、そこには不気味な城があった。
巨大な石造りの外壁、いくつもの尖った小塔が迫りくる厚い雲を背に威容を誇る。
秋の空気が徐々に冷えていく。
門をくぐると、巨大な黒い領主館が現れた。
人を拒絶するかのような滑らかな漆黒の壁。
中央のドームの頂点では鎌首をもたげる蛇の像が、こちらを睨みつけている。
玄関に並ぶ数多の篝火に照らされ、馬車が静かに停車する。
「……到着いたしました」
老執事は冷たく告げ、キャビンのドアを開く。
「どうぞお足元にお気をつけて」
二人が馬車を降りると、そこには黒い半月のような巨大な玄関が待ち構えていた。
リズは、その黒い扉の前に立って、目を閉じる。
大きく息を吸って、肩からかかる王家のサッシュに触れる。
王子の言う通り、この一枚の布はたしかに自分の身を守ってくれるだろう。しかし、リズが知るゲセン侯爵はそれくらいで諦めるような容易い性格ではない。蛇のように執念深く、自分の意志を達成しようとあらゆる手を打ってくるはずだ。
顔の傷に手をやる。自らの革手袋が頬の傷に触れる感触に一年前のことを思い出す。自分とカイルの身を守るため、自身の『リバーシ』の力を使い、ゲセン侯爵を傷つけてしまった。他に方法はなかった。それでも他人を傷つけてしまったことには変わりがない。
リズは息を吐いて、扉をみつめる。
そもそもなぜ侯爵は自分に手紙をよこしたのだろう。
6年前の襲撃がゲセン侯爵の仕組んだものなら、『白の魔導書』を狙っていることは想像にかたくない。ゲセン侯爵がもう一つの『黒の魔導書』を持っているのだろうか。『黒の魔導書』を守ったお姉様は生きているのだろうか。
全ての答えを知るために、リズは自分の意志でここまできたのだ。
拳を握り込むと、白い革手袋がキュッと音を立てる。
「大丈夫だ。俺がついている」
カイルはリズの肩に軽く手をおいて、笑顔で請け負った。
「ありがとう。カイル」
老執事が黒い門に据えられた金色のノッカーで到着を知らせる。
間をおいて、黒い観音開きの扉が開く。
リズとカイルは、黒い館の中へと進む。




