ベーコンと蛇の誘い
賑やかでかぐわしい宿の食堂に、より一層、暴力的な匂いが立ち込める。
「さぁ!お待たせ!あんたの大好きなベーコンだよ!」
おかみがテーブルに並べたのは――山盛りの肉厚のベーコンだった。脂がパチパチとはぜる音をたて、肉の断層を真珠のよう艷やかに煌めかせる。
「うわぁ……」
リズはいつになく、潤んだ瞳を熱く輝かせた。
「えっと……その……食べても、いいですか……?」
「当たり前だろ!さっさと食べとくれ!」
「……では……いただきます……です」
リズはナイフを握り、厚みのある肉に震える刃を沈めた。脂と共に切り分けられた一切れを、愛おしむように唇へと運ぶ。
「熱っ……!」
唇を焼くような熱さに、リズは小さく喘ぎ、一瞬だけ身を引いた。
だが、芳醇な香りに抗えず、再びその肉塊を噛みしめる。
濃厚で熱い脂の雫が溢れ出し、口内を満たす。
「~~~~っ!」
喉を通る熱さに、リズはぎゅっと目をつぶった。
脂の甘味で全身が痺れるような刺激が走り、恍惚の吐息が漏れる。
「おいしい……です……っ!」
「そりゃあよかった!ほら、男連中も遠慮せず、どんどん食べな!」
テオが元気よくフォークを伸ばす。
リズはふと、正面からの視線に気づいて顔を上げた。
カイルが、フォークを手に取らず、両肘をテーブルについて顎を手に乗せたまま、じっと自分を見つめているのだ。
「カイルは……食べないのですか?」
不思議そうに首を傾げると、カイルはわずかに声を低め、うっとりとした口調で囁いた。
「いや……俺は、リズがベーコンを美味しそうに食べているのが……いいなぁって……」
「なっ……!」
不意を突かれたリズは、慌てて口のなかの肉を飲み込んだ。喉の動きまで執拗に追ってくる彼の熱い視線から逃れるように、リズは顔を真っ赤にしてうつむく。
その表情で、カイルが我に返ったように、話題を逸らす。
「テオ……この一年、アントラーはどうだった?」
「うーん。どうって……普通かな」
テオの意識はベーコンに集中している。
「ゲセン侯爵はどうしている?病で臥せっていたらしいじゃないか?」
カイルは具体的な話で情報を引き出そうとする。
「あー最近は傷侯爵って言われてるね」
テオがベーコンをモグモグしながら答える。
「傷侯爵?」
「なんか傷だらけになって、よりヤバくなったとか……」
「ヤバくなった?」
要領を得ないテオの返答を見かねて、おかみが助け舟を出す。
「ここの侯爵はね、元々、がめつくてあまり好かれてないんだ。そこにきて、最近、ガラの悪い連中を集めてるらしくてね、評判はガタ落ちさ。特に大市の時は色々な人間が集まるからね……何が起こるか……あんたたちも注意したほうが良い」
「なるほど……」
おかみの忠告に頷くカイル。
「傷侯爵というのは?」
「しばらく姿を見せてなかったんだけど……最近、侯爵を見た人に言わせると顔が傷だらけで、左目に眼帯をしているって噂だ。なんでそうなったかは誰も知らないみたいだ」
それを聞いたリズは少し気まずそうに肩をすぼめる。まさか街の人も、ここでベーコンを幸せそうに頬張っているリズが、侯爵に傷をつけた張本人だとは思わないだろう。
「なぜ人を集めてるのですか?」
カイルの問いにおかみは首を振る。
「さぁねぇ?色々探ってるという噂は聞くけど、うちらにはさっぱりだ」
ふと、宿の外で大きなざわめきが聞こえた。
「なんだい。今日は色々騒がしい日だね……」
おかみがドアを開けると、そこには大きな黒塗りの馬車が止まっていた。
馬車の周囲には、多くの人が集まっている。
「あの馬車!」
テオがベーコンを口に入れたまま叫ぶ。
その声を聞いて、リズも椅子から腰を上げる。
宿の前に止まっている馬車は、かつてリズがさらわれたゲセン侯爵の馬車に間違いなかった。
黄金の蛇の紋章をあしらった重厚な扉がゆっくりと開く。
そこから降りてきたのは一人の老人だった。いつか見たゲセン家の老執事。周囲の野次馬も、宿のざわめきもまるで気にしないかのように、食堂に入ってくる。老執事はまるでここが貴族の館でもあるように、過剰に丁寧なお辞儀をして、淡々と告げる。
「王族特使エリザベス・ルミナ・ド・クロムウェル嬢、ならびに護衛騎士カイル・ケストラ殿。お迎えに上がりました。我が主、アントラー侯爵ベラム・ゲセン様がお待ちです」
老執事はしばらく頭を下げた後、ゆっくりと姿勢を戻し二人をみつめる。
その細い目から見える瞳は何の感情も移していなかった。




