止まった時(2)
二人は、廊下の突き当りの扉を引き、広い部屋へと足を踏み入れる。
「ここは……晩餐室か……」
カイルの呟きが、高い天井に反響し消えていく。
かつては王都の貴族たちを華やかに迎えたであろうその部屋は、今や見る影もなく朽ち果てていた。
部屋の中央を貫く長いテーブルは、優雅な晩餐ではなく、灰色の埃だけを乗せ、主を失った無数の椅子が、墓標のように不規則に並んでいる。
見上げれば、かつて燦然たる光を振りまいていたシャンデリアが、朽ち果てた骸骨のように吊り下がっていた。
リズの足取りが、目に見えて重くなる。
(……嫌な、匂い)
埃とカビの混じった匂いが、なぜかかつての高価な蜜蝋と香水の匂いを思い起こさせた。その匂いの思い出は、さらに澱のような悪い思い出を呼び起こす。
着慣れない窮屈なドレス、作法を見定める父の冷たい視線。
『挨拶一つできない不出来な娘』
不意に、暗がりから父の叱責が聞こえた気がして、リズは肩をすくめ、自分の腕を抱いた。
「リズ……?」
カイルが心配そうに振り返る。
「……大丈夫、です……」
リズは青ざめた唇で嘘をつき、おずおずと一歩を踏み出す。
大理石の床に硬質な足音が響く。
響く音が過去からやってくる亡霊のように感じる。
リズは息を止め、不気味な椅子の群れの中を足早に歩を進める。
晩餐室の端、大きく構えられた観音開きの扉。
大広間へと続く扉。
「開けるぞ」
カイルが重い扉を引くと、錆びついた蝶番が悲鳴を上げ、「銀白の館」の中心部を現す。
晩餐室よりもさらに高い円形の吹き抜け。
天井近くにある窓から差し込む月光が、細い筋となって降り注いでいる。
その冷たい光が、白と黒の市松模様に敷き詰められた大理石の床を照らし出す。
壁際に並ぶソファには、すべて大きな布が被せられていた。
青白い月明かりの下にひしめくそれはまるで帰らぬ主を待ち続ける亡霊のよう。
六年前の惨劇を隠すように片付けられた光景が、かえってこの場所でおきた暴力の激しさをほのめかしている。
「ここは……覚えがあるな」
カイルの低い呟きが、広い空間に響く。
「カイルはここによく忍び込んでいましたからね……」
リズの口から、場違いなほど小さな、いたずらっぽい笑みが漏れた。
「ん?あぁ……」
カイルの曖昧な返事を聞きながら、リズは表情を引き締め、大広間の中央へと歩み寄った。
カツン、カツンと大理石を叩く足音が、冷え切ったホールに音高く響く。
大広間の床の中心で月光を浴びて鈍く光るクロムウェル家の紋章が過去の栄華を伝えるようにきらめく。
リズはその紋章――銀の鏡井戸と竜胆の意匠――の縁に立ち、足元を震える視線で見る。
「六年前のあの夜……晩餐会が終わった後でした。突然の襲撃があったのは」
口にした途端、リズは喉の奥が乾いたように感じた。
「お父様とお母様は、ここで何者かに殺されました……」
リズは辛い思い出に身を震わせながら、吹き抜けの上層を指し示した。
「魔導書ブランとノワールは……いつも、あそこに安置されていました」
歴代女性当主の肖像画が厳かに並ぶその下方、抉り取られたようにぽっかりと開いた二つの四角い穴。
それを見上げた瞬間、リズの脳裏にあの日の惨劇が呼び起こされた。
晩餐会の後、自室に戻ったリズは、階下の異音に驚いて、部屋を飛び出し、広間の吹き抜けへと駆け寄った。姉のイザベラが、身を隠しながら階下を食い入るように見つめている。
姉イザベラの視線を追うと、ホールの中心で、リズの父が母を背にかばいながら、覆面の賊と対峙しているのが見えた。大柄な長髪の男が抜き身の剣を父に突き付けている。
リズも手すりの隙間から、息を殺してその光景を見下ろす。
父が何かを叫んだ直後、賊の剣が父を容赦なく切り裂き、続いて母の胸元を刺した。
リズとイザベラは短く悲鳴をあげてしまう。
返り血を浴びた賊が、二階へと視線を上げた。二人の存在に気付いたのだ。
確かな殺意と共に、ゆっくりと一段ずつ階段を登り始めた。
「……リズ、この本を持って逃げて!」
姉は壁に埋まった白い本を取り出すと、震える手でリズの胸へと力任せに押し付けた。
腕に伝わる冷たく重い感触に、リズの思考が止まる。
「いや!お姉様は?」
問いかけるリズの視界の端で、賊が一段、また一段と迫ってくるのが見えた。
マスクの奥に冷たい目が光る。黒い眼。黒く長い髪。
「奴らの狙いは、この二つの魔導書……私はもう一冊を持って、あいつらを引きつけます」
「でも……」
「行って!お願い!」
姉の叫びに突き動かされ、リズは弾かれたように背を向けた。
腰をかがめ、賊に見つからないように、反対側の階段を下りる。
振り返る勇気などなかった。
ただ白い本を抱えて、リズは闇に沈んだ晩餐室へ入り、外へ逃げ出そうと一心不乱に駆け出した。
「その後、俺と会ったわけか……」
カイルの低く抑えた声に、リズは無言で深く頷いた。
あの日、晩餐室から外へと続く薄暗い廊下で、リズは必死に逃げる途中でカイルと遭遇したのだ。二人は地下貯蔵庫へ滑り込み、賊の目をかわすことができた。
「その男は、どんな奴だった?」
「黒い長髪の、大柄な男でした……マスクのせいで顔までは分かりませんでしたが、ひどく冷たい目だけは覚えています」
リズの言葉に、カイルは苦悶に満ちた声を上げた。
「……やはりあいつか!!」
カイルは歯を食いしばり、再び手を喉に当てる。
「そうかもしれません……」
リズは自らの震える肩を抱きしめた。
お姉様が囮になってリズを逃がした直後、あの恐ろしい賊がすぐに自分を追ってきたのだとしたら、お姉様が無事でいられたとは到底思えない――最悪の想像が脳裏に渦巻く。
リズは一度強く目をつぶり、乱れる呼吸を整えた。
「……本が収められていた場所に行きましょう」
吹き抜けの二階を見上げ、リズは震える心を押さえるように言った。
二人の足音が、冷え切った大理石の階段に硬く響き、静まり返ったホールにこだまする。一段登るごとに湧き出る恐怖に、リズの鼓動は速まるばかりだった。
カイルは周囲に鋭い視線を配り、守るようにリズのすぐ後ろを追う。
たどり着いたホールの二階、壁面には抉り取られたような二つの四角い穴が並んでいた。
リズは震える手で純白の魔導書を一方の穴にかざす。
「これが……『ブラン』が収められていた場所です」
その穴は魔導書と同じ寸法で、本を収めるために作られたものであることが明らかだった。周りの意匠も明らかに最初からデザインされたものに見える。
「まるでこのホール自体が本を収めるために作られたみたいだな……」
「そうですね……昔からこうなっていました……」
リズの視線が隣の穴に移る。
「もう一方が……黒の魔導書『ノワール』です」
だが、そこにはやはり求める本はなく、ただぽっかりとした四角い空間があるだけだった。
「やはり奪われていたか……」
苦々しく呟くカイルに、リズは力なく
「そうですね……」
と応じた。
その時、リズの目は穴の片隅に残された小さな異変を捉えた。
ノワールが収められていた場所に残る乾いて黒ずんだ、痛々しい血痕。
「お姉様……っ」
それは姉イザベラが抵抗した証のように見えた。
リズは白い魔導書を胸に抱きしめ、堪えきれずに涙をこぼした。
溢れ出す悲しみに、リズの肩が細かく震え出す。
悪夢のような思い出で満たされた我が家。
たどり着いた真相は余りにも残酷だった。
消え入りそうに震える小さな背中を温かな重みが包みこむ。
カイルが、大きな腕でそっと抱きしめた。




