止まった時(1)
幼い頃、馬車に揺られながら何度も通り抜けた森の道を、カイルとともに馬に乗って進む。
(昔と同じ景色……だけど……)
思い出の中では、木漏れ日が降り注いでいた温かな小道。
眼の前にあるのは、わずかな月明かりのもと、冷たい闇を抱える道。
その暗さのあまり、この先に見慣れた我が家があるのだろうか……と心もとなく思う。
やがて馬は深い木立を抜け、視界が開ける。
「……あっ」
リズの唇から、息が漏れる。
門の向こうに、見慣れた館がそこにはあった。
かつて「銀白の館」と評されたクロムウェル邸。
淡く輝く石灰石の壁に蔦が絡みつき痛々しい姿をさらしている。
(今の私みたい……)
縛られた館がリズの胸の奥に痛みをもたらす。
カイルに支えられて、馬を降り、リズは正面玄関へと歩み寄った。
かつては多くの客人を迎えていた大扉は、王家の紋章をつけた錠前と鎖で厳重に封印されていた。
リズは無言で、錆びついた鎖をそっと撫でる。
革手袋越しに伝わる鉄の冷たさが、止まってしまった時間を感じさせる。
「待ち伏せや野盗の類はいないようだ」
カイルが黄金の瞳を細め、周囲を警戒している。
「待ち伏せ?」
こんなところに誰かが待ち伏せしているだろうかと、リズは眉をひそめる。
「ゲセン侯爵は6年前の襲撃の関与を匂わせていた。侯爵の手のものがここで待ち伏せていても不思議ではない」
カイルは剣の柄に右手を添えたまま、あたりを見回す。
そのカイルの緊張がリズにも伝わる。王子が言ったように、この旅は安全なものではない。いつ敵に襲われるかわからない危険な任務なのだ。
月光を背にしたカイルの鎧姿が頼もしく見える。
リズは胸の前で固く握りしめていた拳を、そっと解いた。
「ふぅ……」
息を吐いて、リズはカイルの服の裾を、控えめに引いた。
「カイル、裏手の……通用門からなら、入れるかもしれません……」
彼を裏手へと導こうとしたその時、振り返ったカイルの手が、不意にリズの手の甲に触れる。
「あっ……!」
予期せぬ接触に、リズは反射的に手を引いてしまった。
けれど、カイルはその大きな掌で、リズの手を優しく、それでいて抗えない強さで包み込み、そのまま通用門へと歩き出した。
「まだ安全かはわからん……俺の側を離れないでくれ」
彼は一度もこちらを振り返らない。
「……はい」
繋がれた手から流れ込んでくる彼の熱が、リズの心にじわりと染み入る。
引かれる手の感触が愛おしくて、暗がりに紛れてリズは小さく唇を緩ませた。
たどり着いた通用門のノブを、カイルがゆっくりと引く。
軋んだ音を立てて開いた先には、静かな闇が広がっていた。
カイルが手元のランプをつけ、かざす。
ゆらめく光が、埃にまみれた寄木細工の床を照らし出す。
光の輪が動くたび、散らばった食器の破片や、荒々しく刻まれた壁の傷が浮かび上がる。
足元から奥へと続く、どす黒い引き摺り跡が、六年前の惨劇を物語っていた。
「侵入の形跡もない。……入るぞ」
灯りを床に寄せ、真剣な眼差しで積もった埃を見つめていたカイルがそう告げる。
一歩踏み出した直後、頬にまとわりつく嫌な感触に、リズは思わず身をすくませた。
「ひゃっ……!」
「リズ!大丈夫か?」
「……クモの巣……ですね。ごめんなさい、驚いてしまって……」
慌ててクモの巣を払うリズを見て、カイルは安堵したように息を吐くと、髪についた白い糸を、そっと払ってくれた。
「敵はいないようだが、気をつけて進もう」
木の床を軋ませながら、二人はさらに奥へと進む。
揺れるランプの火影が、廊下の先にある、ひときわ大きな染みを赤黒く浮かび上がらせた。
六年の時を経て残る大きな血の跡に足がすくむ。
「これは……」
リズは気づいてしまった。
あの日、地下室から飛び出した時に見た、カイルが戦った跡。
この血はカイル本人の血だ。
カイルが反射的に、かつて傷つけられた、自らの喉元を強く押さえる。
「カイル……大丈夫、ですか?」
堪らず見上げると、彼の強張った表情がランプに照らされていた。
「ああ。……大丈夫だ」
カイルはゆっくりと膝を折り、敗北の象徴である血痕を、慈しむように撫でた。
「ここは俺が敗れた場所でもあり……リズに救われた場所でもある……」
カイルの穏やかな笑みがランプに照らされる。
「あの時……俺を救ってくれてありがとう、リズ。この命は君が繋いでくれたものだ」
まっすぐに向けられた、一点の曇りもない感謝の眼差し。
リズはそれを真っ向から受け止めることができず、逃げるように目をそらしてしまった。
「あの時のことは……私にも、よくわからなくて……」
わだかまりを抱えつつ、リズもまた、あの時、自分が座っていた場所へ、ゆっくりと腰を下ろした。
冷たい木の床の感触が、当時の絶望の記憶を呼び起こす。
自らの血の池に倒れるカイルの姿。
「あの時、魔導書が私に力を与えてくれました」
リズはつらい記憶を脳裏に呼び覚ます。
「どういうことだ?」
カイルの問いに答えるように、リズは鞄から純白の魔導書を取り出した。
「これがその『白の魔導書』です。『ブラン』と呼ばれています」
差し出した本を開き、指先で本をたぐる。
僅かに燐光を放つその紙面には何も書かれていなかった。
「これは……?」
怪訝そうに眉を寄せるカイルの視線を感じながら、リズはとつとつと言葉を紡ぐ。
「この本の全てのページは、真っ白でした。あの時までは……」
リズの脳裏に浮かぶのは、死に瀕したカイルの苦悶の表情。
「私は、倒れているカイルを見て、介抱しようとしました。でも、あまりに傷が深くて……ただ、なんとかしてこの傷を治してほしいと、強く願いました」
リズの手があるページで止まった。
「その時、本が眩しく光り……これが浮き上がってきたのです」
そのページには複雑な図形と奇怪な文字が書かれていた。およそ見慣れぬ言葉たち。
「これは?」
「そもまま読めば、アスンプティオ・ウリネリス・コンウェルシオ・マキシマ・リネア・ミニマ……と……」
「全然わからんな」
「そうですね……ただ、私はこれを読んだとき、この力の使い方が頭の中に直接流れ込んできて理解できたのです」
「なるほど……」
「私が白い魔導書から、与えられた魔法は、対になった能力。傷を吸い取る力『ヒール』と貯めた傷を返す力『リバーシ』です」
「そうだったのか……」
カイルが納得したように呟く。
「この魔導書は我が家の血を引く女性にだけ読めると聞いています。でも、私はその秘密を詳しく教えられてはいませんでしたから、これ以上は何も……」
「……そうか」
「この力が何なのか、いつまで使えるのか。その代償が、私をどう変えてしまうのか……知りたいことは山ほどあります……でも……」
俯いていた顔を上げ、リズはカイルを真っ直ぐに見つめた。
「あの時、カイルを助けられた。それだけで、私はこの力に感謝しているのです」
心の底からの言葉とともに、柔らかな微笑を浮かべる。
「リズ……」
魔導書に添えられたリズの小さな手の上に、カイルが大きくたくましい手をそっと重ね、身を寄せる。
伝わってくる熱が、不安を溶かしていく。
「ありがとう。君のおかげで、今の俺がここにいる」
「カイル……」
吐息と、日向のような匂いにリズは包まれる。
吸い寄せられるように、二人の額が軽く触れ合った。
「……っ、すまない」
不意に我に返ったようにカイルは、照れを隠すように、首元をさすりながら立ち上がった。
その不器用な動作に、リズの頬もゆるむ。
「それにしても、あの時の賊……すさまじい手練だった。ゲセン侯爵の息がかかっているなら、名のある使い手なのかもしれん」
カイルが腕を組み、かつての敵を思い出すように目を細めた。
ランプに照らされるその表情はいつになく険しい。
「そんなに、恐ろしい相手だったのですか?」
「ああ。異国の剣術のような、独特な刃筋……俺も修行を重ねたが、あれほどの使い手は騎士団にもそうはいない」
カイルの腕に力が入る。
「また、襲ってくるかもしれませんね……」
「大丈夫だ。今度は必ず、返り討ちにしてやる」
リズがつい口にしてしまった不安に、カイルは頼もしく胸を張り、腰に下げた剣の柄を叩いた。
「ふふ、頼りにしています」
カイルの自信に満ちた言葉に、リズは心からの笑みを返した。
「ところでリズ、その『白の魔導書』と対になる『黒の魔導書』は、どこにあったんだ?」
「両方とも同じ場所に飾られていました……中央の大広間です。行きましょう」
二人は再び手を取り合い、闇の向こうの大広間へと歩み出した。




