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傷跡令嬢のリバーシ  作者: ビヨンドほうじ
第三章 つながりの夜
13/30

止まった時(1)

幼い頃、馬車に揺られながら何度も通り抜けた森の道を、カイルとともに馬に乗って進む。

(昔と同じ景色……だけど……)

思い出の中では、木漏れ日が降り注いでいた温かな小道。

眼の前にあるのは、わずかな月明かりのもと、冷たい闇を抱える道。

その暗さのあまり、この先に見慣れた我が家があるのだろうか……と心もとなく思う。

やがて馬は深い木立を抜け、視界が開ける。

「……あっ」

リズの唇から、息が漏れる。

門の向こうに、見慣れた館がそこにはあった。

かつて「銀白の館」と評されたクロムウェル邸。

淡く輝く石灰石の壁に蔦が絡みつき痛々しい姿をさらしている。

(今の私みたい……)

縛られた館がリズの胸の奥に痛みをもたらす。

カイルに支えられて、馬を降り、リズは正面玄関へと歩み寄った。

かつては多くの客人を迎えていた大扉は、王家の紋章をつけた錠前と鎖で厳重に封印されていた。

リズは無言で、錆びついた鎖をそっと撫でる。

革手袋越しに伝わる鉄の冷たさが、止まってしまった時間を感じさせる。

「待ち伏せや野盗の類はいないようだ」

カイルが黄金の瞳を細め、周囲を警戒している。

「待ち伏せ?」

こんなところに誰かが待ち伏せしているだろうかと、リズは眉をひそめる。

「ゲセン侯爵は6年前の襲撃の関与を匂わせていた。侯爵の手のものがここで待ち伏せていても不思議ではない」

カイルは剣の柄に右手を添えたまま、あたりを見回す。

そのカイルの緊張がリズにも伝わる。王子が言ったように、この旅は安全なものではない。いつ敵に襲われるかわからない危険な任務なのだ。

月光を背にしたカイルの鎧姿が頼もしく見える。

リズは胸の前で固く握りしめていた拳を、そっと解いた。

「ふぅ……」

息を吐いて、リズはカイルの服の裾を、控えめに引いた。

「カイル、裏手の……通用門からなら、入れるかもしれません……」

彼を裏手へと導こうとしたその時、振り返ったカイルの手が、不意にリズの手の甲に触れる。

「あっ……!」

予期せぬ接触に、リズは反射的に手を引いてしまった。

けれど、カイルはその大きな掌で、リズの手を優しく、それでいて抗えない強さで包み込み、そのまま通用門へと歩き出した。

「まだ安全かはわからん……俺の側を離れないでくれ」

彼は一度もこちらを振り返らない。

「……はい」

繋がれた手から流れ込んでくる彼の熱が、リズの心にじわりと染み入る。

引かれる手の感触が愛おしくて、暗がりに紛れてリズは小さく唇を緩ませた。


たどり着いた通用門のノブを、カイルがゆっくりと引く。

軋んだ音を立てて開いた先には、静かな闇が広がっていた。

カイルが手元のランプをつけ、かざす。

ゆらめく光が、埃にまみれた寄木細工の床を照らし出す。

光の輪が動くたび、散らばった食器の破片や、荒々しく刻まれた壁の傷が浮かび上がる。

足元から奥へと続く、どす黒い引き摺り跡が、六年前の惨劇を物語っていた。


「侵入の形跡もない。……入るぞ」

灯りを床に寄せ、真剣な眼差しで積もった埃を見つめていたカイルがそう告げる。

一歩踏み出した直後、頬にまとわりつく嫌な感触に、リズは思わず身をすくませた。

「ひゃっ……!」

「リズ!大丈夫か?」

「……クモの巣……ですね。ごめんなさい、驚いてしまって……」

慌ててクモの巣を払うリズを見て、カイルは安堵したように息を吐くと、髪についた白い糸を、そっと払ってくれた。

「敵はいないようだが、気をつけて進もう」

木の床を軋ませながら、二人はさらに奥へと進む。

揺れるランプの火影が、廊下の先にある、ひときわ大きな染みを赤黒く浮かび上がらせた。

六年の時を経て残る大きな血の跡に足がすくむ。

「これは……」

リズは気づいてしまった。

あの日、地下室から飛び出した時に見た、カイルが戦った跡。

この血はカイル本人の血だ。


カイルが反射的に、かつて傷つけられた、自らの喉元を強く押さえる。

「カイル……大丈夫、ですか?」

堪らず見上げると、彼の強張った表情がランプに照らされていた。

「ああ。……大丈夫だ」

カイルはゆっくりと膝を折り、敗北の象徴である血痕を、慈しむように撫でた。

「ここは俺が敗れた場所でもあり……リズに救われた場所でもある……」

カイルの穏やかな笑みがランプに照らされる。

「あの時……俺を救ってくれてありがとう、リズ。この命は君が繋いでくれたものだ」

まっすぐに向けられた、一点の曇りもない感謝の眼差し。

リズはそれを真っ向から受け止めることができず、逃げるように目をそらしてしまった。


「あの時のことは……私にも、よくわからなくて……」

わだかまりを抱えつつ、リズもまた、あの時、自分が座っていた場所へ、ゆっくりと腰を下ろした。

冷たい木の床の感触が、当時の絶望の記憶を呼び起こす。


自らの血の池に倒れるカイルの姿。

「あの時、魔導書が私に力を与えてくれました」

リズはつらい記憶を脳裏に呼び覚ます。

「どういうことだ?」

カイルの問いに答えるように、リズは鞄から純白の魔導書を取り出した。

「これがその『白の魔導書』です。『ブラン』と呼ばれています」


差し出した本を開き、指先で本をたぐる。

僅かに燐光を放つその紙面には何も書かれていなかった。

「これは……?」

怪訝そうに眉を寄せるカイルの視線を感じながら、リズはとつとつと言葉を紡ぐ。

「この本の全てのページは、真っ白でした。あの時までは……」

リズの脳裏に浮かぶのは、死に瀕したカイルの苦悶の表情。

「私は、倒れているカイルを見て、介抱しようとしました。でも、あまりに傷が深くて……ただ、なんとかしてこの傷を治してほしいと、強く願いました」

リズの手があるページで止まった。

「その時、本が眩しく光り……これが浮き上がってきたのです」

そのページには複雑な図形と奇怪な文字が書かれていた。およそ見慣れぬ言葉たち。

「これは?」

「そもまま読めば、アスンプティオ・ウリネリス・コンウェルシオ・マキシマ・リネア・ミニマ……と……」

「全然わからんな」

「そうですね……ただ、私はこれを読んだとき、この力の使い方が頭の中に直接流れ込んできて理解できたのです」

「なるほど……」

「私が白い魔導書から、与えられた魔法は、対になった能力。傷を吸い取る力『ヒール』と貯めた傷を返す力『リバーシ』です」

「そうだったのか……」

カイルが納得したように呟く。

「この魔導書は我が家の血を引く女性にだけ読めると聞いています。でも、私はその秘密を詳しく教えられてはいませんでしたから、これ以上は何も……」

「……そうか」

「この力が何なのか、いつまで使えるのか。その代償が、私をどう変えてしまうのか……知りたいことは山ほどあります……でも……」

俯いていた顔を上げ、リズはカイルを真っ直ぐに見つめた。

「あの時、カイルを助けられた。それだけで、私はこの力に感謝しているのです」

心の底からの言葉とともに、柔らかな微笑を浮かべる。

「リズ……」

魔導書に添えられたリズの小さな手の上に、カイルが大きくたくましい手をそっと重ね、身を寄せる。

伝わってくる熱が、不安を溶かしていく。

「ありがとう。君のおかげで、今の俺がここにいる」

「カイル……」

吐息と、日向のような匂いにリズは包まれる。

吸い寄せられるように、二人の額が軽く触れ合った。

「……っ、すまない」

不意に我に返ったようにカイルは、照れを隠すように、首元をさすりながら立ち上がった。

その不器用な動作に、リズの頬もゆるむ。

「それにしても、あの時の賊……すさまじい手練だった。ゲセン侯爵の息がかかっているなら、名のある使い手なのかもしれん」

カイルが腕を組み、かつての敵を思い出すように目を細めた。

ランプに照らされるその表情はいつになく険しい。

「そんなに、恐ろしい相手だったのですか?」

「ああ。異国の剣術のような、独特な刃筋……俺も修行を重ねたが、あれほどの使い手は騎士団にもそうはいない」

カイルの腕に力が入る。

「また、襲ってくるかもしれませんね……」

「大丈夫だ。今度は必ず、返り討ちにしてやる」

リズがつい口にしてしまった不安に、カイルは頼もしく胸を張り、腰に下げた剣の柄を叩いた。


「ふふ、頼りにしています」

カイルの自信に満ちた言葉に、リズは心からの笑みを返した。

「ところでリズ、その『白の魔導書』と対になる『黒の魔導書』は、どこにあったんだ?」

「両方とも同じ場所に飾られていました……中央の大広間です。行きましょう」

二人は再び手を取り合い、闇の向こうの大広間へと歩み出した。



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