7話 夜の散歩
その夜、鈴音はなかなか寝付くことができなかった。
原因は明白だ。日中、鈴音のもとに大金が入ってきたから、興奮で寝ることができないのだ。
それだけじゃない。ずっと自分が祓魔師としての才能がないと思っていたのが、実はすでに魔を祓っていたなど、衝撃の事実が多すぎた。
頭の中でまだ整理がついていない。
少し散歩をしよう。しばらくすれば眠たくなるはずだ。
鈴音は物音を立てないように、外へと出た。
桜はまだ満開だった。
普通の桜なら、季節的にもとうに散っているはずだが、妖世界の桜は少々違うのだろう。
夜になっても淡く輝き、怪しげで神秘的な桜をいつまでも眺めていられるような気がした。
何気なく歩き出す。
「それにしても、私、誰かの役に立ててたんだなあ」
振り込まれた報酬よりも嬉しかったのは、それだった。
少しでも役に立てればと掃除を続けていたが、それが実際に誰かの助けとなった。これほど嬉しいことはない。
「ふふふーん」
上機嫌に、鼻歌まで歌ってしまう。
妖狐家の庭園を歩く。
最近、余裕が出てきたことで手入れが入ったこの庭園は、以前はとても荒れていた。
しかし今は木々は剪定され、池には鯉が泳ぎ、余計な雑草は抜かれていて、とても風情のある景色になっている。
明かりは持っていないが、等間隔で足元に小さな灯籠が並んでいるので、迷う心配もない。
すると木々の隙間、遠くの方に、本殿の屋根に誰かが乗っているのが見えた。
狐の耳、と揺れている尻尾から、その人物が妖であることがひとめでわかる。
(なんて綺麗なひと……)
思わず、鈴音は見とれてしまった。
目を見張るほどの絶世の美貌。
つややかな絹のような髪に、彫刻のような整った輪郭、切れ長の瞳に、すっと通った鼻梁。
テレビで見てきたアイドルや俳優など目ではない美を携えた人物が、そこにはいた。
ひと目見て、鈴音には分かった。
あれは九尾だ、と。
***
昔から、女性という存在が苦手だった。
妖狐家の当主という肩書に群がり、欲にくらんだ笑みを浮かべ、すり寄ってくる存在は、おぞましいものでしかなかった。
いや、彼女たちがすり寄ってくる理由は、それだけではないことはわかっている。
女性が一番すり寄ってくる理由は、この顔だ。
あまりにも整いすぎていた容姿。
これが彼女たちの目を引きつけ、離さない。
これまで何人もの女性が自分との婚約を持ちかけてきた。
中には四華に劣らない家格を持ち、婚約者として申し分ない相手もたくさんいた。
しかし、容姿や肩書ばかりを見て寄ってくる相手を、どうやってこれから先の人生をともに歩む相手としてみることができるだろうか。
できれば婚約するのは、容姿だけでなく、しっかりと内面まで見てくれる相手と……などと考えてはいるが、それは難しいということを知っている。
大事なのは妖狐家の存続。そして四華という地位と受け継がれてきた社を守り、穢れを祓い続けることだ。
だから、妖ではなく、人との婚約を行ったのは、一種の当てつけのようなものだった。
自分の中身ではなく、容姿や肩書ばかりを見て群がってくる相手への。
そのうえ、目にも特異体質があった。
魔眼、と呼ばれる性質の瞳で、目があった相手を魅了する効果があるのだという。
幸いにもその効果は微弱で、本来であれば対して生活に支障も出ず、相手の愛想が僅かに良くなる程度の効果しか無かったのだという。
だが、整った顔を持つ自分にとって、それは最悪のかけ合わせだった。
絶世の美貌と魅了の魔眼は、数多くの女性を虜にした。
ひとたび目が合うだけで理性を狂わせてしまう。
だから顔を隠すことができる狐面を被ることにした。
仮面には術をかけ、魅了の魔眼の効果を完全に打ち消した。
以降はある程度、女性が寄ってくることも少なくなったが、それだけでトラウマが消えるわけでもない。
だからといって、仮面が快適であるわけでもない。仮面をつけている時は当主としてのスイッチが入り、気が休まることはない。
仮面を外すことができるのは、一人の時だけ。
本当の意味で落ち着くことができるのは、こうして一人屋根に登り、仮面を外して景色を眺めているときだけだった。
「彼女は、どこか違う」
桜を眺めながら、彼は呟く。
人間の婚約者。
はじめはただなんとも思っていなかった。
しかし自分の内にある穢れを祓ってくれてから、彼女に対する自分の態度が、徐々に変わり始めていることを自覚していた。
それだけではない。
彼女が自分に向ける視線が、他の女性とは違う。
ただ、ひとりの存在として、対等に接されている、そんな気がする。
自分の顔と魅了の魔眼を見れば、それも崩れ去ってしまうのだろうが。
そんなことを考えていると、ふと視線を感じた。
思わず視線を向けると、そこにいたのは件の少女──鈴音だった。
「しまっ……」
彼は思わず顔を隠す。
同時に、彼女の自分に見惚れるような目を見て、ああ、と失望が心のなかに広がっていくのを感じた。
顔と魅了の魔眼をはっきりと見られてしまった。じき、彼女は自分の美貌に理性を失い始めるだろう。
他とは違う女性だと思っていた彼女が、他の女性と同じ存在へと成り下がってしまった。
なんとも身勝手な失望だと自分でも思う。
ただ、もっとこの関係を続けたかった──。
しかし、彼女は思いがけない行動に出た。
「九尾様!」
笑顔でこちらに振ると、勢いよく駆け寄ってきたのだ。
そしてそのまま、近くにあったはしごを使い、本殿の上に登ってくる。
「えっ」
彼は困惑し、うろたえる。
すると鈴音がたてかけていたはしごが滑った。
「うわっ!」
鈴音の身体が傾く。
この高さから落ちれば、怪我は免れないだろう。
「っ!」
彼は必死に鈴音の腕を掴み、引き上げた。
ずっと床に伏せていた彼だが、霊力を身体の中で回して身体能力を向上させ、鈴音を必死に落とすまいと力を込めた。
鈴音の身体を優しく屋根の上に降ろす。
「わ、ありがとうございます」
「あなたは、何をしているのですか!」
九尾は鈴音に怒る。
「急にこんなところへ登ってきて! 落ちたら怪我をするなどわかりきっているでしょう!」
「で、でも九尾様も屋根の上に……」
「私は平気です。これくらいの高さ、かすり傷ひとつ負いません。……それで、どうしてここへやってきたんです」
「九尾様が屋根の上で桜を見ていたので、私も桜を屋根の上から見ようと思ったんです」
「……そんなことのためにやってきたのですか?」
「えへへ、すみません。でも、屋根の上の景色、綺麗だろうなって思ったら我慢できなくて」
鈴音が舌を出す。
「あなたは……」
九尾が呆れたようにため息をついたところで。
──鈴音と普通に話せていることに気がついた。
「なぜ……」
九尾は声を漏らす。
今は仮面を外している。魅了も魔眼もある。
それなのに、鈴音はあのような理性の狂った女性の表情を浮かべていない。
鈴音が桜を見て、目を見開く。
「わぁ……きれいな桜ですね! こんな景色、見たことがありません!」
陽だまりのような、屈託のない笑みを浮かべている。
「?」
邪気のない顔で首を傾げる鈴音。
「……あなたは、大丈夫なのですか?」
思わず九尾は訊ねた。
「大丈夫がって、なにがですか?」
「その、私の顔を見て、なにか感じませんか?」
「そうですね……とてもきれいな顔だなと思いました!」
「……それだけですか?」
「? はい。……あっ、ごめんなさい。私、語彙力がなくてあまり凝った表現ができないんです」
申し訳なさそうに頭を下げる鈴音に、九尾は身体から力が抜けていくのを感じた。
「……そういえば、歩くだけで結界を破った、と言っていましたね」
有雲の話では、大浴場の結界を、まるで紙を破るように入っていったという。
もしかしたら、身体にまとっている聖なる気が、自分の魅了の魔眼を弾いているのかも知れない、と九尾は分析する。
初めてだった。自分の素顔を見てすり寄ってこない女性は。
「なんの話ですか?」
「いえ、つまらない話です。気にしないでください」
もうどうにでもなれ、と九尾は仮面を外したまま受け答えをする。
やぶれかぶれなはずなのに、やけに清々しい気分だった。
そこで、仮面を外して誰かと話すのは、随分と久しぶりだったことを思い出す。
「いやあ、綺麗ですねえ桜。こうも綺麗だと、お茶とか団子とかを持ってきて食べたくなります」
「花より団子ですか。あなたはブレませんね」
「えっ、そんなことありませんよ? 桜は綺麗だなー、って思って見てますし」
「そうですね」
九尾はクスクスと笑う。
「鈴音さん、ひとつ、聞きたいことが」
「なんですか?」
「どうして祓魔師になろうと思ったのですか?」
「人の役に立ちたかったからです」
「なぜそう思ったんです?」
「うーん、そう言われるとあやふやなんですが……確か、子供の頃、まだ祖父が生きていた時に、醤油を取ってあげたんです。笑っちゃいますよね。ただ食卓で醤油の瓶を渡しただけなんです。そしたら、『ありがとう』って言われて、それが無性に嬉しくて、誇らしくて。多分そこから、私は誰かの役に立つのが嬉しいと感じるようになったんだと思います」
「それは……素敵なお話ですね」
「あっ、なんだか馬鹿にしてませんか、九尾様?」
「いえいえ、馬鹿になどしていませんとも。本心からそう思っています」
「本当に〜?」
鈴音が顔を覗き込んでくる。
しばらくは真面目な顔を保っていた九尾だが、ついに我慢できなくなり、破顔した。
それにつられて鈴音も声を上げて笑う。
──ああ、彼女は他の女性とは、違う。
九尾は確信を抱いた。
自分の中で、鈴音に向ける感情が、他の女性に向けるものとは違うことを自覚する。
その時だった。
「っ!」
九尾の身体に怖気が走った。
気持ち悪いこの感覚は知っている。
社から、大量に穢れが溢れている時……つまりは異常事態が起きている合図だ。
九尾は即座に立ち上がり、屋根を駆け上って、社の方を見る。
すると遠くから離れてもわかるほど、社の周囲に黒い靄が広がっているのが見えた。
「九尾様、どうしたんですか!?」
鈴音が訊ねてくる。
「社から穢れが溢れ出してきました」
「えっ、どうして……」
「わかりません。ですが早急に対処しなければ、境内から穢れが溢れ出します。そうなれば大惨事になるでしょう」
「そんな……」
「私は今すぐに社へ向かいます」
「っダメですよ! 九尾様は病み上がりなんですよ!」
「そうも言っていられません。あれは私が対処しなければならなそうですから」
これ以上の問答は惜しい。そう考えた九尾はそのまま屋根を降りて、社の方向へと向かった。
普通の人間には出せない速度を出しながら、九尾は桜の木々の間を駆ける。
祓魔師は霊力を体内で巡らせることで、身体能力を向上させ、普通の人間とはかけはなれた身体能力を手に入れることができる。
社の前の石段に来ると、すでに有雲がいた。その後ろに、心配そうな表情を浮かべた朱里がいる。穢れの気配で起きたのだろう。
「有雲、どうなっていますか?」
「最低でも四級が二十。三級が十。二級以上が五体はいます」
簡潔で普通の人間なら分からないほどの情報の圧縮量だが、九尾はその意味を理解することができた。
「他の祓魔師は?」
「要請をかけていますが……」
増援は期待できない、ということだろう。
ここにいる九尾と有雲で対処しなければならない。
「全快であれば対処できたでしょうが、今の私でどこまでもつか……」
体内から穢れは消え去ったが、完全にその影響がなくなったわけではない。
長年寝ていたせいで、多少なりとも力はまだ弱ったままだ。
「待ってください!」
その時、ひとりの少女が走ってきた。
それは鈴音だった。




