4話 大浴場の清掃
「うーん、今日はお仕事、頑張ったなぁ……」
夜、鈴音は自室で伸びをしていた。
掃除で全身を使った後の、どこかさっぱりとした疲労に心地よさを感じていると、時計が目に入った。
「さてと、そろそろ夜ご飯を作りに行こうかな」
朱里も九尾の夕食を作り終えて、丁度調理場でかち合うこともない。
それに食材も余ったものしかないので、余計に気を使う必要もなく夕食を作れる。
腰を浮かしたところで、ふすまの向こう側から朱里の声が響いた。
「鈴音様、お食事のご用意ができました」
「あ、はい」
朱里がふすまをあける。
手には料理が乘せられた膳を持っていた。
つやつやとした炊きたての白米に、食欲をそそる味噌汁。
天ぷら、刺身のお造りに豆腐の田楽、焼き鯖に茄子と、見るからに豪勢な献立だった。
丁寧に、おかわりのための白米が入ったおひつまで持っている。
「鈴音様のお口に合うとよろしいのですが……」
「いや、絶対に美味しいとは思いますけど……」
鈴音は苦笑いを返す。
先ほど、社で掃除しているところを見せてからというもの、朱里の態度の急な変わりように、鈴音は少々困惑していた。
なにせ、したことと言えば掃除をしただけなのだ。
(あの荒れ果ててた社を掃除したのが、そんなに嬉しかったのかな)
そんなことを考えながら、鈴音は一口、味噌汁を飲む。
「っ美味しい……!」
「それは良かったです」
鈴音の言葉に朱里が笑みを浮かべた。
清宮家にいたときも、このような豪華な食事を食べることができなかった鈴音は、夢中で朱里の食事を口に運ぶ。
その様子を嬉しそうに眺めていた朱里は、鈴音に思い出したように告げた。
「お風呂もすでに沸かしております。お好きな時に入ってくださいね」
「はい、ありがとうございます」
本当に、これまでが嘘のような態度の変わりようだ。
しかし、掃除しただけでここまで親切にしてくれるのなら、まあいいか、と鈴音は気にしないことにした。
「本当なら大浴場を使っていただきたかったのですが……」
「大浴場がどうかしたんですか?」
「今、大浴場は使用禁止なのです。現状の妖狐家では、大浴場の清掃ができるほど人手が足りていなくて……」
困ったように朱里が頬に手を当てる。
「っそれって掃除ができてないってことですか!?」
「……よしっ」
「ん?」
朱里が小さくガッツポーズを取った。
鈴音が首を傾げると、朱里の表情がすぐに笑みに戻る。
「いえ、なんでもありませんよ。ほほほ……」
露骨に怪しい朱里の態度だったが、このときの鈴音は掃除しがいのありそうな場所を見つけたため、全く気にしていなかった。
白米をゴクリと飲み込むと、鈴音は朱里に詰め寄る。
「あの、そこを掃除しても構いませんか?」
「けれど、そのようなことを鈴音様にしていただくのは……」
「大丈夫です! いえ、させてください!」
「そこまで言うのなら……」
「やった! ありがとうございます!」
鈴音は満面の笑みを浮かべる。
その傍ら、朱里もまたガッツポーズを取っていることには気がついていなかった。
***
翌日、鈴音はその大浴場の掃除に向かった。
朱里に案内してもらい、大浴場の扉を開けた鈴音は、嬉しそうな声を漏らす。
「わぁ……すごく掃除しがいのありそうな場所ですね!!」
大浴場は、昨日、鈴音が想像していたとおりの、とても〝汚れ〟がたくさんある場所だった。
本当に長年放置されていたのだろう、あらゆるところに強い汚れが付着している。
「これはすごく気持ちよさそう……って、さっきから一つ気になってるんですけど、そちらの方は?」
鈴音は朱里の隣に立っている中年の男性を指して言う。
「私は九尾様の側近をしております、有雲と申します」
ぺこり、と有雲がお辞儀をする。
「あ、よろしくお願いします」
それに合わせてお辞儀を返した鈴音は、質問の答えが返ってきていないことに気がついた。
「あの、それでどうしてここに……?」
「鈴音様のお掃除を見せていただこうと思いまして」
「特に何も面白いところは無いと思いますが……」
「お気遣いなく」
有雲はゆっくりと首を振る。
そして懐から取り出した呪符を、鈴音に渡して自分も手に持った。
(なかなかマイペースだな、この人)
鈴音はそう感想を抱きつつも、意識を目の前の宝の山へと戻した。
何年も掃除されていなかった大浴場、掃除すれば一体どれだけの汚れが取れるのか……。
鈴音は身震いをした。
まず、意識を向けたのは木の壁だ。
天井にかけて、黒カビに似た汚れがびっしりと張り付いているが、どうやらカビではない。
黒カビだったら、ここまで根深く繁殖されると落とせなかったが、ただの汚れであるなら、拭き取れる。
まずは手近な壁に洗剤をかけ、拭き取る。
ごっそりと汚れがとれた。
「ふふふ……こんなにたくさん」
鈴音が真っ黒になった雑巾を見て笑っていると、背後でガシャン! と大きな音がした。
慌てて鈴音が振り返ると、有雲が倒れていた。
「だ、大丈夫ですか!?」
「問題ありません。少々、腰を抜かしただけです」
有雲は真面目くさった顔のままそう言って起き上がる。
鈴音が不思議に思いながらも掃除に戻ったところで、朱里と有雲が話す声が聞こえてきた。
「一体何なのですか、あれは」
「だから言ったとおりでしょう、有雲様」
「ありえん。長年無理だったものが、こうもあっさりと簡単に……」
人間の洗剤の凄さに驚いているのだろうか、と鈴音は思った。
そんなことを考えながらも手を動かし、まずは一面を綺麗にする。
「ほぉぉ……」
鈴音は綺麗になった壁面と、まだ汚れている壁面を見比べて、目を輝かせる。
きれいになった場所と、まだ汚れている場所のギャップが、非常に強い快感をもたらすのだ。
「んふふ」
鈴音は含み笑いを漏らしながら、別の壁面にとりかかる。
このときにはもう朱里と有雲の存在は、頭の中から消え失せていた。
他の壁面も洗剤で汚れを次々と拭き取っていく。
しかし途中で、鈴音の動きが徐々に鈍くなってくる。
「どうかしましたか?」
朱里が問いかける。
「めちゃくちゃ疲れてきました……」
届かない位置には脚立を使い、雑巾で拭いているのだが、これがとても体力を使うのだ。
「では、掃除の続きは明日に……」
「いえ、待ってください!」
有雲の言葉に待ったをかけて鈴音は脚立から降りると、持ってきた掃除用具の下へと向かう。
そしてあるものを取り出した。
「あの、それは?」
「壁用のモップです! これなら疲れも大丈夫なはずです!」
「それがあるなら、雑巾を使う必要はなかったのでは……?」
「できるだけ汚れは雑巾で拭き取りたいんです!」
有雲の突っ込みにそう返しながら、モップで汚れを取っていく。
モップを導入した効果はすぐに現れた。
やはり雑巾を使うのに比べて、疲れがあまり来ない。
やっぱり、今度からは大人しくモップを使うことにしよう、と鈴音は思った。
「魔物がモップに倒されてる……」
「私は、悪夢でも見ているのでしょうか……」
朱里と有雲が、慄いたように言う。
しかしその会話は、汚れを取ることに夢中な鈴音の耳には届かなかった。
数時間かけて壁面の汚れを取った後は、ブラシを使って地面を掃除する。
一度ブラシをかけるごとに、黒い海藻のような謎の汚れが固まって取れていく。
そうこうしている内に、大浴場の掃除をあらかた終えた。
上機嫌に鼻歌を歌っていると、部屋の片隅に、黒く汚れた空気が漂っていることに気がついた。
「?」
なんとなしに、鈴音は手元の洗剤をかける。
すると黒い空気が霧散した。
「なんだ、ただのホコリか」
きっと長時間締め切っていたせいで、空気が汚れていたのだろう、と鈴音は納得する。
空気を換気しようと、窓を開けていき、最後に近くにあった扉を開けてみた。
「あっ、露天風呂もあるんですね」
「えっ? え、ええ。大浴場と同じく今は締め切っていますが」
「? じゃあ、掃除しても構いませんか?」
「もちろん、全く問題ありません」
「ありがとうございます!」
許しが出たので、鈴音は笑顔で礼を述べ、露天風呂へと出た。
岩を並べて作られた露天風呂。周囲には灯籠が並べられ、木の衝立の向こう側からは、満開の桜がこちらへと枝を伸ばしている。夜になれば灯籠に照らされて、幻想的な雰囲気を醸し出すのだろう。
大浴場と同じ、いや、それよりも黒い汚れがいたるところに付着しているが、掃除すれば問題なく使えるようになるだろう。
鈴音は湯口から、少しずつ浴槽に湯が流れ続けていることに気がついた。
使っていなそうなこの露天風呂に湯を送り続ける意味はない。あるとすれば、湯が止められない場合だけだ。
「これ、温泉なんですか?」
鈴音は振り返って訊ねた。
「ええ。ここは源泉が湧き出ておりまして。残念ながら数年間使えませんでしたが」
「それは勿体ないですね。……ん? もしかして、ここを掃除すれば、毎日温泉に浸かれるってことですか!?」
鈴音の勢いに押され気味の有雲が頷く。
「は、はい。使っていただいて結構ですが」
「よしっ!」
鈴音はガッツポーズを取った。
「すぐに綺麗にして、使えるようにしますね!」
露天風呂。屋敷では風呂に入っていると『穀潰しが風呂なんて贅沢な』と睨まれるため、隙を見計らうように入らなければならなかった。
当然、カラスの行水だ。湯船にゆっくりと浸かる時間などなかった。
だからこそ、鈴音は露天風呂という言葉に異常に執着した。
掃除道具を手に取り、早速掃除を始める。
すると朱里が心配そうに訊ねてきた。
「鈴音様、大丈夫ですか? 身体の疲れなどは……」
「大丈夫です! まだまだ掃除できます!! それにみなさんも早く露天風呂に入れたほうが嬉しいと思うので!!」
鈴音は力こぶを作る。
この時の鈴音の頭の中には、露天風呂しか頭になかった。
「ふんふん、ふーん」
鈴音は上機嫌に鼻歌を歌いながら、掃除をしていく。
みるみると汚れが取れていく。
すると鈴音は小さな社があることに気がついた。
「あ、こんなところに」
いつもの癖で、二礼二拍手一礼を行う。
すると拍手が響き渡り──。
「あれ……?」
鈴音の視界が傾く。
身体から力が抜け、その場に崩れ落ちた。
最後に見えたのは、こちらに駆け寄ってくる朱里と有雲だった。
鈴音が目を開けると、朱里と有雲が顔を覗きこんでいた。
「鈴音様、大丈夫ですか?」
「あれ? 私、なんで床に……?」
どうやら掃除をしていたら、急に意識を失ったらしい。
寝不足だろうか? しっかり毎日七時間は寝ていたはずなのに。
もしかしたら、慣れない環境に気を張っていたところに、掃除の重労働を経て、身体に限界が来たのかもしれない。
鈴音は身体を起こし、朱里に訊ねる。
「私、どれくらい気を失っていましたか?」
「およそ数分程度です」
「そうですか……ああっ!?」
周囲を見渡した鈴音が叫ぶ。
「汚れが全部消えてる!? なんで!?」
まだ掃除の途中だったにもかかわらず、謎の黒い汚れがすべて消えていた。
もしかして自分が気絶していた間に、二人が掃除をしたのだろうか、と視線を向けると、二人は首を横に振った。
「そんなぁ……まだ途中だったのに」
「ま、まあ綺麗になったなら良いじゃないですか」
「この通り、今日から露天風呂も使えるようになったわけですし」
せっかく掃除しがいのある汚れを目の前で失い、涙目になった鈴音を必死に宥める二人。
「それよりも疲れたのではありませんか? 日も暮れてきましたし、今日はもう休まれてはいかがでしょう。ご夕食には羊羹をおつけいたしますよ」
「えっ、羊羹ですか!?」
実家ではあまり甘味を食べることができなかった鈴音にとって、甘い物はごちそうだった。
「はい。社と大浴場のお礼も兼ねまして、妖の中でも有名な店の羊羹を取り寄せました」
「食べます!」
食いつく鈴音に朱里がニコリと笑う。
「他には欲しいものはございませんか?」
「え、欲しいものですか?」
「はい。大浴場を掃除していただいたお礼です。今ならどんなものでもおつけしますよ」
珍しく有雲がにっこりと笑いながら言う。
鈴音は考える。
「どんなものも、ですか?」
「はい。装飾品や着物など、欲しいものならなんでも」
有雲の提示してきた条件に、鈴音は面食らった。
掃除をしただけでそのような報酬を提示されるのは、大げさ過ぎる。
流石にそこまでのものを貰うのは申し訳ない。
しかし貰えるものは貰っておきいところ。
「では……スイーツをいただけませんか!」
「えっ」
「スイーツ、ですか?」
「はい。明日のおやつにスイーツをいただけないでしょうか」
「……ええと、そんなものでよろしいのですか?」
「えっ? じゃあ、明日から食後のデザートを二品にしていただくことも?」
「……可能、ではありますが」
「本当ですか!?」
鈴音は目を輝かせる。
まさかこんな要求が通るとは思っていなかった。
「ありがとうございます!」
感謝する鈴音に対して、二人はなにか言いたげにしつつも、鈴音が納得しているならと身を引いた。
「ではこちらへ。お食事のあとは露天風呂にゆっくりとお浸かりください」
「あ、はい。もう……綺麗になりましたしね」
鈴音が露天風呂を見渡して残念そうに呟く。
しかしもう綺麗になったものは仕方がない。
気兼ね無くゆっくりと露天風呂で羽を伸ばそう、と鈴音は思った。
今日も出てきた豪勢な夕食のあとに羊羹を食した鈴音は、露天風呂に入っていた。
「あー、気持ちいい……」
灯籠の明かりで照らされた夜桜を見上げながら、鈴音は呟く。
湯面に浮かぶ桜の花びらを見ていると、とんでもない贅沢をしているのではないかという気分になってくる。
「朱里さんのご飯も美味しかったけど、羊羹も美味しかったなぁ……妖の世界のお店らしいけど、どんなところなんだろ」
軽く伸びをして、大きく息を吐く。
「はぁ……なんだか、ここに来てよかったかも」
妖狐家の妖は親切だし、こんな豪華な露天風呂にも入ることができている。
まだ掃除しかしていないというのに、随分もてなしてくれている、と思う。
「私もちゃんと役に立たないと」
頬を叩いて気合を入れる。
祓魔師として役に立っていないのだから、掃除くらいは頑張って貢献しなければならない。
「祓魔師と言えば、全然魔物に遭わないなぁ。流石にこっちにきたら、魔物の一体や二体くらい遭遇すると思ってたんだけど……」
ひそかに魔物と遭遇することを期待していた鈴音は、深くため息をついた。




