3話 使用人は気づく
そして、鈴音が九尾のもとに嫁いてから数日が経った。
妖狐家の使用人である朱里の仕事は、多岐にわたる。
掃除洗濯の他、料理、はては妖狐家の仕事までもこなす。
現在、朱里は毎朝の仕事である、主人への朝食作りをこなしていた。
献立は全て食べやすいものばかりで固めている。
床に伏せがちな主人のために、少しでも食べやすく、なおかつ栄養のあるものを作るのが朱里の務めだ。
「よし、できた」
朱里が満足する出来のものが作り上がったとき、調理場に中年の男性が入ってきた。
彼の耳に生えた狐の耳と、揺れる三本の尻尾が、妖狐であることを物語っている。
「有雲様、九尾様のお食事ができました」
有雲と呼ばれた男性が、朱里の作った朝食の最終チェックを行う。
主人である九尾の口に入るものだ。万が一を危惧して、有雲は毎回念入りにチェックを行う。
翌朝、朱里は狐面の男性について歩いていた。
狐面の男性は食事の乗せられた膳を持っている。
献立はすべて食べやすいものばかりで固められている。
「九尾様、お食事をお持ちいたしました」
朱里がふすまを開けると、九尾が身を起こし、外の様子を眺めていた。
「ありがとう、有雲」
九尾が優しげなほほ笑みを浮かべて狐面の男性に礼を言う。
有雲は九尾の側近であり、一番信頼を寄せている人物だった。
優しげで人当たりのいい九尾と違い、寡黙で仕事人気質な有雲だが、主人である九尾に対する忠誠心は人一倍ある。
「本日は調子がよろしいのですか」
「ええ。最近はかなり身体の調子が良いのです。社に集まる穢れが少なくなっているのかもしれません」
「……申し訳ございません。我々がもっと祓魔師として力を持っていれば」
「あなた達が謝る必要はありません。境内にいる魔物も穢れも、どれも二級以上でなければ歯が立たないようなものばかり。これも全て妖狐家の当主である私が不甲斐ないから起きた出来事ですから」
「っそんな! 不甲斐ないなんてことはありません! 社を使い、穢れが各地に散らないようにしている時点で、九尾様は十分当主としてのお役目を果たされています」
朱里は思わず叫ぶ。
「朱里」
「……申し訳ございません」
有雲に視線で咎められ、朱里は視線を落とした。
「ありがとうございます、朱里。ですがやはり私は当主としてはまだまだです。魔物などに遅れを取らなければ、社に穢れを集める必要などなかったのですですから」
「魔物は一級を超えた、数十年に一度の極級でした。その上他の四華は応援要請にも応えず、妖狐家単独で対処せざるを得ないというトラブルも重なっています。九尾様のせいだけとは言えません」
「それでも、私が強ければ、魔物から受けた傷を何年も引きずることも無かったのです……ごほっ」
喋りすぎた九尾が咳をする。
「九尾様」
有雲が腰を浮かせる。
それを九尾が手で制した。
「大丈夫です。ただ喉に水分が足りないだけですから」
「今、お茶を用意いたします」
朱里が茶を用意したそれを一気に飲み干した九尾は、一息をついた。
そして自分の胸にある大きな傷を、包帯の上から撫でた。
「せめて、この身体の内にある穢れを祓うことができれば、九尾として仕事ができるようになるのですがね」
「体内の穢れを除去できる祓魔師に依頼は出しているのですが……」
「彼らも日々、魔物や穢れの対応に追われて多忙です。私のもとに来るのは難しいでしょうね」
その場に沈黙が降りる。
暗くなった雰囲気を変えるためか、九尾が話題を変えた。
「朱里、清宮鈴音はいかがですか?」
「あの人間ですか? 特に目立った様子はありませんが……」
「そうですか……できれば、このまま大人しくしていてほしいですね。欲を言うなら、少しばかりでも魔物を祓ってくれればいいのですが」
有雲と朱里は沈黙する。
五級祓魔師であり、魔物の討伐数がゼロの鈴音には、逆立ちをしても魔物を倒せないことを、二人は知っていた。
そしてできれば問題を起こしてほしくない、というのは同意見だった。
朱里は膝の上で拳を拳を握りしめる。
「人間は酷すぎます。あれだけ祓魔師を要請していたのに、来たのがあんなのだなんて。和平を結んでから百年も経つというのに、差別されてばかりです」
「文句を言っても仕方ありません。朱里、あれには頃合いを見て適度に飴を与えてあげてください。そうすれば満足して問題を起こすこともないでしょう」
「それでは、また九尾家としての出費が重なってしまいますが。足りない祓魔師を雇うための出費もありますし」
「それも必要経費です。問題を起こされるほうが、もっと面倒なことになりますから」
「……承知いたしました」
朱里は釈然としなかったが、九尾の命令に頷いた。
九尾への朝食を終えた後、朱里は廊下を歩きながら、ふと思った。
(そういえば、あの人間はどうなったのだろうか)
朱里は鈴音を部屋に案内してから、一度も顔を合わせていない。
基本、妖は昼頃から活動に入るため、人間とは生活リズムが違うのだ。
朱里が活動を開始する頃には鈴音がすでに起きて、朝食を作った形跡がある。
調理場から減っている食材の量から見ても、大して豪華な食事を作っているわけでもないので、放置して忘れていた。
一応、鈴音の使用人的な立場ではあるが、鈴音と関わりたいとは思っていなかった。
祓魔師として祓いができるならまだしも、まともに魔物も討伐したことがない鈴音に時間を割くより、他の仕事をこなしていたほうがマシだ。
「社の掃除は……流石にしてないか。あんな魔物の巣窟で掃除かなんかできるわけがないし」
祓魔師ではない朱里などが近寄れば、命を落としかねない。
一度朱里が近づこうとしたときも、穢れが強すぎて境内の中に入ることすらできなかった。
それにもかかわらず、鈴音に対して掃除の許可を出したのは、一種の意地悪だった。
祓魔師を要請したのにもかかわらず、役立たずの五級祓魔師を送ってきたことに対しての。
とはいえ、社は危険な場所だが、鈴音も祓魔師の端くれ。危険を感じれば逃げるか、そもそも近づかないことはできるだろう。
「そうだ、少し様子を見に行ってみようかしら」
ふとした気まぐれで朱里はそう呟いた。
もしかしたら、ふてくされて寝ているかもしれない。
その光景を見るのは、きっと面白いだろう。
もし祓魔師としての仕事を少しもしていないのなら、怒鳴り飛ばすこともできる。
役立たずの祓魔師を送られたこちら側の鬱憤も少しは晴れるというものだ。
様子を見る、というよりは完全にストレス発散の目的で、朱里は鈴音の様子を見に行った。
鈴音は部屋にはいなかった。
これでふて寝の線は外れた。となると、別の場所にいるのか。
勝手に歩いて、問題を起こされてはたまらないため、朱里は面倒くさいと思いつつ、鈴音を捜索することにした。
しかし本殿のどこを探しても鈴音の姿はない。
最後に探していないのは、あの社の周辺だけだ。
「まさか……」
朱里は嫌な予感がした。
もしかして、社の中で魔物に襲われ、そのまま死んでいるのではないだろうか。
鈴音が死んでいれば、大問題になる。
魔物の巣窟である社は、朱里にとってできるだけ近づきたくない場所だったが、背に腹は代えられないため、探しに行くことにした。
社へ続く石段を上がるにつれて、朱里は徐々に違和感を持つようになった。
以前は感じた強大な穢れの存在を、全く感じないのだ。
本来なら、魔物や穢れの力が強すぎて、石段を登っている最中に気持ち悪くなるはずだ。
空気も黒く淀み、石段を上がった先、境内は空気が真っ黒に見えるほどだが、今は黒い靄はなくなり、どこか空気が澄んでいるようにさえ感じてしまう。
あの魔物の巣窟から、ちょっとやそっとのことで穢れが消えているはずがないのに。
「私の感覚がおかしい? いや、そんなはずは……」
朱里は自分の調子がおかしくなり、穢れの存在を感知できなくなっているのかと思った。
けれど、どう見ても穢れは見えない。
このまま登っても大丈夫そうだ、と思った朱里は、石段を登りきる──。
「なに、これ……」
そして、目の前の光景を見て、呆然と呟いた。
「穢れが……ぜんぶ、消えてる……」
境内を埋め尽くす勢いで発生していた魔物と穢れが、ない。
朱里は自分の目を疑った。
しかし、ないものはない。
「社も綺麗になってる……九尾様が倒れてからずっと放置されてたはずなのに」
九尾が祓魔師として活動できなくなり、暫定的な措置として穢れを社の周囲に集めるようになってから、境内は魔物の巣窟となり、一流の祓魔師でなければ近づくことすらできない禁域になっていた。
それが晴れやかな陽光が木の隙間から差し込み、神々しささえ感じる場所へと変わっている。
生えていた雑草は全て抜き取られ、本殿は綺麗に清掃されている。
周囲を見渡していた朱里の背後から、突然声がかかった。
「どうかしたんですか?」
「っ!」
朱里が肩を跳ねさせて振り返ると、そこには鈴音がいた。
「あの……これ、どうしたんですか?」
朱里が境内を指差しながら訊ねる。
「? お掃除したんです。すごく汚れていたので」
「そ、掃除……?」
朱里は思わず困惑の声を上げた。
「あの魔物の巣窟の中で、掃除なんてできるはずがありません。妖狐家の二級以上の祓魔師を十人集めても祓い切れなかったんですよ?」
五級祓魔師が境内に入れば、たちまち大量の魔物に襲われるか、濃すぎる穢れに身体を毒されてそのまま帰らぬ人になる。
「そうなんですか? でも私が来たときには魔物の姿なんてなかったですけど……」
鈴音が首を傾げる。
その説明を聞いた朱里の脳裏に、とある考えがよぎる。
(いや、そうか。九尾様のお力か何かで、この人間が掃除に来たときには穢れがなくなってたのかも……!)
自分でも少し無理がある理屈だとは思っていたが、それで無理やり納得する。
「どうですか、すごく綺麗になったと思いません?」
鈴音は境内を指して、自慢げな表情で朱里に問いかける。
「はあ……確かに綺麗になりましたが」
「専用の掃除道具を持ってきたんです。これがあったから綺麗になったんですよ! それにもうすごいごっそり汚れが取れて! こんなに掃除しがいのある場所は初めてでした!」
どうにもいろいろなことが腑に落ちず、朱里は生返事を返しながら境内を見渡す。
まだ、目の前の光景を信じることができない。
あれだけこの社の穢れをどう祓うかを悩んでいたのに、穢れが跡形もなく消えているとは。
と、その時、朱里は拝殿の方に、黒い靄が生まれているのを発見した。
「っあれは!」
間違いない、穢れだ。
それはすぐに形を取り、黒い粘液のような魔物へと姿を変える。
低級の魔物だが、それでも祓うには祓魔師が必要だ。
「ん? ……あっ!!」
鈴音も朱里の視線をたどり、声を上げた。
「鈴音様、今すぐに祓魔師を呼んできましょう。あの程度で済んでいるうちにすぐ祓って──」
「また汚れが生まれてる!」
手に持ったワイパーに専用のシートを取り付けた鈴音が拝殿に向かって走り出す。
「え?」
朱里が止める間もなく、鈴音はその魔物に近づいて。
「えいっ」
ワイパーをかけた。
次の瞬間、魔物が消し飛んだ。
「……?」
朱里は目の前の光景が信じられず、目をこする。
だが、間違いなく、そこにいたはずの魔物が消えていた。
鈴音のワイパーによって。
朱里が言葉を発しようとした直前、また鈴音の近くに黒い靄が出現する。
「っ! 穢れが──」
「あっ、また汚れ!」
鈴音がワイパーをかける。
穢れが消滅した。
「………………は?」
一連の光景を目の当たりにした朱里が、素っ頓狂な声を上げる。
「ふぅ、きれいになった。いやー、なんでか知らないけど、目を離した隙に汚れが出てくるんだよね」
鈴音は朱里のことなどお構いなしに、額の汗を拭っている。
「な、なんですか、いまのは……」
到底信じがたい光景を目にして、様々な考えが頭を駆け巡り、処理落ちした朱里の脳が辛うじて絞り出した言葉がそれだった。
「え、なにって……お掃除しただけですけど?」
「……」
朱里が、とてもなにかを言いたそうな顔で固まる。
すると鈴音は思い出したように「あっ、忘れてた!」と言って、振り返る。
「お掃除、終わりました」
鈴音が拝殿に向かってお辞儀をする。
それは朱里が見ても見惚れるほど、美しい所作だった。
柏手。
次の瞬間、空気が澄み渡った。
その柏手は朱里がこれまで見てきたどんな一流の祓魔師よりも、清らかで、優しい浄化の力だった。
最後に一礼を終えた鈴音が朱里へと振り返る。
「えっと、それで……なんでしたっけ?」
そこで、朱里は思考を放棄した。
(あとは上司に任せよう)
そう考え、全てを上司の有雲の判断に委ねることにした。




