8-9 壊れた龍の歪んだ思い
冷たい風が吹き荒ぶ。
身も凍りそうな、冷気を孕んだ風だ。長い時をこの地で過ごしたが、異様な冷たさには今でも慣れない。
ただ、それだけが体を凍えさせるわけではない。同じくらい、いや、それ以上に冷たいものが、心の中で常に吹き荒んでいる。ここ最近は、より冷たく感じるようになった。
きっかけなど、大したことではない。人質に取った女に手を上げられなかったことが、オウリュウの心に妙な亀裂を入れただけだ。
女に手を上げることに、オウリュウは微かな抵抗があった。胸の内にて抱いたある女への思いが、そうさせているのかもしれないことは、オウリュウ自身が気づいている。
「どうしてだ、シルク。僕は、君にわかって欲しかっただけなのに」
無意識のうちに口にしていて、オウリュウは自身に驚いた。その思いは、もうとっくの昔に切り捨てたはずだ。
しかし、今になって当時のことが思い返されてしまう。思い出したくもないのに、色褪せていたはずの忌々しい記憶が、鮮明な色を取り戻して脳裏に映り出す。
誰よりも愛しかった人に斬られ、誰の目にも映らない場所に封印された、遠い日のことが。
あの日、オウリュウは世界に反旗を翻した。世界を守るための守護獣から、全てを破滅させ、支配する魔王になろうとした。数多の道具使いを殺し、多くのモノを手にかけた。
きっかけは、ただ自分に素直になっただけだった。あの頃から、オウリュウは全てが気に入らなかった。物を容易く使い捨てにする人も、その宿運を何の抵抗もなく受け入れるモノも、何もかもが気に入らなかった。一時は孤児だったオウリュウを拾ってくれた先代の守護獣に感化され、世界を守ろうと思ったこともあった気がするが、そんなものは気の迷いだったと今ならば思い定められる。
こんな世界など、ない方が良い。そう思った時、自身の中へと数多の怨霊が入り込んだ。この世界へと恨みを持つ、モノたちの霊だ。本来ならば、守護獣として打ち払うべき存在なのだが、オウリュウは受け入れた。受け入れ、悪しき感情に身を委ねると、自身の溜め込んだ感情は一気に爆発した。
爆発したらもう止まらないと思っていたのだが、それを止めたのがシルクだった。
シルクは人間なのにハイ・ユーザーで、それでいて守護獣を除いたら誰よりも強かった。その上、この世界に住まうモノよりもクロス・ワールドを愛していた。
そして、オウリュウのことを人一倍気にかけてくれた人だった。
生まれつき異様な力を備え、持て余していたオウリュウは、誰からも好かれることはなかった。寧ろ、鬼の子と呼ばれて忌み嫌われていた。自身が生まれつきハイ・ユーザーであったことと、異常なまでの道具の加護が、人々に恐怖を与えたのだ。
しかし、シルクが動じることはなかった。オウリュウが一人にならないようにできる限り傍にいてくれたし、先代が死に、一人で守護獣としてやっていかなくてはならなくなった時も、シルクは見守ってくれた。
その優しさは、まだ幼さが残る頃の自身には、何よりも温かなものだった。辛いことも寂しいことも、彼女がいたことで溶けて消えていたものだ。
オウリュウは、そんなシルクを始めは姉のように慕っていた。それが少しずつ高まっていき、愛しさに変わっていくのに、そう時間はかからなかった。
だが、そのシルクに対しても、一つだけ理解できないことがあった。クロス・ワールドを守りたい。その思いだけは、どうしても納得できなかった。
受け継いだ記憶の奥底には、鬼一法眼の願いがうっすらとだが残っている。この世界を、あるべき姿に。それが、法眼の願いだ。
その姿がどんなものかは、わからない。ただ、このまま守ることに意味はない。寧ろ、一度壊すべきだ。壊さずとも、今の状態から脱却し、作り直さないことには、世界は新たな姿を手に入れられない。悪しき感情に身を委ねる前も、オウリュウはそう思っていた。
だが、オウリュウの思いをシルクが共感してくれることはなかった。どれだけ説いても、受け入れてはくれなかった。
そしてそのまま、二人はぶつかり合うことになった。
何故、わかってくれないのか。どうして、戦わなくてはいけないのか。荒れ狂う感情に身を任せたとはいえ、迷いを抱いたままでは全力を出し切れなかった。シルクを殺せる機会はいくらでもあったはずなのに、どうしても殺せなかった。
結果、オウリュウは敗れ、封印された。
封印された間、オウリュウの中で憎しみが募っていった。何故の疑問はわかってくれないことへの怒りと変わり、やがて憎悪となった。
ただ、それでも愛しさは薄れなかった。薄れなかったからこそ、憎しみはさらに強く募った。どうしてわかってくれないのか。恨み言のように何度も叫んだのを、今でも思い返せる。
シルクの力が弱まり、封印が解けかけても、それは変わらなかった。今も、何故わかってくれないのかと思っている。
その思いがトラウマにでもなってしまったのか、オウリュウはシルクの幻影から逃れられなくなっていた。しかも、何がどう捻じ曲がったのか、女を見るだけでシルクの面影を見るようになってしまった。
だから、この国を襲撃する時は鉄鬼に任せたし、メディという女をさらった時も、自ら手を下せなかった。殺してしまえば、シルクをこの手にかけてしまう。そんな錯覚に陥ってしまいそうになるからだ。
冷酷な魔王が聞いて呆れると思ったが、オウリュウは自分を嘲笑うことすらできなかった。惨めで、辛さばかりが募る。ばかりか、体のあちこちが、斬られたように痛んだ。それは、ずっと続いている。
その感情をさらに助長させるのが、体にかけられた封印だ。
シルクが衰え、力の封印は解けつつあるとはいえ、ある一定以上は消えなかった。それは、間違いなくシルクが生きているからである。シルクが生きている以上、忌々しい封印が解かれることもない。
「……全部、シルクのせいだ」
ぽつりと呟いた言葉が、耳の奥で反響する。
シルクのせい。シルクが生きているせいで、こんなにも辛い思いをする。シルクがいるせいで、自身の願いは妨げられている。
何もかもが、シルクのせいだ。シルクが、全て邪魔をしている。
「……だったら、殺すしかない」
自分のものとは思えない低い声で呟いても、オウリュウは動じなかった。
誰よりも愛しい人を、この手で殺す。そうしなければ、最早前には進めない。抱いた愛も、募った憎しみも、今はもう邪魔でしかなかった。自らの手でしがらみを断ち切らないことには、オウリュウの望みは叶えられない。
オウリュウは、一度手を叩いた。途端に、鎧が擦れるような音が鳴り、重々しい足音が二つ聞こえてくる。
やがて、その足音は自身の近くで止まった。目の前には、二人の装甲騎士がいる。いずれも、自ら手にかけ、鉄鬼に改造した屈強の猛者だ。
「来い、お前たち。ヘイズ湿原に向かう。あの女は、必ずそこに現れるはずだ」
この国の北東に位置するヘイズ湿原には、玄武が守る魔法の撚糸がある。守護獣が玄武しか残っていない今、シルクは必ずこの地に足を運ぶ。糸が切れていて、玄武が暴走しているならば、尚のことだ。
――あの女を殺すのは、玄武が死んでからだ。
面倒事を先に片付けさせてからの方が、都合が良い。
守護獣を鉄鬼化させたのは、何も自身の手駒を増やすためだけではない。いずれ暴走させて自壊させ、この世界から消すつもりだったからだ。守護獣は、存在しているだけでクロス・ワールドに影響を与える。それは正直、邪魔でしかない。
だから、奴らが守護獣を斃してくれたのは、行幸と言っても差し支えなかった。朱雀が正気だったのは誤算だが、一人くらいならばどうとでもなる。
この際、玄武も仕留めてくれれば。あわよくば、その戦いでシルクが弱れば。そんな期待を、淡くも抱いている。
「行くぞ。あの女を、殺しに行く」
オウリュウの言葉に、二人が小さく頭を下げた。
それを一瞥してから、オウリュウはゆっくりと歩き出す。
刹那、冷たい風が肌を撫でる。
突き刺すような痛みが、胸に走った。一番真新しい腹の傷が、語りかけるようにゆっくりと痛む。
――お前に、本当に殺せるのか。
ジェネレイトで仕留めた男の揶揄したような声が聞こえた気がして、オウリュウは振り払うように腹を殴った。鈍い痛みが走ったが、突き刺すようなそれはすぐに鳴りを潜めた。
「殺してやるさ。僕がこの手で、殺してやる」
必ず、殺してやる。
自分に言い聞かせるように何度も繰り返し、オウリュウは狂ったように声を上げて笑った。
最中、頬を冷たいものが伝う。しかし、自分が笑いながらも涙を流していることに、オウリュウはしばらく気づかなかった。




