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9/13

三月十八日 あいだ

 三月に入ってから、私は机の上を片づけることが増えた。


 春が近いから、という理由もあったと思う。年度の切り替わりが近づくと、仕事でも私生活でも、なんとなく紙を揃えたくなる。要らないレシートを捨てて、書類をまとめて、使わないペンを引き出しの奥へ移す。そういうことをしていると、少しだけ落ち着く。


 ただ、今回はそれだけじゃなかった。


 六月の日記を見つけてから、私の手元には少しずつ紙が増えていた。

 団地でもらったコピー。

 佐伯と話したあとでスマートフォンに残したメモ。

 職場の会議室で気になったことを、忘れないうちに走り書きした付箋。

 ホテルの領収書。

 どれも取っておくようなものではないのに、捨てる気にはなれなかった。


 それぞれは小さい。

 一枚の紙、短いメモ、何気なく撮った写真。

 でも、何かに使えるかもしれないと思ってしまう。

 何に使うのかは自分でもよくわからなかった。


 その日は仕事が休みだった。

 昼のうちに部屋を掃除して、夕方から机に向かった。

 実家ではなく、新しく借りた部屋だった。ワンルームの小さな机は広くない。照明も少し白すぎて、夜になると紙の端だけが妙に明るく見える。


 私は引き出しからクリアファイルを出して、中身を机の上へ並べた。


 六月十四日の日記のコピー。

 八月、団地のことを思い出して書いたメモ。

 九月二十七日、佐伯と会ったときの会話の断片。

 十一月二日の自治会資料。

 十二月二十六日の会議室のことを殴り書きした付箋。

 一月九日のホテルの領収書。

 二月七日の夜、母が「箸多く出してなかった?」と言ったことを書いたメモ。


 そこまで並べてから、私は一度手を止めた。


 机の上に広がったそれらは、どれもばらばらだった。

 ノートのコピーは少し黄ばんでいて、ホテルの領収書はレシート用紙の白さが浮いて見える。筆跡も違うし、書いているときの自分の気分まで違う。

 それなのに、こうして並べると、どれも同じところへ向いているような感じがあった。


 私は日付順に置き直した。


 六月十四日。

 八月三日。

 九月二十七日。

 十一月二日。

 十二月二十六日。

 一月九日。

 二月七日。


 並べたあとで、何かが変だと思った。


 すぐには気づかなかった。

 六月から二月までの紙を眺めていて、ただ、並び方が少し悪いような気がしただけだった。日付の幅が不揃いだからかもしれないし、紙の大きさが違うからかもしれない。

 でも、そうやって順番に目で追っていくうちに、私はやっと、その違和感の形がわかった。


 十月だけ、何もない。


 私はそこで少し笑いそうになった。

 そんなの、珍しいことではない。記録を毎月残しているわけじゃないのだから、空白があるのは当たり前だ。六月の次が八月だって飛んでいるのだから、いまさら十月だけないことを気にするのはおかしい。


 けれど、笑えなかった。


 十月だけがない、というより、

そこに何かあったはずなのに抜けている

ように見えたからだった。


 私はその考えを振り払うように、紙をもう少し丁寧に並べ直した。

 ホテルの領収書を自治会資料の横へ置き、付箋が風でずれないよう小さな本を重しにする。

 それでも、六月から二月へ続く列の途中に、一枚分だけ机の木目が見えているような気がした。


 もちろん実際には、そんなスペースはない。

 全部の紙をぴたりと詰めて並べれば、ただの机の上だ。

 それなのに、見ていると、一枚抜いたあとの束みたいな並び方に見えてくる。


 私はスマートフォンを手に取って、写真フォルダを開いた。

 団地のことが気になってから、私は意識しないうちに少しずつ記録を残すようになっていた。ベランダを遠くから撮った写真、自治会資料のコピーを受け取った日の管理人室の前、ホテルの部屋番号が映ったカードキー、会議室の椅子の配置。

 見返しても意味のないものばかりだった。


 写真を遡っていくと、十月のところで指が止まった。


 何もない。


 正確には、写真はある。

 職場の書類や、コンビニで買った昼食や、空の写真。

 でも、あの記録の列に入れられそうなものだけが、きれいに見当たらなかった。


 それが余計に不自然だった。

 八月には団地のメモがあり、九月には佐伯との会話があり、十一月にはコピーがある。なのに、そのあいだだけ、何も残そうとしていない。


 私はスマートフォンを机に伏せて、今度は引き出しの中を探した。

 古いメモ帳、封筒、使いかけの付箋、クリアファイルの予備。

 整頓してあるつもりだったのに、探し始めると同じような紙ばかりが出てくる。


 そこで、小さく折り畳まれたレシート大の紙が一枚、奥から滑り落ちた。


 広げてみると、何かのメモだった。

 自分の筆跡に見える。

 けれど、いつ書いたのかすぐにはわからなかった。


 書いてあるのは短い言葉だけだった。


 ・十月

 ・コピー

 ・うつし?

 ・一枚多い


 私はその紙をしばらく見ていた。


 十月。

 コピー。

 うつし。

 一枚多い。


 それだけだった。

 どこのコピーなのかも、一枚多いのが何のことなのかも書いていない。

 でも、六月の日記からここまで続いている違和感の流れの中に置くと、それは他のどんな走り書きよりも嫌な形をしていた。


 私は慌てて、机の上の日付の列にその紙を入れてみた。


 六月。

 八月。

 九月。

 十一月。

 十二月。

 一月。

 二月。


 そのあいだ、九月と十一月の間に、その小さな紙だけを置く。


 すると今度は、列が落ち着いて見えた。


 私は息を止めた。

 落ち着いた、と思ってしまったこと自体が嫌だった。

 つまり私は、自分でも気づかないうちに、そのあいだに何か一つ必要だと思っていたことになる。


 机の上の紙を見回す。

 会話メモ。

 自治会資料。

 領収書。

 付箋。

 どれもそれぞれに違うのに、そこへその小さな走り書きが入るだけで、妙に収まりがよくなってしまう。


 私はその紙をもう一度手に取った。


 裏には何も書いていない。

 透かしてみても、水濡れの跡や印刷の影はない。

 完全に私のメモのはずなのに、内容だけが自分の記憶から浮いていた。


 うつし?


 その一語だけが、妙に引っかかった。


 コピーのことかもしれない。

 書類を複写したのかもしれない。

 あるいは、写真を撮したという意味だったのかもしれない。

 でも、そのどれもしっくりこなかった。


 私はノートを引き寄せて、これまでの共通点を書き出し始めた。


 学校。

 団地。

 会話。

 自治会資料。

 職場。

 ホテル。

 家。


 管理される場所。

 数が合わない。

 人が多い気がする。

 子どもを見たと言う人がいる。

 記録には残らない。

 残るとしても、余白や訂正や、あとで足されたメモだけ。


 そこまで書いてから、ペン先が止まった。


 十月


 その下に何も書けない。


 私はスマートフォンを開き、カレンダーを遡った。

 十月十一日のところに、小さな印がついていた。

 予定の入力ではなく、ただ丸をつけただけみたいな印だった。普段の私はそんな使い方をしない。予定ならちゃんと入力するし、丸だけつけることはまずない。


 十月十一日。


 その日が休日だったのか平日だったのかも、すぐには思い出せなかった。

 けれど、見た瞬間に、机の上の小さなメモの文字が急に現実味を持った。


 十月

 コピー

 うつし?

 一枚多い


 私はカレンダーの日付とそのメモを見比べた。

 頭の奥で何かが引っかかっている感じはあるのに、そこから先だけがどうしても出てこない。

 思い出せそうで、思い出せない。

 覚えていないというより、その部分だけうまく掴めない感じだった。


 そのとき、机の上に置いた自治会資料のクリアファイルが、少しだけずれた。


 風ではない。窓は閉まっている。

 でも、端がほんのわずかに机の外へ滑った。


 私は反射的に手を伸ばして押さえた。

 そこで、クリアファイルの下に何か薄い影があることに気づいた。


 一枚、紙が挟まっているように見えた。


 私はゆっくりクリアファイルを持ち上げた。

 けれど、その下には机の木目しかなかった。


 何もない。


 それなのに、左上のところにだけ、ホチキスを外したような穴の影が二つ並んで見えた気がした。


 私はそこで手を止めたまま、しばらく動けなかった。


 机の上にある紙の枚数は、ちゃんと数えれば合うはずだった。

 日付だって、六、八、九、十一、十二、一、二と並んでいるだけだ。

 そこへ勝手に十月を足しているのは、自分の頭のほうかもしれない。


 でも、もしそうだとしても、私はそれを無視できなくなっていた。


 十月十一日。

 その日付だけが、机の上のどこにもないのに、ずっと一枚ぶんの厚みを持って残っている。


 私はスマートフォンを手に取って、佐伯とのトーク画面を開いた。

 すぐには送らなかった。

 何を書けばいいのかわからなかったからだ。


 ――十月のこと、何か覚えてる?


 そこまで打って、消した。

 代わりにメモ帳へ移って、短く書いた。


 十月十一日を探す。


 それだけ保存して、私は机の上の紙をもう一度見た。


 小さな走り書きの紙は、さっきまで九月と十一月の間に置いていたはずだった。

 今は、六月の日記のコピーの横にずれていた。


 自分で触ったのかもしれない。

 さっきクリアファイルを押さえたときに、手が当たったのかもしれない。

 そう考えても、九月と十一月の間だけが、まだ紙一枚ぶん空いて見えた。


 私はそれ以上、並べ直すのをやめた。

十月の記録が見つかりました。

日付順に並べるため、正しい位置に挟んでいます。

この話のあとに読む場合は、十月の記録にお戻りください。

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