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二月七日 あわない

 二月に入ってから、実家の夜は少し長く感じるようになった。


 冬だから当たり前だ、と最初は思っていた。日が落ちるのが早いし、窓を閉め切っているぶん家の中の音が鈍くなる。外の冷たさに比べて、室内の明かりだけがやけに黄色く見えることもある。そういう季節のせいだと説明できる範囲のことだった。


 けれど、説明しきれない感じだけが少しずつ残るようになってから、私はなるべく夕方までに帰るようにしていた。暗くなってから玄関を開けると、家の中にあるものの位置関係が、一瞬だけ自分の記憶とずれて見えることがあるからだ。


 その日も、駅からの帰り道で、私は歩く速さを少しだけ上げていた。


 風が強く、吐いた息がすぐに流れていく。商店街の明かりはまだついていたが、人通りは少なかった。スーパーの袋を提げた人と二人すれ違って、信号待ちのあいだに手袋の指先を直した。大したことではない。いつもの帰り道だった。


 実家の前まで来ると、一階の居間のカーテン越しに光が見えた。

 母が夕食の支度をしている時間だろうと思った。玄関先の植木鉢は昼間と同じ位置にある。自転車は父のものが一台だけ。見慣れた景色のはずなのに、その日は玄関灯の明かりが少しだけ広く感じられた。


 私はそこで一度立ち止まってしまった。


 広い、と思った瞬間に、自分で嫌になった。

 灯りの輪がそんなに変わるはずがない。風で目が乾いているだけかもしれないし、仕事帰りで疲れているだけかもしれない。


 鍵を開けて中に入る。

 玄関のたたきには母のサンダルがあり、父の革靴はまだなかった。そこまではすぐに確認できた。自分の靴を脱いでそろえ、上がる。廊下の先から、包丁がまな板に当たる音が聞こえてきた。


「おかえり」


 台所から母の声がした。


「ただいま」


 返事をしてコートを脱ぎ、手を洗う。鏡の端に、自分の肩越しの廊下が少しだけ映る。振り返ると何も変わっていないのに、鏡越しだといつもより奥行きがあるように見えることがある。最近はなるべく見ないようにしていた。


 居間に入ると、父はいなかった。テレビだけがついていて、音量は少し低めだった。テーブルの上にはまだ何も並んでいない。私は鞄をソファの脇に置いて、そのまま台所を覗いた。


「何か手伝う?」


「じゃあ、お椀出してくれる?」


 母は振り返らずに言った。鍋の湯気が換気扇に流れていく。

 私は食器棚から汁椀を三つ出した。もう手慣れたもので、何段目のどこに何が入っているかは体が覚えている。


 三つ。

 そのつもりで出した。


 出したはずなのに、流しの横に置いたとき、一瞬だけ四つあるように見えた。


 私はそこで手を止めた。

 よく見ると三つだった。重ね方のせいで縁が二重に見えただけかもしれない。自分でそう思って、少し乱暴に位置をずらした。


「どうしたの」


 母が聞いた。


「いや、何でもない」


「疲れてる?」


「ちょっと」


 それで会話は終わった。

 母はそれ以上何も言わず、私も言わなかった。鍋の蓋が小さく鳴る音だけが残った。


 父が帰ってきたのは、それから十分ほどしてからだった。

 コートを脱ぐ気配、玄関で靴を揃える音、洗面所の水の音。いつもの流れなのに、その日はひとつずつの音が少し遅れて聞こえる気がした。実際にはそんなことはないのだろうけれど、家の中の距離だけがいつもより長いように感じられた。


 夕食は鍋だった。


 テーブルの中央に鍋敷きを置いて、カセットコンロを出し、取り皿と箸を並べる。私はなるべく箸の数を見ないようにした。数えた瞬間、そのことばかり気になるのがわかっていたからだ。母が箸立てから何本か抜き、私がそれを受け取って各自の位置に置く。父は居間のテレビを消して、いつもの席に座った。


 そこで初めて、食卓が少し狭いと思った。


 狭い、といっても本当に窮屈なわけではない。

 三人で鍋を囲めば、それなりに物は多くなる。小皿、飲み物、取り箸、薬味の小鉢。そういうものが増えれば、テーブルが詰まって見えることはある。


 でも、その日の狭さはそれと少し違った。

 鍋を囲んでいる三人のあいだに、もう一人分の気配だけがあるみたいに、視線の落ちる場所がきれいに残っている。

 椅子が足りない、という感じではない。

 むしろ、椅子をあと一脚入れたらちょうど収まりそうな、変に整った詰まり方だった。


 私は鍋の向こうの父を見た。

 父は何も気づいていないようだった。


「今日、寒かったな」


 父が言う。


「風強かったよね」


 母がそう返して、鍋の蓋を少しずらした。

 湯気が上がる。その向こうで、父の顔が一瞬だけ滲む。私はそこから目を逸らした。


 しばらくは本当に何でもない夕食だった。

 父が職場の話をして、母が近所のスーパーの特売の話をする。私は相槌を打ちながら、なるべく自分の皿だけを見るようにした。鍋から取り分ける手が重なるたびに、どこからどこまでが三人分なのか考えたくなるのがわかったからだ。


 母が途中で「あ」と小さく声を出したのは、二回目に取り皿を替えようとしたときだった。


「どうした?」


 父が聞く。


「いや」


 母は箸を持ったまま、食卓を見た。


「今日、箸多く出してなかった?」


 その瞬間、私は鍋の湯気の中で息を止めた。


「多い?」


 父はすぐに意味がわからなかったらしい。


「いや、なんか。最初、一本多かった気がして」


「一本って」


「だから、四膳並べたような気がしてたんだけど」


 母はそこで自分で笑った。

 冗談みたいに聞こえるようにしたかったのだと思う。


「でも三人だもんね。見間違いかな」


 父もつられて笑った。


「疲れてんじゃないか」


「そうかも」


 たぶん、それで終わる話だった。

 普通なら。


 でも私は、そこで何も言えなかった。

 六月十四日の日記を読んだときから、団地のベランダ、同級生との会話、自治会の記録、職場の会議室、ホテルの朝食会場――ずっと自分だけが拾ってきた違和感を、母が何気なく同じ調子で口にしたからだ。


 その一言を聞いた瞬間、食卓がさっきよりも一段だけ狭く感じられた。

 鍋の周りの空気が、見えない誰かに押されて少し詰まったように思えた。


「……三膳だよね」


 と、私はやっと言った。


「いまはね」


 母は軽く言って、箸立てのほうを見た。


「さっき、出しすぎたかなって思っただけ」


 父は何も気にしていない顔で鍋をつついている。

 その何でもなさが逆に怖かった。

 母の一言が、私の中でだけ急に重くなってしまった感じがした。


 食事が終わるころには、箸はちゃんと三膳分しかなかった。

 使った取り皿も三枚、コップも三つ。

 だから、どこにもおかしな証拠はなかった。


 私は自分で確認したくなって、食後に食卓の上を見直した。

 母が流しへ運ぶ前の皿の数。父が立ち上がったあとの椅子の位置。鍋の残り。

 全部、三人で食べたあとの形に見えた。少なくとも、そう言われればその通りだと思える程度には。


「何見てるの」


 母が流しの前から振り返る。


「いや」


 私は自分の声が少し乾いているのに気づいた。


「ほんとに箸、多かった?」


 母は一瞬だけ動きを止めた。

 でも、すぐに肩をすくめた。


「どうだろうね。そう見えただけかも」


「見えただけ」


「鍋だとごちゃごちゃするし」


 そこでまた笑って、母は洗い物に戻った。

 それ以上追及することはできなかった。


 私も流し台の横に立って、コップを洗うのを手伝った。

 スポンジの泡、湯気で曇る眼鏡、乾いた皿を重ねる音。

 何もかもが普通だった。


 その途中で、母がまた何気なく言った。


「でもさっき、一個多かった気がしたんだけどね」


 私は手を止めた。


「何が」


「だから、箸」


 母は本当に何でもない調子だった。


「ほら、最初に出したとき。お父さんもう座ってたっけって、一瞬思ったから」


 父はまだそのとき居間のテレビを消している最中だったはずだ。

 私はそう言いかけて、やめた。


「……そう」


「うん。でも今は合ってるでしょ」


 母は流しに立てかけた皿を見た。

 三枚。

 コップも三つ。

 箸も三膳分が水切りかごの中にある。


 それ以上、何も言えなかった。


 夜、父が先に寝て、母も部屋に入ってから、私はしばらく居間に残っていた。

 テレビは消してあり、台所の小さな電気だけがついている。

 鍋の匂いがまだ少し部屋に残っていた。


 食卓は片づいていた。

 テーブルの上には何もない。

 椅子も三脚、いつもの位置に戻っているように見える。


 私は立ったまま、その椅子を見ていた。


 一脚ずつ、床との位置を見る。

 脚の先がラグに残したわずかなへこみ。

 テーブルの縁との距離。

 それを順番に追っていくと、途中で一つぶんだけ、視線が滑る場所があった。


 椅子は三脚しかない。


 なのに、ラグの毛並みだけが、四つ目の脚を置いていたみたいに少し倒れて見えた。


 私は近づいてしゃがみ込んだ。

 手で撫でれば、たぶんただの癖のついた毛並みだ。そう思った。

 でも、触る前にやめた。触ってしまったら、今見えているものまで消えてしまいそうな気がした。


 そのまま立ち上がって、私は玄関まで行った。

 靴箱の前には、朝と同じように母のサンダルと父の革靴がある。私のスニーカーもそこに並んでいる。

 三人分。

 きれいに合っている。


 それなのに、たたきの左端だけが一足ぶん広く見えた。


 私はその場で、初めて声に出しかけた。


 何を、誰に報告するのかはわからなかった。

 でも、今日のことは私だけの勘違いではなかった。


 母も言った。

 箸が多かった、と。

 それだけで十分なはずだった。


 それなのに、結局私は何も言えなかった。


 翌朝になれば、きっと全部ふつうに見える。

 椅子の位置も、ラグのへこみも、玄関の余白も、昨日の疲れのせいだと説明できるようになる。

 そう思ったからだ。


 居間へ戻る途中、暗い廊下の途中で一度だけ振り返った。


 食卓は見えなかった。

 台所の灯りだけが、床の上に細く伸びていた。


 その光の端に、椅子の脚みたいな影が一本だけ余っているように見えた。


 私はすぐに電気を消した。

数が合わない場面を覚えている方はご連絡ください。

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