一月九日 かぎ
その日は朝から移動が長かった。
年明け最初の研修で、私は県外の会場まで出ることになっていた。日帰りだと少し厳しい距離だったので、前日入りして駅前のビジネスホテルに一泊する。職場ではよくあることで、私自身もこれまで何度か泊まったことがあった。特別な出張ではないし、気を張るような予定でもなかった。
ただ、年が明けてからずっと、何かを数えないようにするのが前より少し難しくなっていた。
駅のホームに並ぶ人の列とか、研修資料の部数とか、改札の向こうへ消えていく背中の数とか。視界に入った時点で、頭のどこかが勝手に数えようとする。数えたところで何も変わらないし、合っているかどうかを確かめたからといって安心するわけでもない。むしろ、数えたあとに残る感じのほうが嫌だった。
夕方、ホテルに着いたときにはもう少し疲れていた。
駅前の、ごく普通のビジネスホテルだった。フロントは明るく、ロビーには観光案内のパンフレットが並んでいる。自動チェックイン機の前に数人並んでいたが、待ち時間は短かった。
予約名を入力すると、カードキーが一枚出てきた。
1208
十二階の角に近い部屋だった。
ルームキーの番号を見るとき、私はたいてい、その階に何部屋あるのかを考えないようにする。十二階なら、〇一から〇八までなのか、もっとあるのか。そういうことを気にし始めると、廊下の長さや扉の数まで妙に目につくからだ。
エレベーターで十二階へ上がる。
乗っていたのは私一人だった。鏡張りの壁に、自分のスーツケースとコート姿が少し歪んで映っていた。ドアが開くまでの数秒が長く感じたが、それはたぶん移動で疲れているせいだと思った。
部屋に入ってすぐ、暖房をつけた。
窓際に細い机、ユニットバス、壁際のシングルベッド。見慣れた作りだった。荷物を床に置いてコートを脱ぐ。何もおかしなところはない。
そう思ったのは最初だけだった。
洗面台の横に、歯ブラシが二本あるように見えた。
私は一歩近づいて、見直した。
白い包装が二つ重なって見えただけで、実際には一本だった。たぶん髭剃りかヘアブラシの袋と重なっていたのだろう。そう気づけば何でもない。けれど、その一瞬だけ、自分が一人で泊まる部屋にしては備えつけが多いような気がした。
コップも、最初は二つ見えた。
これも、実際にはマグカップが一つと、ポットの横の透明な袋が重なっていただけだった。
私は息を吐いて、無駄に神経質になっているだけだと自分に言い聞かせた。
ホテルの部屋なんて、だいたいどこも似ている。見間違えることくらいある。
それでも、使い捨てのスリッパを手に取ったときだけ、少し嫌な感じが残った。
ビニールを剥がす前から、片方の底が少しだけ開いているように見えたからだ。
誰かが触ったというほどではない。もともとの折り目かもしれないし、私の見方がおかしかっただけかもしれない。
結局、私はそのスリッパを履かなかった。
しばらく部屋で資料を見直してから、飲み物を買いに行こうと思って外へ出た。
ホテルの自販機は一階と十階にあると案内に書いてあった。十階のほうが近いので、私はカードキーを持って部屋を出た。
廊下は静かだった。
足音がカーペットに吸われるせいか、歩いていても自分の位置が少し曖昧になる。左右に同じ形の扉が並び、壁の照明だけが均等に落ちている。こういう場所では、廊下の途中で立ち止まりたくない。自分の部屋番号を確かめるために振り返るだけで、扉の数が増えたように見えることがあるからだ。
エレベーターを呼ぶと、すぐに来た。
中は空だった。私は入り、十階のボタンを押した。
金属の壁に、コートの肩がぼんやり映っている。
扉が閉まり、下へ動き出す。
十階に着いてドアが開くまで、私は正面の表示だけを見ていた。
降りた瞬間、背中側の空気が少し狭かった。
誰かとすれ違うときみたいに、肩を引きたくなる感じが一瞬だけあった。
でも、振り返ったときにはエレベーターの中に誰もいなかった。
鏡の奥に見えるのは、自分の影と、閉まりかけた扉だけだった。
私はそこで数秒立ち尽くし、それから自販機のほうへ歩いた。
たぶん、狭い箱から出た直後の感覚が残っていただけだ。そう考えれば説明はつく。
それでも、エレベーターの中をもう一度見に戻る気にはなれなかった。
翌朝、朝食会場は二階だった。
チェックインのときに渡された朝食券を出して、中へ入る。ビュッフェ形式で、入口近くにトレー、奥に料理台、窓際に二人掛けの席が並んでいる。平日の朝で、そこまで混んではいなかった。
私はトレーを取って、一瞬だけ手を止めた。
前の客がまだ置いたままにしているのかと思ったが、トレーはきれいに積まれている。
それなのに、いちばん上の一枚だけが少し手前にずれていて、誰かがさっき取ろうとしてやめたみたいに見えた。
それくらいのことは珍しくもない。私は気にしないふりをして、そのトレーを持った。
席は空いていた。
窓際に二人掛けがいくつか並び、奥の四人席には出張らしいスーツ姿の人たちが座っている。
私は飲み物を持って、窓際のいちばん端の席に座った。
そのとき、隣の二人掛けの席に視線が行った。
空席だった。
けれど、テーブルの端にだけ、カトラリーを置いたあとのような間が残っていた。
ナプキンもコップもない。皿も下げられている。
なのに、そこだけきれいに片づけたあとみたいに見える。
人が座っていたというより、座る位置だけが少し整えられたまま空いている感じだった。
私は自分の席に座り直してから、一度だけ見ないようにした。
でも、食べているあいだも、隣の席との距離だけが妙に近く感じた。
食器の触れ合う音、コーヒーマシンの蒸気、遠くの咳払い。
どれもありふれたホテルの朝の音なのに、隣に誰かいるときにしかできない種類の圧が、そこだけ薄く残っている気がした。
食後、トレーを返して部屋へ戻る前に、フロント前の小さな台で領収書の確認をした。
名前と日付、それから朝食付きの宿泊プランであること。特に見る必要はないのに、最近は数字だけ目が行く。
宿泊人数 1
朝食 2
私はそこで指を止めた。
見間違いかと思って、もう一度見た。
宿泊人数は一人のままだった。
朝食の欄だけが二になっている。
後ろに待っている人はいなかった。
フロントに言えば、たぶんすぐに訂正してもらえる。
印字ミスか、プランの表記の問題かもしれない。ホテル側にとっては大したことではないはずだった。
けれど、私はそのまま領収書を折って財布にしまった。
聞いて、ただのミスだと言われたあとでも、自分だけがまだ気にしていたら嫌だった。
それに、何をどう説明すればいいのか、自分でもよくわからなかった。
朝食会場の空いた席のことや、エレベーターを降りたときに背中側が少し狭かった感じまで、一緒に思い出してしまっていたからだ。
チェックアウトの列に並んで、順番が来る。
フロントの若い男性にカードキーを渡すと、その人は一瞬だけ手元を見て、何か言いかけた。
「お預かりします。……あ」
私は顔を上げた。
「何か」
「いえ」
フロント係はすぐに笑顔に戻った。
「ありがとうございました」
それだけだった。
たぶん、本当に何でもなかったのだと思う。
ルームキーの番号を見間違えたとか、別の客と取り違えかけたとか、その程度のことだったのかもしれない。
ホテルを出て駅へ向かう道で、私は財布の中のカードキー返却控えと領収書をもう一度見た。
どちらも普通だった。
それでも、一人で泊まった部屋から、何かを一つ返し忘れてきたような感じだけが残っていた。
数が合わない場面を覚えている方はご連絡ください。




