十二月二十六日 せき
年末が近づくと、職場の空気は少しだけ曖昧になる。
休みに入る人がいる。午前だけで上がる人がいる。外勤のまま戻らない人がいて、逆にふだんは別のフロアにいる職員が会議だけ出に来ることもある。人の出入りそのものは特別なことではないのに、その時期だけ、同じ部署の人数が一日じゅうきれいに揃っている感じがしなくなる。
朝、ロッカー前ですれ違う顔ぶれも、昼休みに給湯室で会う人も、どこか半端だった。昨日までいた人がもう休みに入っていて、代わりにあまり話したことのない職員が座っている。年末は毎年そんなもののはずなのに、その日は朝から、自分だけ少し置いていかれているような感じがあった。
それまでは、そういうものだと思っていた。
けれど、十一月の団地のコピーを読んでからは、職場でも少しずつ目につくものが変わった。勤怠表の空欄とか、会議室の椅子の数とか、昼休みに空いているはずの席とか。数えないようにしても、目が勝手に拾ってしまう。
その日も、午前中に短い打ち合わせが入っていた。
会議室はふだん使っている小さな部屋で、長机が二列、壁際に予備の椅子が何脚か寄せてある。私は少し早めに入って、窓際の席に資料を置いた。
椅子が一脚多い、と最初に思ったのはそのときだった。
会議に出るのは六人のはずだった。机のまわりにはすでに六脚並んでいて、数だけならそれで足りている。
でも、入口側にもう一脚、半端な位置に椅子が引いてあった。
誰かが途中で増やしたのか、前の会議で戻し忘れたのかもしれない。そう考えれば済むことだった。私はその椅子を壁際に戻そうとして、やめた。あとから別の人が「そこ使ってたんだけど」と言い出すのも面倒だったし、たぶん誰も気にしないと思ったからだ。
けれど、座る前に一度その椅子の背もたれへ手を伸ばしかけて、私は止めた。
ほんの少しだけ、誰かがさっきまでそこにいたあとの温度が残っていそうな気がした。もちろん、そんなはずはない。触れてもいないのに、そう思った自分が嫌だった。
打ち合わせが始まると、椅子のことはすぐに忘れた。
議題は年末年始の連絡体制についてで、出勤日と休暇の確認、緊急時の連絡先、外部委託先の当番表の話が続いた。書類をめくる音と、誰かがキーボードを打つ音だけが、妙に乾いて聞こえた。
ただ、途中で一度だけ、向かい側の視界が狭くなった気がした。
誰かが立ったわけでもない。
荷物が増えたわけでもない。
それでも、入口側のあたりだけ空気が詰まるみたいに見えて、私はそこで一瞬話を聞きそびれた。
「藤崎さん?」
と、隣の席の同僚に小さく呼ばれた。
「あ、ごめん」
「大丈夫?」
「うん、ちょっとぼーっとしてただけ」
そう答えると、同僚は軽く笑った。
「年末だもんね。なんか今日、人多い気するし」
私は顔を上げた。
「人多い?」
「いや、気のせい。会議ってだいたいそうじゃない? 集まると狭く感じるし」
同僚はそこで話を切って、何事もなかったみたいに資料に目を戻した。
たぶん本当に、そのくらいの意味だったのだと思う。
でも、その一言だけが、打ち合わせの終わりまで残った。
会議が終わって立ち上がったとき、入口側の椅子はそのまま残っていた。
結局、誰も使っていなかった。
私はそこで初めて、最初に思ったよりも嫌な感じがしてきた。
会議中ずっと、あの椅子だけが空いたまま、机に少し寄りすぎた位置で止まっていたことに気づいたからだ。
誰かが引いたなら、そのまま戻すはずなのに。
戻す人がいなかった、というだけのことかもしれないのに。
昼休みに入っても、そのことが頭から離れなかった。
休憩室は狭く、昼になると席が足りなくなることもある。だから私はたいてい、自分の机で簡単に食べるか、少し遅れて空いたころに入る。その日もそうして、十二時半を過ぎてから休憩室に行った。
中には三人いた。
窓際に一人、奥の丸テーブルに二人。
空いている席は二つだった。
そう見えた。
けれど、トレーを持ったまま立ち止まった瞬間、どうしても座りにくい場所が一か所あることに気づいた。
丸テーブルの手前側、本来ならもう一脚置けるはずの位置だけが、椅子を引いたあとのように少し広く空いていた。
そこに何かがあるわけではない。
鞄も置かれていないし、コートも掛かっていない。
ただ、誰かがさっきまで座っていて、立ったあとだけがまだ残っているみたいに見えた。
そういう空き方をした席に、前にもどこかで覚えがある気がした。
思い出しかけて、やめた。
団地の通路の奥や、実家の玄関のたたきと、同じ種類の空白だと思いたくなかったからだ。
「そこ、座ります?」
窓際にいた先輩がそう言ったので、私は反射的に首を振った。
「いえ、大丈夫です」
結局、別の空いている席に座った。
トレーを置いてからも、私は一度だけ手前側の空いた場所を見てしまった。
見れば見るほど何もない。
何もないのに、そこだけ詰めて座ればちょうど四人になるような、変な整い方をしていた。
食後、給湯室の横を通ったとき、名札のかかった出勤ボードが目に入った。
出勤している人は表、休みの人は裏に返す、よくあるやつだ。
私はふだん気にしない。気にしないはずだった。
でも、その日はそこで足が止まった。
並びが、きれいすぎた。
名字の順に並んだ札の中で、ひとつぶんだけ間隔が空いて見えた。
札が抜けているわけではない。
全部ちゃんと揃っている。
なのに、見ていると、そこに本来あるはずの名前を一つ飛ばして並べてしまったような感じがした。
私は近づいて見た。
当然、何もおかしくなかった。
名札は全部あり、出勤の面になっている数も、今日いるはずの人数とたぶん合っていた。
たぶん、という言い方しかできないのが嫌だった。
一度そう思うと、どこを見ても「合っている」と断言するためにもう一回数えたくなった。
けれど、数え始めたら最後までやめられなくなる気がして、私はボードから目を離した。
そのあと、書類を届けに総務へ行ったとき、来客用の記名ノートが開いたまま机の端に置かれているのが見えた。用件欄と人数欄がある、ごく普通の受付記録だった。私はちらっと見ただけで、すぐに目を逸らすつもりだった。
けれど、そこでまた手が止まった。
午前の打ち合わせで使った会議室の欄に、使用済みの印がついていた。
それ自体は当たり前だった。
会議は実際にやったのだから。
気になったのは、その下の小さな記入欄だった。
使用人数 7
私は瞬きをした。
会議に出ていたのは六人のはずだった。
欠席も遅刻もなかったし、途中で誰かが入ってきた記憶もない。
それなのに、ノートには七と書かれていた。
丸みの少ない、事務的な数字だった。打ち間違いではなく、誰かが普通に書いた数字に見えた。
だから余計に、その七だけが記録の中で静かに浮いていた。
「どうかしました?」
総務の職員に声をかけられて、私は慌てて書類を差し出した。
「いえ、すみません。これ、お願いします」
それだけ言って、その場を離れた。
七という数字のことは聞かなかった。聞いて、ただの記入ミスでしたと言われれば、それで終わる話だったからだ。
それ以上に、そう言われたあとで自分だけがまだ気にしていたら嫌だと思った。
退勤前、私は自分の机の上を少しだけ整えた。
明日使う書類を右に寄せて、使わないファイルを棚に戻す。ペン立ての中身を直して、ノートパソコンを閉じる。そうやって見慣れた配置に戻していくと、ようやく落ち着く気がした。
それでも、帰り際にもう一度だけ会議室の前を通ったとき、私は中を見てしまった。
照明は消えていた。
窓のない部屋だから、ドアの小さなガラス越しには暗い輪郭しか見えない。
それでも、机のまわりの椅子の数だけはなんとなくわかった。
一、二、三、四、五、六。
そこで数えるのをやめた。
入口側の、半端な位置にある一脚だけが、暗くてよく見えなかったからだ。
よく見えないままなのに、そこだけずっと誰かの出入りを待っているみたいに思えた。
私はそのまま職場を出た。
報告するほどのことではないと思った。
会議の記録が一人ぶんずれていても、椅子が一脚多くても、そのくらいのことはある。
でも、駅へ向かう途中で、ふと今日一日のことを思い返したとき、最後に残ったのは七という数字ではなかった。
誰も座っていないのに、ずっと引いたままだった椅子の位置だけが、妙にはっきり頭に残っていた。
数が合わない場面を覚えている方はご連絡ください。




