四月十六日 ひとつぶん
必要なのは五人分だった。
午後の短い打ち合わせに使う資料を抱えて、私は会議室へ向かった。参加者は五人と聞いていたし、必要なのも五部で足りるはずだった。
廊下の窓から入る光は薄く、会議室の前だけ少しひんやりしていた。扉を開けると、まだ誰も来ていなかった。長机が二つ、少しだけずれたまま置かれていて、椅子も壁際に寄せられたものと、半端な向きで残っているものとがあった。
私は机の上に資料を置いた。
五部。
指先で端を揃えながら、念のため一度だけ数える。
一組、二組、三組、四組、五組。
足りないことも、多いこともない。
それなのに、紙の厚みを指の腹で確かめたあと、私はもう一度だけ数えた。
同じだった。
五部しかなかった。
「今日、五人でしたよね」
後ろから声がして振り返ると、同僚が紙コップの束を持って立っていた。私は「あ、はい」と答え、資料の上から手をどかした。
「五人です。これで足りるはずです」
「じゃあ、コップも五つでいいですね」
同僚はそう言って机の端に紙コップを置き、袋から一つずつ出し始めた。白いコップが乾いた音を立てて、机の上に並んでいく。
一つ、二つ、三つ、四つ、五つ。
私は壁際の椅子を持ってきて、机に寄せた。こちらも五脚。座ったときに窮屈にならないよう、少しずつ間を詰めていく。
並べ終えてから一歩下がる。
椅子は五脚しかない。
資料も五部しかない。
紙コップも五つしかない。
なのに全体だけが、もうひとつぶんの場所を空けているように見えた。
私は黙って椅子を少し寄せた。
今度は詰めすぎた気がした。
けれど、もう一度離れて見ても、やはりどこか一か所だけ、誰かが立ったまま抜けたような空き方をしていた。
同僚も机を見ていた。
紙コップを置き終えた手が、そのまま少し止まっている。
「……ひとつ、まだでしたっけ」
小さく言ってから、同僚は自分で口をつぐんだ。
「え?」
私が聞き返すと、同僚は紙コップの列を見下ろしたまま、少しだけ眉を寄せた。
「いや」
私は机の上を見た。
紙コップは五つ並んでいる。
資料も五部。
椅子も五脚。
「五つありますよ」
そう言うと、同僚は短く息をついた。
「ですよね」
それだけ言って、コップの位置をほんの少しだけ直した。
けれど直したあとも、並びはやっぱり妙だった。五つしかないのに、真ん中のどこかが一つぶん空いているように見える。六つ並べて、一つだけ持ち去ったあとのようだった。
私は資料をもう一度数えた。
五部。
椅子も見た。
五脚。
コップも五つ。
「足りないもの、ないですよね」
思わずそう口にすると、同僚がこちらを見た。
「ないと思いますけど」
「ですよね」
自分で言って、自分でうなずくしかなかった。
机の端を少し寄せ、資料の向きを揃え直す。さっきまで見えていた妙な空きは、それで少しだけましになった気がした。椅子の寄せ方が甘かっただけなのかもしれない。机の中心がずれて見えていただけなのかもしれない。
そう思っているうちに、廊下から足音が近づいてきた。
最初の参加者が会議室へ入ってきて、それから二人、三人と続いた。挨拶の声が重なり、私は資料を配った。誰の前にも一組ずつ置かれ、紙コップも一つずつ手元に行き渡る。
最後の一人が座って、席は自然に埋まった。
五人だった。
机を囲んでいるのは五人だけで、椅子も五脚しか使われていない。
会議はいつも通り始まった。資料の一枚目がめくられ、紙の擦れる音がほとんど同時に重なる。コップに手が伸びる。メモを取る音が小さく混じる。
どれも五人分の音だった。
それなのに、私は何度か視線を机の真ん中へ落とした。
誰もいない。
誰の資料も余っていない。
けれど、肘を少し引かなければいけない場所が、机のどこかに一つだけあるような気がした。
開始から少しして、遅れていた一人が資料に目を落としながら腰を下ろした。席についたあと、机の並びを見て、ほんの少しだけ首を傾げる。
「今日、席こんな感じでしたっけ」
誰かが顔を上げる。
「え?」
「あ、いえ」
その人はすぐに視線を落とした。
「なんでもないです」
会議はそのまま進んだ。
議題はいつもと変わらなかったし、誰かが言いよどむこともなかった。資料の内容も普通で、確認事項も予定通り終わった。
だから、途中からはもう気にしないことにした。
机の上には五人ぶんしかなくて、会話も五人の間でちゃんと回っている。誰かが余計に返事をすることもなければ、ページが一組多くめくられることもない。
それでも、会議が終わって立ち上がるとき、みんながほんの少しだけ同じ方向へ身体を引いたように見えた。
隣の人を避けるときの動きに似ていた。
けれど、そこには誰もいなかった。
人が出ていって、会議室には私だけが残った。
使い終わった紙コップを重ね、資料の残りがないことを確認する。椅子を一脚ずつ元の位置へ戻していく。床の上を引くたびに、脚が短く擦れる音がした。
一脚。
二脚。
三脚。
四脚。
五脚。
五脚しか使っていない。
最後の椅子を壁際に戻してから、私は部屋の中央を振り返った。
床には、椅子の脚が残した薄い曇りが見えた。ワックスの艶が、そこだけ少し鈍くなっている。会議室を片づけたあとの床には、よくあることだった。
ただ、その並びだけが妙だった。
五脚を戻したあとの床には見えなかった。
机を囲むように残った跡の一か所だけ、どうしても間が合わない。そこだけ先に一脚を片づけて、そのあと残りの五脚を戻したような並びに見えた。
私は動かずに見ていた。
近づけば、ただの光の加減かもしれないと思った。窓からの明るさでそう見えるだけかもしれない。椅子の角度が少し違っていただけで、跡の位置もずれて見えるのかもしれない。
それでも、そこには何かが抜けたあとの空きがあった。
「……五脚、だよね」
誰もいない会議室で、そう言ってみた。
声はすぐに吸われて消えた。
床の跡は何も変わらなかった。
私は椅子の数を見た。
壁際には五脚しかない。
机の上にも、床にも、余っているものは何もなかった。
なのに、その部屋だけが、六人目だけ先に帰ったあとのように見えた。
数が合わない場面を覚えている方は、ひとつぶん空けてご連絡ください。




