1-(13) 人形遣いにして人形使い
櫛灘瑠那は、『血塗れた人形使い』であり『幻影の噂屋』である。
人形使いの最高峰、天才であり鬼才。彼女は殺戮人形を作る事において右に出るものはいないほどの才能を持っている。
いわゆる突然変異。人知を超えすぎたがゆえに理解される事の無い能力。
そもそも、人形を自分の意のままに操る事など出来はしない。それは人間が人間であるが故の欠陥のようなものだ。人形を自分と同じものとして見られない。生きているものとして考えられない。心の底から「自分と人形は同一のものだ」などと言える人間がいるはずも無い。
人形と意識を繋ぎ合わせる事は、腕のいい魔法師ができる程度の難易度でしかない。自分で自分を騙せばいいからだ。「この人形の体は自分の体だ」と、言い聞かせればいい。少し想像力のある魔法師なら、難しいが出来ないわけではないのだ。だがしかしその人形の体を、普段自分が使っている本来の体と同じように動かすためには、少しの想像だけでは指一本動かす事さえできないだろう。
誰だって矛盾をはらんだ魔法など使えない。それと同じ事。
魔法師が物体を操るとき、まずその物体を理解する事からはじめる。何でできた物で、どのような構造をしているか。それを理解しないことには、満足に物も操れないのが魔法師なのだ。
ゆえに、人形を動かそうとすると「この人形の体は自分の体だ」という考えと「人形のモチーフになった動物の骨格にあった動き」という2点で、行動の選択が板ばさみになってしまう。
分かりきったことだが、人間と動物では骨格が全然違う。つまり、動かすときの動作も動物によってさまざま、千差万別十人十色である。それを無視して人形を動かそうとするならば、「その動物の骨格に合った動き」をしつつ「それを自分の身体である」と思い込まなければならない。
最初の方に戻るが、それはつまり「自分と人形は同一のものだ」と納得し、理解し、飲み込み、思い込むことだ。
櫛灘瑠那は、人形使いである。
それは紛れも無い事実。彼女は矛盾を乗り越えた。
元々主体性の無い子供であり、足が不自由なため外にもあまり出ず、室内で過ごしてきたもやしっ子の彼女は、人形遊びが一番好きだったのだ。
女性であれば大体の人が経験したことがあるだろう。幼い頃の人形遊びやおままごと。人形や相手の子(または自分)に役を当てはめ、演じる。その時だけは人形も生きているものとして扱われ、長い年月を遊んだ人形に、子供は自我を期待する。つまり人形遊びの本質は、とても幼稚で純粋な願いである。もしくは祈りといってもいいかもしれない。
そしてそれは、人形を操ることの本質ともいえる。
ゆえに人形遣い。人形を操り使役する者。
櫛灘瑠那は、規格外の予想外。彼女が矛盾を矛盾としないのは、彼女がすでに常識から外れてしまっているからである。境界線を踏み越えた存在、櫛灘瑠那。彼女は人形遣いにして人形使いである。
◆ ◇ ◆ ◇
「瑠那お嬢様?」
夢路の声で意識が覚醒する。どうやら転寝をしてしまったようである。
軽く欠伸をして周りを見渡すと、自分の部屋の車椅子の上。
大和兄に頼まれた山田太郎に対する調査を終え、情報を整理した後の記憶が無い。
寝ちゃったなぁ。寝ちゃったよぅ。とグダグダだ考えつつも身体を起こして夢路に問いかける。
「うし、起きた。どうしたの夢路、ご飯の時間?」
「それもそうですが、大和様がお見えになられてます」
来客らしかった。
しかも大和兄。
情報を聞きに来たのかな?
「いいよ。通して」
夢路が返事をし、部屋を出て行くのを見送って、私は寝乱れた髪を手櫛で直し始めた。
どうも、作者の朝霧波斗夜です。
今回は、ほぼ説明口調。ちなみにちょっと戯言風。
瑠那の通り名『ブラッディ・マリオネット』はすぐ思いついたんですが、『ファントム・ゴシップ』は書いてる途中にビビッときたヤツです。(ビビッなんて今時言うのかなぁ?)
次回は!……どうしましょう。
が、頑張って考えますね!!今夏休みだし。
では次回で。
誤字・脱字・感想 お待ちしてます!膝抱えて待ってます!!




