10 執事とメイドのカラオケ(2)
主たちが楽しそうにカラオケを歌う様子を、悠斗たちはスタンド席の最前列で佇んで見守っていた。
超巨大モニターには歌詞と音程バーが映し出されているが、いかんせんスケールが大きすぎる。
「……星原さん、湿布はお持ちですか」
直立不動の姿勢を崩さないまま、瑠衣がかすかに声を漏らした。その視線は、斜め四十五度の上空で固定されている。
「いえ、あいにく持ち合わせてはおりませんが……富士見さん、あなたもですか」
「これは計算外でした。次ドーム会場を借りる時は気を付けなければ」
「次の場所は、ぜひ月若の関連施設をご利用ください。残り三つについても我が家の圧力をかければいつでも貸し切りにできるでしょう」
五大財閥がそれぞれ運営するドーム球場は、世間で「日本五大ドーム」と称されている。悠斗はこの『サンサンドーム』を皮切りに、残りの四大ドームでもデートを画策できないかと考えていた。そうすれば、日本五大ドームを借り切ったというのも華凛の名前に箔がつく。
その時、ドームを震わせていた演奏が、ふっと途切れた。静寂が戻った空間に、コツ、コツ、と不穏なヒールの音が近づいてくる。
いつの間にか歌い終えた華凛が、ステージから降りてこちらを睨みつけていた。先ほどまで大和とデュエットして浮かべていた満面の笑みはどこへやら、その表情は般若のように恐ろしいものになっている。
「るいるいもなんか歌いなさい。ここの責任を取りなさい」
「しかし、これはお嬢様たちのデートですから。私が割り込むわけには……」
「こんなの最早デートじゃないからいいーの! るいるいの歌で今回のことは許してあげる」
華凛に背中を押されるまま、瑠衣は渋々と特設ステージへと上がっていった。
壇上に一人上がると、困惑した様子で最新式のデンモクの画面を指で触り始める。普段の物静かで冷徹な彼女が一体どんな音楽を歌うのだろうか。悠斗も華凛も自然とステージの上へ目を向けてしまう。
「大和ー、るいるいって普段どんな曲歌うの?」
瑠衣と入れ替わって観客席に座った華凛が、ステージを見上げたまま小声で尋ねると、大和は苦笑いを浮かべて答えた。
「なんかオペラ? ワルツ? なんかとにかくすごいよー……。あれって歌えるんだみたいなやつばかり」
その言葉の意味を悠斗たちが理解するより早く、瑠衣が意を決したようにマイクを両手で握りしめた。
「……ありました。では、僭越ながらこちらの楽曲を」
「なにうたうのー?」
怪訝そうに眉をひそめる華凛に対し、瑠衣は発音の良すぎる滑らかなドイツ語を響かせる。
「『Frühlingsstimmen』です」
「……なんて?」
「日本語だと『春の声』を意味します。たぶん、お嬢様も一度は耳にされたことがあると思いますよ」
よく分からないが、題名からして凄そうだ。
みなが頭の上に疑問符を浮かべる中、スピーカーから鳴り響いたのは、どこか聞き覚えのある軽快で華やかなワルツのイントロだった。
「では」
マイクを両手で丁寧に包むように持った瑠衣が、すっと息を吸い込む。その瞬間、会場の空気は一瞬にして変貌した。
ドームの天井を突き抜けるような、圧倒的なソプラノの美声。事前にすごいとは聞いていたが、まさかここまでとは。
「――♪」
さっきまで華凛たちが歌っていた日本語のポップスとは、次元が違っていた。
「……すご」
華凛がぽかんと口を開けたまま上を見上げる。隣に座る大和は「ね? すごいでしょ?」と、どこか誇らしげにニコニコと瑠衣を見つめている。あまりの規格外の歌唱力に、悠斗もただただ圧倒されていた。
やがて、ドーム全体を震わせていた華やかなオーケストラの演奏が、最後の一音とともにピタリと鳴り止んだ。華凛の拍手につられ悠斗も手を叩いた。
「……以上となります。お耳汚し失礼いたしました」
壇上の瑠衣は、まるで何事もなかったかのようにステージを降りてきた。その額には一滴の汗すら浮かんでいない。
「上手いんだけど……なんか劇場にいる気分だったわ」
「お褒めいただき光栄です、星原さん。さあ、次はあなたの番ですよ」
その瞬間、悠斗の背中に冷たいものが走った。
あんなにきれいな歌声を聞いた後に歌わないといけないことが嫌で嫌で仕方ない。
そもそも今日も歌うなど聞いていない。
「そうよ、悠斗! るいるいがあれだけ凄いの歌ったんだから、月若の執事として逃げるわけないわよね?」
華凛も待ってましたと言わんばかりにマイクをこちらに押し付けてくる。
「お嬢様。私は最近の楽曲に造詣がなく……」
「言い訳無用! あんたパパの歌聞いてるじゃない! スタンド上がる早く!」
確かに悠斗は酔っぱらった旦那様に付き合う形で、宴会などで合いの手を入れたりしている。でもそこで流れるのは、最近流行のポップスな曲ではない。ここは遠慮しようと思ったが、瑠衣から「早く受け取れ」という圧が強い。
悠斗は静かに覚悟を決めると、華凛からマイクを覚悟を決めて受け取った。
「それでは、お聴きください」
悠斗がすっとマイクを構えた瞬間、ドームのスピーカーから流れてきたのは『演歌』のイントロだった。
これがまた妙に上手かったらしく、日ノ内の二人は褒めてくれたが、華凛は終始腹を抱え大爆笑していた。




