44 般若ヒンコ、ガルジャに復帰
一週間後の十二月二日(金曜日)――。
俺は松葉杖がいらなくなった身体で小石川能楽堂に来ていた。川野瀬先生の指導で陰陽の面での治療を再開していた俺は、医者がびっくりするほどの回復力を見せていた。俺の完全復帰ももうすぐだ。
今日、小石川能楽堂では近所の中学生を招いた能楽・狂言鑑賞会が午前九時半から開催される。観阿さんが初めて陰陽の面をつけて本番に臨む記念すべき会だった。
観阿さんの演目は「安達原」。諸国修業中の山伏一行が福島県二本松辺りで一夜の宿を乞うたが、そこの主は実は安達ケ原の鬼女で、山伏一行は寸前のところで危機を脱するという、誰にでもわかりやすい定番の鬼婆物語だ。能・狂言の二本立てで、観阿さんは狂言の後の出番だった。
俺は川野瀬先生と正面の一番前の席で観た。特等席を独占して学生たちには悪かったが、陰陽の面の効果を、舞台の間近で、この目でしっかりと確認したかった。
謡と囃子に合わせて観阿さん演じる若女が華麗に舞った後、いよいよクライマックスの般若が暴れ出した。
「うう、ううむ」
隣で川野瀬先生がこぶしを強く握りしめながら唸っているのが横目に見えた。周りの中学生たちもひと言も声を出さずに観阿さんの舞台に魅入ってるようだった。舞台横の脇正面の端っこの席では、観阿さんの奥さんが涙をぬぐっているのも見えた。
観阿弥・世阿弥親子の由緒書きの通り、陰陽の面の効果は絶大だった。観阿さんの恍惚の能舞台はあっという間に過ぎていった。
その日の午後、匠の事務所に戻っていた俺だったが、観阿さんの「安達原」がいつまでも頭から離れずに仕事が手につかなかった。
小太郎は昨日から、ストロングジャパン本隊の年末タッグリーグシリーズの遠征に出ていた。
品子はガルジャ復帰のために、隣の道場で一人汗を流している。体調は万全のようだ。ユンボさんがガルジャのお偉いさんに品子の復帰のことをプッシュしてくれているようだった。
品子の奴、あまり根を詰めすぎなきゃいいが。俺みたいに張り切りすぎて怪我をしたんじゃ元も子もない。あいつももう三十六だからな。よっしゃ、少し様子を見てくるか。
俺は痛みのまったく無くなった身体に「よしっ!」とひと声かけてから事務所を出た。道場に近づくと、
おや?
道場の窓から中を覗いている女が目に入ってきた。気配を感じて女がこっちを見た。目と目が合った。道場で練習中の品子と同年代の女のように感じられた。黒い帽子にストレートの長い髪、そして赤いフレームのしゃれたサングラスが印象的だった。女はすぐに顔を伏せると逃げるように走り去っていった。
品子を覗いていたのか。いったいなんの目的で?
その日の夜の八時を回った頃だった。
近所の銭湯でさっぱりしてきた品子と、鯨の大和煮を肴に匠の事務室で一杯やってた時だった。俺のデスクの電話が突然鳴り出した。
「なんでえ、せっかく気持ちよく一杯やってるってえのに、仕事の電話かよ」
少し酔いが回っていた品子がパイプ椅子の脚を蹴り飛ばした。俺は苦笑いしながら電話に出た。
「はい、匠の事務所ですが……えっ!」
受話器の向こうから聞こえてきた言葉が、俺にはにわかには信じられなかった。受話器を持ったまま固まってしまった俺に、品子が缶ビールを手にして近づいてきた。
「兄貴、どうしたんだよ。じれってえな。貸してみな」
品子は缶ビールを放り投げると、固まったままの俺から受話器をむしり取ってわめいた。
「もう営業時間は終わってんだよ。明日にしてくれ! えっ、何だって? ああ、そうだよ。あたいは品子だよ。えっ? ガールズジャパンプロレス……!」
そう言ったまま、品子も固まってしまった。俺は品子から受話器を取り返すと、先方の用件を卓上のメモ用紙に急いで書き留めた。
「あ、ありがとうございます。よ、よろしくお願いいたします」
俺はぺこぺこと何度も頭を下げながら受話器を切った。
品子が俺の書いたメモ用紙を読んだとたん、極上の笑顔で叫んでいた。
「やったな!」
「ああ、やったさ」
俺も叫んだ。
思わず二人でハイタッチした。
俺のメモには、こう書いてあった。
『あさっての 日よう 4日9じはん はるみふとうのガルジャ どうじょう』
ガールズジャパンプロレスは、晴海埠頭の倉庫群の一角にあった。平日は物流トラックが頻繁に出入りして排気ガスがきつめだったが、休日になると人っ子一人いない閑散とした場所に変わる。
俺と品子は、指定の日時に匠の事務所から晴海のガルジャまでタクシーを飛ばした。
ガルジャの道場では、ユンボ杉山さんが出迎えてくれた。ユンボさんの後ろには、長い黒髪に真っ赤なフレームのサングラスをかけた女が静かに頭を下げているのが見えた。その顔を見て、
「お・ぎ・く・ぼ?……」
品子が半信半疑の表情でサングラスの中を覗き込んだ。
「久しぶりだね。ヒンコ」
少し照れくさそうに応えた女性は、五年前に般若ヒンコのガルジャ最後の試合でヒンコに引導を渡したプルトップ荻窪だった。
「ヒンコ、あの時の約束を守ってくれたんだね」
荻窪は赤いフレームのサングラスを外すと、左手でストレートの黒髪をかきあげながら、右手で品子に握手を求めた。涼しい目が温かく笑っていた。
「ヒンコは覚えてないかもしんないけど、わたしがパワーボムでヒンコをホールした時、ヒンコは『必ず戻ってくるからな』と私の目を見てうわごとのように言ったんだ。引退をかけた試合でだよ。尋常じゃないって思ったよ。戻ってきてくれて本当にうれしいよ」
「そんなこと忘れちまったよ。でも、これから世話になるからな」
品子も頭をかきながら荻窪の手をがっちりと握った。突然、ユンボさんが大声でワンワンと泣き出した。そんなユンボさんを見て、品子も荻窪も「またか」といった表情で微笑んだ。
ガルジャの事務所は倉庫を改造した道場の奥にあった。そこで人事課担当の女性職員から契約書を見せられ、最後に品子がサインをした。
これでガールズジャパンプロレスと般若ヒンコの正式な契約が成立した。つい先日、十一月二十三日のPWMS・匠の第五回大会でヒンコが完全復帰を果たしてから、たった十日での超スピード契約だった。
「私は今じゃ、ここのガルジャのマッチメーカーを任されてるからさ。ヒンコ、五年もさぼってたぶん、来年はがんがん働いてもらうからね。再デビュー戦は、そうさな、このプルトップ様とシングルでいくかい。五年越しの遺恨試合か。きっと盛り上がるぞ」
荻窪がうれしそうにうなずいた。マッチメーカーの顔だった。
この後、帰り際にユンボさんから内緒で聞いた話では、今回の般若ヒンコのスピード契約は、さる大物政治家がガルジャの社長に強く働きかけたために実現したものだということだった。
熱海のおっさんだ。
俺も品子もすぐにそう直感した。あのおっさん、政治家だったんか。それも大物政治家だってよ。以前、電話で、ストロング闘鬼さんを「君」付けしてたのも納得できた。
品子が狐につままれたような顔をしていたのが印象的だった。
ガルジャからのタクシーでの帰り道、晴海通りの勝鬨橋にさしかかった時、隣の品子がぽつりと言った。
「あたい、おっさんに謝ってくるよ。中途半端に出てきちゃったままだしな。ちゃんとお礼を言って、こっちに引っ越すよ」
「そうか。それがいい。おっさん、きっと喜ぶよ」
「思った時に電話しちゃいたいからさ、兄貴は耳をふさいでそっち向いててくれ」
「えっ?」
「早く」
顔を赤らめる妹の横顔がむしょうにかわいかった。俺は両耳を指でふさいで、左手に見えてきた築地の魚河岸の景色を眺めた。
熱海のおっさんにはすぐに連絡がついたようだ。年末になるほど忙しくなるので、来週、日曜日の午前中のうちに引っ越しを済ませるように言われた。外部に知られると、再デビューを控えた品子にも、そして、大物政治家のおっさんにも都合が悪いだろうから、引っ越しは俺と小太郎だけで手伝うことにした。
小太郎はストロングジャパン本体のシリーズ遠征の真っ最中だったが、辰波さんにすべてを打ち明けて急きょ東京に引き戻してもらった。
引っ越しの当日は、小太郎が二トントラックをレンタルしてくれた。運転台で三人兄弟が上下左右に揺られながら熱海に向かった。
熱海のおっさんのマンションは、海に面した山腹に真っ白くそびえ立っていた。
小太郎は、品子のリング復帰の準備の時や、その後の送り迎えで何度も来ていたが、俺は初めてだった。超豪華な別荘みたいだ。想像していたのよりめちゃめちゃ立派な建物だった。さすが大物政治家、相当、金持ってんな。
マンションの玄関口には、一般車とは明らかに違う黒塗りの大きな乗用車が乗り付けてあった。おっさんの車だろう。
三基のエレベーターのうち「貸切」の札がかけてある一番左側の間口のやたらと広いエレベーターで最上階の十階に上がる。エレベーターの中は荷物の運び出しに備えて、すでに養生テープなどが施されていた。
十階でエレベーターを降りた品子は、ずかずかと一番奥の部屋まで歩いて行った。
俺と小太郎は物珍しさから周りをきょろきょろしながらついていく。エレベーターもそうだったが、通路もドアも何もかもが高級そうな素材と質感に満ち溢れていた。
品子がドアの鍵を開けようとした時、突然、ドアが開いて白髪の紳士が出てきた。艶のありすぎる紺色のスーツに同色のネクタイ、そして黒光りした革靴。シンプルだが重厚な品があり、とてつもないオーラを感じた。
これが、熱海のおっさんなのか。
開いた口がふさがらなかった。小太郎も目を丸くしたまま直立不動となっていた。
おっさんは俺と小太郎に向かって少し上目遣いに会釈をした。その威圧感たるや半端ない。
全米マットをまたにかけてきた俺でさえビビりまくって、おっさんに小さく会釈を返すのがやっとだった。
小太郎に至っては緊張に身体を硬直させたまま、ひたすら最敬礼だ。右の口元のほくろが引きつっているのが見えた。あれだけ、おっさんのことをぼろくそに言っていた野郎が、まったくあきれたもんだった。
先日、電話で話した時のおっさんのソフトな印象とはかなり違っていた。
突然、おっさんが周りをはばかることなく品子をグッと力強く抱きしめた。身長百七十センチの品子より少し背が小さかったので、おっさんは品子の胸に顔をうずめるようなかたちになった。
「ありがとな、おっさん。あたい、リングでとことん頑張るから……応援してくれよな」
品子が涙を浮かべながら、おっさんの白髪頭を上から両手でなで始めた。おっさんはいとおしそうに品子の背中にタッチしている。
俺も小太郎も見てはいけないシーンを見てしまった後ろめたさから、そわそわと熱海の波静かな海の方に身体を向けた。
やがて、品子から静かに離れたおっさんは、品子に向かって何かひと言つぶやくと、足早に俺たちの横を通り過ぎてエレベーターの中に消えていった。
おっさんが通り過ぎた後には、とてつもなく高級感の漂う香水の香りが充満して、たまらなかった。でも、この匂い、前にどこかで嗅いだことがあるような気がした。思い出せなかったが、確実にどこかで出会った懐かしい香りだ。
品子を見ると、「えへへ」と照れくさそうに微笑んでいた。なんだか、とてもうれしそうだった。いつも自分は邪魔者だと言っていた品子だったが、おっさんにとっての品子はまさにかけがえのない女神だったんだ。そう思った。
横を見ると、さっきはあれだけガチガチになっていた小太郎が、何かにこらえきれなくなってふき出していた。そのまま、腹を抱えて大笑いとなった。
「ど、どうした小太郎?」
おっさんのあまりの威圧感に、小太郎の奴、頭がおかしくなったんじゃないかと思ったが、小太郎は、
「ハハハ、あのおっさん、新さんにそっくりだったな。今の新さんの髪の毛を真っ白く染めて、顔中にマジックでしわを書いたら、おっさんと瓜二つになるよ」
すると、品子もうなずきながら笑った。
「そういえば、似てんな。今まで気付かなかったが、親子って言われたら信じちゃうよな。さすがは小太郎、観察力が半端じゃねえな」
「二人とも馬鹿な冗談はやめろよ。さあ、引っ越し、引っ越しだ!」
俺は、大口を開けて笑ったままの小太郎の額を思いきりどついてやった。




