43 熱海のおっさん
プルルルル、プルルルル、プルルルル……。
かなり長い時間鳴らしたが、相手は出なかった。向こうも警戒しているんだろうか。ふと顔を上げると、部屋の時計は午後九時を過ぎていた。その時、
「はい」
いきなり受話器の向こうで面倒くさそうな声がした。呼び出し音に浸り続けていた俺はびっくりして携帯を落としそうになった。
いよいよゴングが鳴った。リングに上がるよりも何倍も緊張する。
俺は武者震いしながら携帯を握り直すと、気持ちを落ち着かせるようにゆっくりと口を開いた。
「品子の兄の新吾といいます。先ほど、匠の事務所の方にお電話をいただいたそうですが……」
相手の出方を窺った。
「あ、そうですか。品子のお兄さんですか」
もぞもぞとした口調だった。若くはない。
「品子の知人の者ですが、お兄さんがそちらの事務所で働いておられると、品子から聞いていたもので、突然で恐縮ですがお電話いたしました」
「品子とはどういったご関係なんですか。その前にお名前は?」
「すみませんが、今はまだ名乗ることはできません。実は品子も私のことは何も知らないのです」
し、知らないって、いったいどういう事だ?
「マスコミ関係の方でしたらいっさいお断りします」
俺は探りを入れた。携帯の向こうからは苦笑いともため息ともとれる雰囲気が伝わってきた。
「どちらかというと、私もマスコミ関係者が嫌いでして。今日、電話したことは誰にも話してほしくないのです。ただ私は、数年前に政界に進出したストロング闘鬼君と親しくしていただいていて、プロレスが好きなことは確かです」
向こうも探りを入れているようだった。ここで、プロレス界のカリスマレスラーであるストロング闘鬼さんの名前を、しかも「君」付けで出すところなんぞは、一筋縄ではいかないと思った。
「事務所としては世間に口を閉ざすことも仕事の内ですから、その点は安心してください」
「それは恐縮です。私も正直に話しやすくなりました。もし話がかみ合わなかった時には、この携帯をつぶすつもりでいましたから」
ひしひしと覚悟が感じられた。
「それで、妹のことで何を?」
「品子の今後についてお兄さんのお考えを聞かせてほしいのです」
「品子の今後?」
「はい。品子から聞いているかどうかわかりませんが、私は熱海のマンションで品子と月に何日か生活を共にしている者です」
ああ、あの熱海のおっさんか! こいつがそうなのか。よく俺に電話できたな。
メラメラと怒りがこみ上げてきた。ぷつりと黙り込んでしまった俺の胸のうちを察したのか、おっさんは逆に胸をなでおろしたように静かな口調に変わった。
「何もかも品子から聞いているようですね。それなら話は早い。長くなりそうなので、いったんこちらの用事を済ませてから、またかけ直します。すいませんが一度切ります」
プチッ。おっさんは有無を言わさせずに一方的に電話を切った。一瞬にして緊張の糸が緩んだ。額と脇の下の汗が半端じゃなかった。
まずは、相手の実力、手の内の探り合い、ロックアップでの駆け引きってところか。
熱海のおっさんから再び電話がかかってきたのは、午後十時を過ぎた頃だった。程よいくらいの時間をもらったので、俺の気持ちは少し落ち着いてきていた。これも、おっさんの作戦なのか?
電話口で熱海のおっさんが語った話は、大河ドラマよりも、さらにドラマチックな内容だった。
「新吾さん、お待たせしてすいませんでした。実は、昨日の夜遅くに品子から電話がありまして、そこで品子が突然、邪魔者になりたくないんだ、お荷物になりたくないんだ、夢を貫きたいんだ、ガルジャに戻りたいんだ、とわめき出したんです。かなり酔っぱらっていたのか、まったく収拾がつきませんでした。やがて酔いつぶれた品子に代わった杉山さんという人と会話をしているうちに、品子の真意がわかりました。品子は私のところから独立して女子プロレスのガールズジャパンプロレスに復帰したいと言っていると――。実は、私は年甲斐もなく、初めて品子に会った時から品子のことが好きでした。いや、今でも好きです。品子は決して嘘をつきません。言葉遣いは悪いが、小細工なしに、損得なしに、私にもぶつかってきます。本当に優しい女です。できるなら私は、品子を一生手放したくありません。しかし、昨夜の電話で、私のところで暮らす品子は本当の品子ではないことに気づきました。熱海での品子は、体調を崩して、しばらく私のところで身体を休めていた仮の品子にすぎないと思い知らされました。これからは品子の好きな道を進んでもらいたい。惚れた女の希望に尽くしたい。そう確信しました。新吾さん、品子は本当に女子プロレスに復帰することが可能なんでしょうか? 品子の希望通りに女子プロレスで活躍できるのなら、私は最大限の手助けをしたいと思っています。私の惚れぬいた品子の生き生きとした本当の姿を観てみたいんです。昨夜は、杉山さんとの電話の中で初めて般若の面のことも聞きました。本当に不思議な話ですが、私には心当たりがあるのです。そんな因縁めいたことを感じたりもして、今日、恥を忍んで匠の事務所の新吾さんに思い切って電話をしました。新吾さんを信じて、これまで品子にも話したことがない事実を話します。――私が若いころ、そう、当時、父の運転手をしていた頃です。私は何度か、ある女子プロレスラーと父をラブホテルに送り迎えしたことがありました。その女子プロレスラーこそが、新吾さんと品子のお母さんの本田民子さん、リングネームを本田ミンという、当時の女子プロレスのチャンピオンでした。当時、父は、本田ミンの所属する大日本女子プロレス道場で大きな影響力を持っていました。本田ミンは容姿・プロポーション抜群で男性ファンの羨望の的でした。父はそんなミンに惚れこんで、ミンをチャンピオンに押し上げたのです。ミンと同年代だった私は、ミンに憧れました。寝ても覚めてもミンのことが頭から離れませんでした。しかし、父の前では、ミンに声をかけることさえはばかられました。当時、運転手として父とミンをホテルに送り迎えするのはとても辛いことでした。ホテルから出てきたミンは、いつも父の後ろでリング上とは真逆の真っ青な顔をしていました。そんなある日、チャンピオン・本田ミンの初防衛戦の時に、私は父の指示でミンに般若の|面を届けたのです。父は骨董収集が趣味でしたから、その般若の面も恐らくひいきの骨董屋から買い求めたものだったんでしょう。その般若の面が、古くから陰陽の面と呼ばれていたいわくつきの面だそうで。品子の体調も、すべてが陰陽の面、般若の面の影響を受けていたようで。世の中には本当に不思議な話があるものだと驚きました。私がおよそ五年前に初めて品子に出会った時に、年甲斐もなく品子に一目惚れしたのもうなずけました。品子は、私が憧れていた若いころの本田ミンにそっくりだったんです。実の母娘だから当たり前のことですよね。昨夜の品子からの電話ですべてに納得がいきました。さっきも言いましたが、品子がガルジャに戻りたいのなら、私は全面的に協力したいと思っています」
思いの丈を一気にしゃべった。でも、おっさんは五年もの間、品子を養ってきたことをおくびにも出さなかった。恩着せがましいことはいっさい口にしなかった。その上で、品子の幸せを何よりも願っているのがよくわかった。おっさん、品子にべた惚れなんだと、なぜか、おかしくなった。
熱海のおっさんって、本当はそんなに悪い人間じゃないんじゃないのか。さんざん文句を言いながらも、あの超わがままな品子が結局離れられないでいるのもなんとなくわかるような気がした。
「これまで妹を助けていただいてありがとうございました。これからも品子のためによろしくお願いいたします」
心から感謝していた。何が何でも品子をガールズジャパンプロレスに戻してやると、俺も固く決心した。
熱海のおっさんは、電話を切る間際になって「あっ、い、いや、実は……」と変に口ごもったまま黙ってしまった。気になったが、それきりだった。
熱海のおっさんっていったい何者なんだろうか?
「小太郎のやろう、また負けてやがんの。それも今年の春に入った後輩のデビュー戦にだぜ。ドロップキックがもろにこめかみに入っちゃってよ。そのまま気絶でスリーカウントよ。アホかってんだ」
午後十一時過ぎに、品子が小太郎の試合をけなしながらも超ハイテンションな様子で俺の部屋に飛び込んできた。ユンボさんとかなり呑んできたようだ。
俺はベッドに座ったまま松葉杖に両手をかけて足元を見つめていた。品子の顔を見ることもなくポツリと言った。
「さっき、熱海のおっさんと電話で話をした。お前、ガルジャに戻りたいんだってな」
「えっ!」
品子の表情がさっと変わったのが雰囲気でわかる。品子がよろよろと俺のベッドに近づいて横に座った。
「熱海のおっさんから、おふくろの女子レスラーとしての真実も聞かされた。本田ミンの娘のお前にとっちゃ辛い事実だと思うが、もう大人だから短気を起こさずに本当のおふくろの過去を聞いてくれ」
「……」
品子は黙ってうなずいてくれた。
俺は熱海のおっさんから聞いたことを品子にすべて話した。話の途中から、品子が隣で肩をひくひく震わせているのがわかった。
翌日、俺と品子はシリーズ巡業を終えた小太郎の車で、大阪から東京に戻った。途中、熱海の海が見え始めると助手席の品子はうつむいたまま黙ってしまった。俺も小太郎も何も触れずにいた。
町屋土手の匠の事務所に戻ってからも、品子は俺の部屋に居着いたまま、決して熱海に帰ろうとはしなかった。




