42 激戦の翌日
大阪大会の翌日――。
大江戸スポーツの一面には、「ゼアミ大暴走の反則負け」「流血のガチ菅原、あ然。なぜだ? 俺の関節技が効かなかった。気付いたらゼアミの手のひらの中で踊らされただけだった」と大きく報じられた。
関節技の鬼と恐れられたガチさんを、ルーキーの小太郎が手玉に取るなんて二百パーセントありえない話だ。これこそがまさに、陰陽の面の効果に違いなかった。
プライドの高いガチさんのことだから、ゼアミの中身が俺じゃなくて、ストロングジャパンの前座で負け続きの小太郎だと知ったら、それこそ落ち込むだろうな。タイトル返上とか、言い出しかねないよな。
俺は苦笑いしながら、昨夜泊まったホテルのロビーのテーブルに江戸スポを置いた。
フロントの時計に目をやると、午後一時を回っていた。品子と小太郎は、昨日の打ち上げ会に出席したまま、まだホテルには戻っていなかった。夕方六時から昨日と同じ大阪府立体育センターでストロングジャパン本隊の試合があるってえのに、小太郎め、いったい何やってやがるんだ。
本隊では、小太郎は相変わらず前座試合で後輩相手にしょっぱい試合をやっていた。なんか、このままずっと前座を続けていきそうな雰囲気だった。ここら辺で贋作レスラーに専念させるべきなのか。
俺が頭を抱えながら松葉杖を手にして立ち上がろうとしたとき、携帯電話が鳴った。
品子からだった。携帯を耳に当てると、やけに元気な声が俺の鼓膜に突き刺さってきた。
「あ、兄貴か。ワリい、ワリい。打ち上げの後、ユンボさんのホテルに誘われちまってよ。とことん飲んじまった。酔っぱらった勢いで熱海のおっさんにも電話してよ。あたいの思いをボロクソにぶちまけてやったよ。ホント、すっきりしたな。夕方にはそっちに戻っからよ。ワリいな。あっ、そうそう、小太郎だけどな。昨日は結子さんのホテルに泊まったみたいだ。久しぶりに母子でゆっくり話しができたんじゃないか。結子さんも病気が治ってよかったよな。前と変わらず、勤めに出てるそうだ。小太郎の奴、朝早く結子さんを車で名古屋まで送っていって、夕方の試合までには大阪に戻るってよ。あっ、ユンボさん待たせてあるから、これで切るぜ。じゃあな」
一方的にまくし立てたまま、俺にひと言もしゃべらせずに電話を切った。
「……」
今に始まったことじゃないが、俺はあきれ果てるだけだった。しかし、品子も小太郎も、今はすごく幸せそうだってことはよくわかった。
「そろそろ来る頃だな」
俺は松葉杖をついてホテルの玄関口まで歩いた。一時半に川野瀬先生と観阿さんとここで待ち合わせていたのだ。二人とも午前中は、大阪なんとか文庫で、能に関する貴重な本を見ると言っていた。
外でタクシーが止まって、川野瀬先生と観阿さんの顔が見えた。俺は松葉杖を大きく振った。
「大成功でしたね」
観阿さんが謡の時のような大きな声でニコニコしながらホテルに入ってきた。ロビーにいた客が驚いて振り返る。後ろでは川野瀬先生が静かに微笑んでいた。
俺は深々と頭を下げた。
「この度は、俺の怪我のため、いろいろとご迷惑をおかけしました。また、小太郎に特訓をしていただきありがとうございました。おかげさまで、ゼアミは試合に穴をあけずにすみました。妹の品子のことも、陰陽の面の治療のおかげでほとんど以前の身体に戻ったようです。本当に何から何までありがとうございました」
一年以上も匠の事務所でさまざまな問い合わせや苦情に対応して培ってきた俺の、自分でも惚れ惚れとするような仁義だった。
ロビーの椅子に座ると、さっそく陰陽の面の話になった。最初に口を開くのはいつも観阿さんだ。
「小太郎さんのゼアミ、リング上での舞いの所作、大変素晴らしかったです。五日間ではとてもマスターできないような完成度でしたよ。小太郎さんは筋がいいですね。ガチ菅原選手の関節技をことごとく受けきってもギブアップしなかったのは、陰陽の面の絶大な効果のおかげですね。ヒンコ選手のファイトも五年前とちっとも変わらなかったです。あのヒールぶりは最高でした。スカッとしました。ね、先生」
川野瀬先生がニコッとした。観阿さんが続ける。
「わたくしも陰陽の面のお稽古のかいがありまして、とうとう先生のご許可をいただきました。来週、小石川能楽堂で開かれる学生向けの能楽鑑賞会で、初めて陰陽の面を使ってみたいと思っています。演目は安達原。あの有名な鬼婆の話しです。前段に若女の陽の面、後シテの鬼女に般若の陰の面をかけて演じてみたいと思っています。新吾さんもぜひご覧なってください」
「それは楽しみです。陰陽の面が能舞台でどんな威力を発揮するか、すごく興味深いです」
「後は、ああたですよ。東京に戻ったなら、陰陽の面で治療に専念してもらいますからね」
川野瀬先生が間髪を入れずに黒ぶち眼鏡の底から俺の顔を窺っていた。
俺は、穴があったら入りたい気持ちだった。
その日の夕方――いったんホテルに戻って着替えをした品子は、上機嫌でまたすぐに出かけて行った。ユンボさんと一緒に、大阪府立体育センターで開催されるストロングジャパンプロレスのスーパージュニアカップシリーズ最終戦を観に行ったのだ。もちろん、第一試合に出場する小太郎の応援にだ。
小太郎のしょっぱい試合にはいっさい興味がない俺は、半ばふてくされながら、ホテルのレストランで簡単に夕食を済ませると、部屋のシングルベッドで横になったまま、白い天井の幾何学的な模様をボーっとながめていた。
突然、携帯電話が鳴った。辰波さんからだった。
「はい、新吾です」
「新吾、怪我の具合はどうだ?」
「大丈夫です。昨日はいろいろとお世話になりました」
「ああ、新吾のアイディアは大成功だったよ。小太郎の二代目ゼアミはいいね。いっそのこと、小太郎にゼアミを譲ったらどうだ?」
辰波さんが電話の向こうで冗談交じりに笑った。それもありかと、俺は素直に思ってしまった。
「それはそうと、実はさっきな、品子さんの知り合いだとかいう男性から、匠の事務所に電話があってな。転送先のスズさんが受けてくれたんだが、名前は名乗らないし、品子の兄と話がしたいの一点張りでな。スズさん、なんとか相手の電話番号を訊き出して僕のところに相談してきたんだ。新吾、心当たりがあるか?」
俺と品子が兄妹だと知っている男性。それも名前すら名乗らない。いくら考えてもまったく見当がつかなかった。俺がしばらく答えに詰まっていたので、とうとう辰波さんがしびれを切らせた。
「しかたがない。だったら新吾が直接連絡をするしかないな。マスコミ関係かもしれないから、慎重に対応しろよ」
俺は辰波さんから電話番号を教えてもらった。〇九〇から始まる携帯電話の番号だ。俺はその電話番号を品子に確認すべきか、少し迷ったが、なんか面倒くさくなってやめた。
ええい、当たって砕けろだ。俺はリングに上がる直前のように、いったん頭の中を真っ白にしてから、携帯電話のナンバーを押し始めた。




