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ゼアミ  作者: がくぞう
38/52

38 陰陽の面の不思議な由緒書

 十一月三日――この日は、川野瀬先生にもらった小石川能楽堂の能舞台公演の日だった。

 小石川ホールのすぐ近くの閑静な森の中に古風な建物の小石川能楽堂があった。そこは、恐ろしく神聖な場所だった。プロレス会場のようなハッピーな気分は微塵も感じられない。

 俺は、そんな雰囲気に緊張しながら、はじめて生の能舞台を観た。

 一番印象に残った能の演目は「班女(はんじょ)」といった。シテ、ワキ、後見が舞台に出て、それぞれの役目を粛々とこなしていく。豪華な唐織(からおり)の装束をまとい扇を手にして、よどみなく美しい舞いを披露するシテ方。俺のゼアミのリング上での舞いよりもしなやかであり力強くもあった。さすがは本家本元だ。

 謡の内容はいったい何を言っているのか、まったくわからなかった。前もって能の演目を勉強していたわけじゃないので「班女」がどんな話なのかも知らなかった。ただ、(おもて)若女(わかおんな)も衣装の唐織も俺がゼアミでつけていたものとそっくりだったのでうれしかった。内に秘めた人間の情念みたいなのをめちゃくちゃ感じることができた。

 しかし、これだったらプロレスの方が、みんなに断然わかりやすいし、単純に面白いとも思った。

 プロレスの熱い闘いは、誰をも熱狂させることができる。それに比べて能なんて、わかっている奴らにしかわからないインテリの暇つぶしみたいなもんなんじゃないのか?

 半日近くにわたる数々の演目が終わって能楽堂を出ると、真っ赤な夕日がやけにまぶしかった。夕焼けのまぶしさに思わず額に手をかざした瞬間に、強い力で後ろから袖を引っ張られた。

 振り向くと、今日は紺色系の背広にポーラータイ姿の川野瀬(かわのせ)先生が立っていた。

「きっと観に来てくれると信じて待っていました。ああたに会わせたい人がいます。少し待っていてください」

 川野瀬先生の黒ぶちメガネの底が鋭く光ったように見えた。

 先生はそれだけ言うと、俺をほっといて、能楽堂の裏の方に足早に歩いて行ってしまった。

 俺は学者先生に再会できてうれしかった。カンザスシティのブックショップで偶然目にした川野瀬先生の能の本でゼアミが誕生したように、今度は先生から直にゼアミや能に関する何かを吸収できるんじゃないかと密かに期待していた。

 やがて、能楽堂の関係者と思われる和服姿の若者がやってきて、

「三刀屋様ですね。お待たせいたしました。川野瀬先生が奥でお待ちしておりますので、こちらへどうぞ」

 と丁寧に案内してくれた。

 通されたのは、能舞台の裏の楽屋だった。プロレス会場なら控室・ドレッシングルームといった場所だろうか。

 大きな鏡台を背にして、川野瀬先生と、見覚えのある唐織装束を身に着けた六十歳前後の男性が談笑していた。

「ああ、こっちへいらっしゃい」

 先生が俺を見るなり親しそうに笑って手招きをした。案内の若者が丸椅子を出してくれたが、俺は立ったまま先生と唐織衣装の男性に会釈した。

「大きな人が立ったままだと威圧感があっていけません。椅子に腰かけて話しましょう」

 俺は先生の言う通りに丸椅子に座った。

「あなたが、あのゼアミさんですか」

 唐織の男性が身を乗り出すようにして話しかけてきた。

 俺は思わず川野瀬先生の顔を見た。

「この方は、観阿(かんあ)喜之(よしゆき)さん。観阿流シテ方を務めてらっしゃって、今日の「班女」のシテ役も喜之さんが演じたものです」

「初めまして、観阿喜之です。アメリカでのご活躍、大変興味深く拝見しておりました」

「ゼアミをご存じなんですか?」

「はい。こう見えても根っからのプロレスファンでして、特にプロレスに能を取り入れたゼアミさんのファイトはできる限り拝見させていただいたつもりです。お能の稽古よりもプロレスが好きで、家内からは、だから父の芸を超えられないのよと、いつも叱られております」

 観阿さんはたまらなくうれしそうな顔だった。

「かれこれ、二十年近く前になりましょうか。オリエンタル・クマドリ選手がアメリカから日本に帰ってこられて、空前のオリエンタルブームを巻き起こした時などは、『日本文化とプロレス』というテーマでクマドリさんと雑誌の対談をさせていただいたこともございます」

 天孫さん、そんなことしてたのか。一度も聞いたことないな。

「ゼアミさんのご活躍のおかげで、能に興味を持った外国人の方が、この能楽堂に実際に能を観に来てくださるようになったんですよ。これはプロレスラーの方に大変申し訳ないのですが、こちらの川野瀬先生には、これまでわたくしがプロレスファンであることをいっさいお話ししていなかったんです。プロレスに対する偏見というのでしょうか、後ろめたさというのでしょうか。学問一筋の先生にプロレスなんてタブーだと勝手に思っていたんですね」

 よくしゃべる人だ。プロレスのトーク力が半端じゃない。

「そしたら、先日、思いもかけずに先生からプロレスのお話を伺い、まさに目から鱗でした。それがまた、ゼアミさんのお話だったんで、私は腰を抜かすかと思いましたよ」

 川野瀬先生は、ただただニコニコうなずいていた。

「先生は、ゼアミさんにいただいたチケットで初めてプロレス会場に足を運ばれて――ねえ先生、とても感動されたんですよね」

 観阿さんが川野瀬先生と目を合わせて笑った。

「プロレスを通じて、より一層、先生とわたくしの絆が深まった感じがしました。けっして大げさではありませんよ。それなら、今度はゼアミさんとわたくしの絆を深めていただいて、プロレスと能楽をともに発展させていければと考えたんです」

 熱く語り続ける観阿さんに、俺は惹かれた。

「日本のプロレス界に、もっともっと能の要素を取り入れて闘ってください。ご協力させていただきますよ。アメリカだけじゃなく、能のふるさとの、この日本でもゼアミというプロレスを完成させてください。よろしくお願いいたします」

 俺はこの人の熱意に圧倒された。こんなにもゼアミのことを思ってくれるファンがいたのか。素顔の新吾で闘うなんて格好をつけてる場合じゃなかったのかもしれない。四十二歳という年齢のことといい、原因不明の病気のことといい、俺にはプロレスラーとしての旬の時間はほとんど残されていないんだ。

 観阿さんと一緒に最終形のゼアミを完成させる。もしかしたら、それが俺のプロレスラーとしての最後の仕事なのかもしれない。

「ところで、話は変わりますが、先日、ああたに見せていただいた、ゼアミの部屋の奥にあった般若の面のことですが」

 川野瀬先生が身を乗り出すように俺を視た。

「はい。あの般若の面は不思議な力を持った面なんです」

 俺は般若の面をつけた時の不思議な高揚感や爽快感を、川野瀬先生と観阿さんに話した。

 先生と観阿さんが思わず顔を見合わせていた。川野瀬先生が視線を俺に戻してからゆっくりと語り始めた。

「結論から申しますと、あの般若の面は、こちらの観阿さんが長年捜し続けてきたとおぼしき面なんです。あの面は今から六百年以上も前の南北朝時代から伝わる面で、般若の面だけでなく、対になるもうひとつの面が存在します。若女の面です。それはこちらの観阿さんの家に代々伝えられてきたものです。元々は、申楽(さるがく)という卑俗でユーモラスな物まね芸を、体系的な芸術論として『風姿花伝』にまとめ上げた観阿弥・世阿弥親子が、その若女と般若の二つの面を使用・保存していたようで、その由緒書が若女の面とともに桐箱に納められて観阿家に伝わってきました」

 先生が観阿さんに向かってうなずいた。あれだけしゃべっていた観阿さんが真剣な顔で聞いている。それにしても、若女と般若の面とは――俺がゼアミとしての試合でつけていた面とまったく同じ組み合わせだ。怖いほどに因縁を感じる。

「観阿弥・世阿弥親子の由緒書によると、その二つの面は『陰陽(おんみょう)の面』と呼ばれ、般若が陰の面、若女が陽の面とされています。作者は陰陽道を究めた有名な面打ち師で、この陰陽の面を作り上げた後、精気を吸い取られるがごとくに痩せ細って絶命したということです。陰陽の面は一舞台で必ず二つ揃いで使うことが定められ、陽の面の若女で舞った後に陰の面の般若で舞うと、その舞い人の実力以上の舞台に仕上がると記されています。逆にその定めをたがえ続けると、やがて心身の調子を崩して廃人になるという強い戒めの言葉で由緒書は締めくくられています。しかし、観阿家に伝わる箱の中には若女の面しか入っていませんでした。観阿弥・世阿弥親子が所持していたという陰の面の般若はいったいどこに消えてしまったのか? 古書の調査で全国を巡っていた私は、観阿さんに頼まれて研究のかたわら、その般若の面を捜し続けてきました。そしてとうとう、ああたのところでそれらしき面を見つけたのです。まだ確証はありませんが、ああたの部屋に飾ってあった般若の面こそが陰の面ではないかと、私はすぐに直感いたしました。観阿家にある若女の面と比較して、その作りといい、その古びといい、まったく同じ趣を感じるのです。ああた、いったいあの面をどこから手に入れたのですか?」

「はい。あれは、妹が実家から持ち出して、実際にプロレスで使っていた面です」

「妹さんがリングで、般若の面を?」

 今度は、観阿さんが身を乗り出した。

「はい。これはまだマスコミに知られてないので内緒にしていてほしいんですが、私の妹は女子プロレスラーの般若ヒンコなんです」

 陰陽の面の不可思議な事実を考えると、なんだか恐ろしくなって、妹のことを隠しておくわけにはいかなくなっていた。

「そうだったんですか。なるほど、ゼアミとヒンコにはどこか同じ匂いを感じていたのですが、ご兄妹だったとは」

 観阿さんは小太郎と同じことを言った。プロレス感の鋭い人だ。

「般若の面の女子プロレスラーか……」

 観阿さんが唐織の袖をまくり上げて腕組みをした。

 やがて、「わたくしの記憶の中では、女子プロで般若の面をかけて入場していたのは、ガールズジャパンプロレスの般若ヒンコと大日本女子プロレス道場の本田ミンの二人だけですね」

 意外な答えが返ってきた。妹の般若ヒンコはともかく、本田ミンって? 俺のおふくろだろ。おふくろも般若の面をつけてたってことなのか? それは、さすがの小太郎も知らない事実だった。オールド・プロレスファン観阿さんの年の功ってわけか。

「そうそう、本田ミン。わたくしが中学生の多感な年ごろに、本田ミンのセクシーなプロレスはものすごく刺激的でした。川野瀬先生に怒られそうですが、般若の面の下の抜群なプロポーションは最高でした。本田ミン観たさにそこの小石川ホールによく足を運んだものです。しかし、般若の面をかけて入場していたのは、ほんのわずかな間だけだったような気がします。それからすぐに、チャンピオンだった本田ミンは女子マットからいなくなってしまいました。そう言えば、般若ヒンコも一緒だったような。ユンボ杉山と悪の師弟タッグを組んで般若の面をかけだした後から、だんだん試合に精彩が無くなったような気がします」

 よく知っている。観阿さんはプロレスが本当に大好きなんだな。まるで小太郎と話しているみたいだった。

「わたくしが思うには、観阿弥の由緒書の通り、本田ミンも般若ヒンコも陰の面である般若の面だけをかけ続けていたために、やがて心身のコンディションを崩してプロレスを辞めざるを得なくなったのではないでしょうか」

 不思議すぎる話だが、観阿さんの考えはもっともだと思った。おふくろも品子も結局のところは、般若の面をつけ始めてから身体の自由を失っていったんだ。おふくろは、般若の面をつけ続けたために身体も心も病んで死んじまった。品子は、幸いなことにプロレスをやめてから般若の面をつけなくなったんで病気が進まなかった。

「ということは、俺の身体の不調もあの般若の面をつけていたためだったのでしょうか?」

 俺は確かめるように訊いていた。

「十二分に考えられることでしょうね」

 川野瀬先生が大きくうなずきながら、観阿さんに目で合図を送った。観阿さんは立ち上がって鏡台の上に置いてあった桐箱の中から、両手でうやうやしく面を取り出した。面に対して一礼すると、俺の目の前に掲げてくれた。

 若女の面だった。それは、古臭い時代の色に染まりきって枯れた面だった。ヒンコの般若の面を初めて見た時と同じ感覚だった。ただ、この若女の面からは般若の面のような妖しいうごめきや吸い込まれていくような感覚は伝わってこなかった。むしろ、面全体が神々しく光り輝いて周りからパワーを吸収してくれそうな雰囲気だった。

 この若女の面をつければ、俺や品子の原因不明の身体の不調が治るかもしれない。いや、きっと治る。絶望の淵に沈んでいた俺の心に明るい光が差し込んできた。

 俺は勢いよく立ち上がると、

「ぜひ、試させてください。その若女をつけて、俺や妹の身体が元に戻ったなら、それが陰陽の面であるという確かな証拠になります。試させてください」

 藁をもつかむ気持ちで深々と頭を下げた。

「やってみなさい。しかし、何が起こるかわかりませんよ」 

 川野瀬先生の救いの声だった。

 俺が顔を上げると、先生と観阿さんが握手をしているのが見えた。

「片方の面だけをかけるのが怖くて、わたくしはいまだにこの若女をかけることがありませんでした。しかし、このたび般若の面が揃ったあかつきには、わたくしもぜひ、陰陽の面をかけてお能の舞台に立ちたいものです。陰陽の面の力を借りることで、初めて父の舞いを超えられるかもしれませんからね」

 観阿さんが照れ笑いしながら、俺にも握手を求めてきた。

「ゼアミとヒンコのプロレスのために、ぜひ、お願いします」

 俺は観阿さんの手を両手で握って、もう一度深々と頭を下げた。


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