37 ガチ菅原への挑戦権
目が覚めたのは、硬いベッドの上だった。揺れを感じ、どこかで「ピーポー、ピーポー」とサイレンの音が鳴っている。間違いなく救急車の中だとわかった。
俺の目の前には心配そうにのぞき込んでいる辰波さんの顔があった。
「気が付いたか。急に震え出して気を失ったからびっくりしたよ。さっきの試合でやりすぎちゃったのかと思って心配だったよ」
俺はかなり長い時間、気を失っていたように思ったが、日にちは変わっていなかった。どうやら救急車で病院に運ばれている途中のようだった。
「ご、ご心配をおかけしてすいません」
「新吾、いいから、ゆっくり休め」
辰波さんの横には、蒼ざめた小太郎が座っていた。
「迷惑かけて悪かったな、小太郎」
俺は薄笑いしながら小太郎に握手を求めた。震えは止まっていた。
「新さん……」
小太郎が恐る恐る手を差し出してきた。俺はその小太郎の手に触れた。そして力強く握ることができた。小太郎と、目と目が合って笑った。
そうすると、品子の顔が浮かんできた。
――品子にも心配かけちゃったな。
救急病院での検査の結果、緊急を要する異常はまったく認められず、意識も戻ったことから、その日の夜には早々に病院から追い出された。その間、小太郎がずっとつきっきりだった。
小太郎と一緒に帰りのタクシーに乗り込んでしばらく行くと、見慣れた池之端の夜景が車窓を流れ始めた。左手にストロングジャパンプロレスの事務所の入ったビルが見えてきた。十階の窓にはまだ明かりがついていた。
辰波さん、頭に包帯を巻いたまま、まだ社長の仕事か。
俺は事務所の方に申し訳ない気持ちで頭を下げてから、小太郎に言った。
「せっかく、おふくろさんが名古屋から来てるのに、俺なんかに付き合わせちゃって悪かったな」
「うん。それより、新さんが無事でよかったよ。本当に大丈夫かい?」
「ああ、まだまだプロレスを続けたいからな。それにしても今日の小太郎のドラゴンスープレックスはすごかったな。辰波さんの肩がマットにめり込んでいるようだったよ。辰波さんがジュニアチャンピオンになった頃の、俺が辰波さんの付き人としてアメリカに行った頃の、あれはえぐい角度だったな。あれこそが正真正銘のドラゴンスープレックスなんだ」
小太郎が照れくさそうに顔を赤らめた。
「新さんに褒められると困っちゃうな。そうなんだよね。その頃、アメリカマット界では危険すぎる技を使う日本の若造がいるという噂があっという間に広がって、辰波社長がアメリカサーキット中はずっと白い目で見られていたみたいなんだ。結局、社長はドラゴンスープレックスをいっとき封印することになったんだけどね」
「そんなことがあったのか。プロレスの歴史って面白いな。辰波さんがやりたいっていうプロレス資料館だけど、やり方次第ではすげえ面白くなるんじゃないかな。辰波さんのために、よろしく頼むな」
「もちろんさ。そういえば社長から帰り際に言われたことがあったんだ」
「辰波さんから?」
「うん。今日の試合前にケロリンさんからアナウンスがあったことなんだけど……」
「ああ、今日の試合の勝者には、次の匠の大阪大会で初代チャンピオン・ガチ菅原さんへの挑戦権が与えられるってことか」
「うん。新さんとおれとどっちが挑戦者になるのかを決めて、明日までに連絡してほしいっていうことなんだ」
「そんなこと、最初っから決まってるじゃないか。辰波さんをフォールして勝ったのは小太郎だぞ。ガチさんへの挑戦権は小太郎に決まってるだろ」
「でも、あれは新さんや品子さんのアシストのおかげだから。それに……」
小太郎はそれきり黙り込んでしまった。俺も小太郎の気配を察してあえて聞き返さなかった。
タクシーが町屋土手のストロングジャパンプロレスの前に着いた。タクシーを降りてから別れ際に、小太郎がようやく重い口を開いた。
「新さんにこんなこと言っちゃ悪いけど……おれはこれからいつでもチャレンジできる。匠のベルトはもちろんのこと、ストロングジャパンのSWGPだって、ビッグジャパンのビッグスリーだって、世界のメジャータイトルだって、おれの努力次第ではいくらでも挑戦する機会があると思うんだ。新さん、気を悪くしないでくれよ。でも、新さんには、今後こんなチャンスってあるかどうかわからないだろ。だったら、行くべきだよ。今回は辰波さんが特別に与えてくれたチャンスなんだから、ガチさんのベルトに挑戦するのは新さんしかいないよ」
小太郎の目は異様に輝いていた。すべてを見透かしているかのような発言には説得力があった。
「そうだな……わかったよ。ベルトへの挑戦はこれが最後になるかもしれないしな。一か月後のタイトルマッチに向けてとことんやってみるさ。小太郎にはまた、スパーリングやなんやらで世話をかけると思うけどよろしくな」
「わかってるさ。でも、タイトルマッチには素顔の三刀屋新吾でいくのか、それともゼアミでいくのか。辰波さんはそこのところもはっきりさせろって言ってたよ」
「ゼアミでいくよ」
俺はなんのためらいもなく、そう言っていた。小太郎の顔が、パッと明るくなったのがわかった。
「ガチ菅原とゼアミの対戦か……関節技を主体にしたガチさんと反則技のゼアミの試合って、いったいどうなるんだろう。考えただけでもワクワクするな。早く観たいな」
小太郎は、ただの純粋なプロレスファンに戻っていた。
俺はうれしくなって、左手でコップを口に注ぐ素振りをした。
「小太郎、これから『風姿花伝』で祝杯を挙げるか?」
「何言ってるんだよ。新さんは今病院から戻ったばかりなんだよ。今夜はゆっくり休んで体の疲れを取らなきゃだめだよ。今日は本当にお疲れ様。おやすみなさい」
小太郎は手を振って合宿所へ走っていった。まったく大人になったもんだ。でも、少し寂しい気もした。
すぐ横の道場には、まだ明かりが点いていてマットの音と一徹さんの怒声が聞こえていた。一徹さんの居残り特訓か。そういえば、昨日の学者先生、プロレス観に行ってくれるんかな。
今日も晩秋の冷たい夜風が心地よかった。
部屋に戻ると俺は、籐製の箪笥の中にしまっておいた銀のフレーム写真を取り出した。家族四人、素顔でのリング姿の写真。小太郎が作ってくれた合成写真だ。今は、ここに堂々と小太郎と結子さんも加わって、六人家族になるんだ。
俺には、品子がいる。小太郎がいる。結子さんだっている。損得なしの頼もしい身内がいるじゃないか。それに、辰波さんをはじめとする匠の人たちもいる。しみじみとそう実感できた時、それだけで体中がぽかぽかと満たされる思いがした。
プロレスをもっと気楽に考えよう。ゼアミとか素顔の新吾などと力まなくてもいい。新吾もゼアミも結局は俺だ。一緒なんだ。
その日から、俺はあの不思議な般若の面を必要としなくなった。新聞紙に頑丈に包み込んで、ゼアミの部屋の奥にしまい込んでいた。




