28 おふくろの般若の面
俺と贋作・与作との一戦は、一週間後に発売された『ウイークリープロレス』誌上で、少しのよどみもない美しい試合だったと絶賛された。
俺自身もそう思っていた。
それは、すべてがかみ合った奇跡のプロレスだった。
小太郎もきっとそう思っただろう。
今後、二度とできない試合だったのかもしれない。しばらくは心が空っぽになっていた。
数日後、PWMS・匠の第四回大会の成功を祝して、内輪だけの酒宴を『風姿花伝』で開いた。俺と贋作・与作戦を快く承諾してくれた企画会議の人たちへの感謝の気持ちだった。参加者は、辰波さん、天孫さん、事務局の鈴木さん、ピューマ鳥取さん、ケロリン、そして、小太郎のたっての希望で品子を含めた六人だった。
そこには、もちろんPWMS・匠の初代シングル・チャンピオンとなったガチ菅原さんも招待したが、柄にもないとあっさり断られた。ガチさんらしかった。
その夜の『風姿花伝』には、小太郎の誘いで急きょストロングジャパンの若手も集まった。
『風姿花伝』のセオリー通りに、酒と缶詰だけのささやかな酒宴だったが、プロレス話に花が咲いてすこぶる楽しかった。
酒が入った天孫さんは若手を引き連れて腕をぐるぐると回しながら道場に行ってしまった。
辰波さんは鳥取さんやケロリンと今後の匠のリング上の演出について熱く語り合っているようだった。
小太郎は得意のプロレストークで、あいつの望み通りに品子と盛り上がっていた。実は、腹違いの姉弟だということも知らずにだ。
事務局のスズさんこと鈴木さんは……俺の横に座って寡黙にウイスキーのロックを飲んでいる。鈴木さんには事務的なことやプロレスの裏方的なことでいつも大変お世話になっていたし、頼りにしている存在なんだが、俺はなぜかなじめないでいた。仕事の話は完ぺきでスムーズなのだが、個人的な付き合いとなると、小太郎とは正反対だった。
黙り込んで飲んでいる鈴木さんに、俺は何か話しかけたかったが、まったく話題が浮かんでこなかった。ひたすらビールを飲むしかなかった。そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、鈴木さんがウイスキーを飲み干してから俺にポツリと言った。
「プロレスって、楽しいですね。特に匠のリングには人生が見える。それがいい。リング上で思いっきりレスリングを魅せて、観客を感動させて、そして見返りとして、レスラーがファイトマネーを稼ぐ。リング上にはレスラー一人一人の人生が見えるから、観客は感動する。最強なんていう称号も、八百長のそしりも、匠のリングにはいっさい関係ない。辰波さんも天孫さんも、あなたにも、あるのは純粋にプロレスが好きだという事実だけです。それが伝わってくるから、わたしは匠のお手伝いをしたいんです。経営や大会の運営のことはすべてわたしが引き受けますので、三刀屋さんは、プロレスラーとして、匠の代表として、どうすればお客さんを惹きつけることができるかということだけを考えてください。中年の独身者どうし、頑張りましょう」
説得力のある言葉だった。普段は事務的で寡黙な鈴木さんの熱い思いを聞くのは初めてだった。大賛成だ。なんて力強い裏方なんだ。
それにしても、鈴木さんて独身だったんだ。経営コンサルタントとプロレスに忙しくて、女どころじゃなかったんだろうな。
酒の勢いもあって俺は思わず立ち上がって、鈴木さんに握手を求めた。鈴木さんは照れくさそうに白髪の混じった頭をかきながら「よっこらしょ」と立ち上がって右手を差し出してくれた。
俺はがっちりと握手をするつもりだった。鈴木さんとの、いや、スズさんとの絆を深めるために力強くスズさんの右手を握るはずだった。しかし、なぜか力が入らなかった。スズさんが思わず「あれ?」という顔をして俺を見た。
だめだ。
「ちょっと、酔っぱらったみたいです」
俺は笑ってごまかして、右手を隠した。
「トイレに行ってきます」
俺は逃げるように事務所の奥のトイレに向かった。トイレの前で、今度はつまずいた。事務所のみんなからは見えないだろう。
いったい、どうしたんだ?
そこに、ふらふらとした足取りの品子が鼻唄交じりにやってきた。
「おっと、危ねえ。あれ、兄貴もしょんべんか」
「あ、ああ……」
「どうした。青い顔して。なんかあったんか?」
「なんでもない。少し飲みすぎただけだ」
品子に対しても、ごまかした。
「そうか。あたいは急いでるから、お先にな」
品子はあわてて、一度つまずいてから女子トイレに入っていった。
身体の自由がきかない。いったい、どうしたんだ。
俺は、品子の背中を見送ったまま、頭の中が凍りつくような感覚に見舞われた。もしかして俺も、おふくろや品子と同じ病気なのかもしれない。おふくろや品子のように、やがてプロレスができない身体になってしまうんだろうか?
だが、身体の異常はそれまでだった。すぐに元通りになった。
気のせいだったのか? そう思い込むようにして、どうしようもなく不安な気持ちを落ち着かせていた。
会がお開きとなって、みんなが帰った後、俺はゼアミの部屋で般若の面をつけていた。
その面は、俺がゼアミで使っていた面じゃない。
品子が般若ヒンコとしてリングに上がっていた時につけていた般若の面だ。
今はゼアミの部屋の一番奥の壁に飾ってあった。
ヒンコの般若の面をつけると、なぜか恐ろしいほどに気分が安らいだ。吸い込まれるような感覚の中に、身体中のもやもやしたものがすべて発散されていくような心地よさを感じた。その後に、麻薬常習者が口にするような高揚感や爽快感を味わえた。気持ちのいい面だった。
ヒンコから般若の面を預かってから四か月以上が経とうとしていたが、俺はその般若の面に憑りつかれるように、毎日、このゼアミの部屋で般若の面をつけ続けていた。
そして今日も、身体の不自由を覚えた俺は、その不安を取り払うために般若の面をつけて心を落ち着けてから部屋に戻った。
布団であぐらをかいて酒宴を続けていた品子に訊くと、品子も同じ感覚だったと言った。現役時代の試合前にこの般若の面をつけると気持ちが軽くなって試合への不安や焦りが消えていったという。
いったい、この般若の面って何なんだ? 般若の面をどこで手に入れたのか? 俺はずっと品子に訊き続けてきたが、品子は後ろめたい気持ちがあるのか、いっさい口を割らなかった。
しかし、今日は俺のあまりのしつこさに観念したのか、酔った勢いもあって半ばやけ気味に重い口を開いてくれた。
「意地悪ババアの家を飛び出した後、親父への腹いせに金目のものはねえかと思って、親父の留守だった築地の家を家探しにいったんだ。なんにもありゃしねえから、しゃーねー、母ちゃんが時々大事そうにタオルで拭いていた般若の面のことを思い出してな。押入れの上の棚のカバンの中にしまってあったのを知ってたからな。そういえば、あたいが小学二・三年の頃だったかな。学校から帰って部屋に入ると、突然、般若の顔が振り返ったんだよ。ホント、あれにゃびっくりしたよ。般若をつけてたのは、なんと母ちゃんだったんだぞ。いまだにあの時の般若が夢に出てくるよ」
「お、おふくろも……」
おふくろの民子、妹の品子、そして俺と……妖しい般若の面をつけた三人の身体の異変――きっと、何かあるに違いない。




