第百七話
「ぐ、おおおおおおおおおおおおお!」
神の慈悲と神の悪意。
相反する二つの権能が衝突し、サマエルは絶叫する。
光を放つサマエルの身体に亀裂が走り、ボロボロと崩れていく。
「コレは…!」
セーレは周囲を見渡して呟く。
異変が起きているのは、サマエルだけでは無かった。
先程まで周囲を飛び回っていたサマエルの分身体も、一人残らず砕け散っていた。
「権能さえも無効化する神の慈悲と、悪魔を創造する神の悪意が対消滅しているのか…!」
弱体化させるのみならず、サマエルの権能を根本から消滅させる。
神から授かった権能を消し去ることなんて、本来は不可能。
だが、カナンとシモンが対になる存在であるなら。
神の慈悲と神の悪意が、神の両側面を表すと言うのなら。
「ぶつけることで、共に消滅させることも出来る筈…」
その為に、マナは神から授かった権能を手放した。
少しも後悔は無かった。
そもそも、一部の人間だけに与えられる特権と言うのが間違いなのだ。
「悪だとか、善だとか。それだけで人を割り切れる筈がない」
使徒に生まれた者はそれだけで善なのか。
悪魔に生まれた者はそれだけで悪なのか。
神が与えた権能によって生まれた不平等。
それを、この世界から消し去る。
「な…!」
サマエルを取り込んで天へと伸びる光の柱。
そこから雨のように降り注ぐ粒子に触れ、セーレは驚愕に目を見開いた。
この光は、サマエルだけに留まらない。
サマエルの権能が失われたことで、それによって生み出された悪魔の力さえ消滅する。
「…ッ」
セーレの肉体が、人間に戻っていたのだ。
セシールも声も無く驚き、自分の身体を見つめている。
失われるのは悪魔だけでは無い。
元々権能とは神の悪意を滅ぼす為に生まれた物。
敵対者である神の悪意が消滅する以上、使徒の力も同様に消滅する。
神より与えられた全ての力が、地上から消え去るのだ。
「…やって、くれたな」
その時、役目を終えて消えていく光の柱の向こうから声が聞こえた。
憎々しい表情でマナを睨むのは、サマエルだ。
しかし、その姿は今までのような悍ましい姿では無い。
二十歳くらいに見える暗色の金髪の青年。
額や手の平に開く眼球も無く、皮膚を覆っていた鱗も消えた。
『人間』シモン=マグスの姿に戻っていた。
「神の悪意は、失われた」
「………」
「だが、私の意思は何も変わらない…!」
サマエルは憤怒に顔を歪める。
力を失おうと、人の身に戻ろうと、その意思は変わらない。
どれだけ追い詰められようと、サマエルは諦めない。
その執念は、最早呪いとなってサマエルの心に巣食っている。
「はあああああァ!」
激情に呼応するように、サマエルの身体からバチバチと火花が放たれる。
それは権能も悪法も失ったサマエルに残された力。
神では無く、人の信仰による力である法術だ。
その圧は凄まじく、今までの戦いの影響で崩れかけていた廃城が軋みを上げる。
「まだやる気か…!」
「当然! 私の憎悪は! 私が死ぬまで終わらないのだ!」
青白い雷がセーレへ向かって放たれる。
もう自分でも止められないのだ。
生きている限り、サマエルは止まらない。
その命尽きるまで、この世の全てを憎み続ける。
「…引導を渡してやるよ」
それと同等の法術を放ちながら、セーレは静かに呟いた。
二つの光が相殺し、衝撃で二人は反対方向に吹き飛ばされる。
「くっ…! お前も人に戻ったことで法術を取り戻していたか! だが、私に法術は…」
「いや、もう終わった」
「…何?」
訝し気な表情を浮かべたサマエルの足下で音が響いた。
衝撃で穴の空いた壁の近くまで吹き飛ばされていたサマエル。
その立っていた床が、音を発てて崩壊した。
「な、に…?」
今までの戦いで既に限界を迎えていた廃城。
先程の光の柱とサマエルの放った法術が、止めとなった。
足場を失い、宙へ投げ出されるサマエル。
その下には、城を囲む深い崖があった。
「…は」
底の見えない闇。
地獄へ堕ちる罪人かのように、サマエルはそこへ堕ちていく。
悪魔と名乗った自分に相応しい末路にサマエルは笑みを浮かべ、闇の中に消えていった。
「終わった、か」
セーレはそう言って安堵の息を吐いた。
流石のサマエルも、この高さから堕ちて無事では済まない。
今のサマエルはただの人間。
命も一つしか持っていないのだから。
五百年以上も人類の脅威と成り続けた悪魔は、滅んだのだ。
「や、やった! やりましたね、マナ様!」
「うん…」
喜んでマナへ駆け寄るセシールに対し、マナは曖昧に頷く。
浮かない表情だ。
それを見て、セーレは心からため息をつく。
「何故、そんな顔をする。貴様は賢者カナンさえ果たせなかった偉業を成し遂げたのだぞ?」
皮肉を込めてセーレはそう言った。
自分の出来なかったことを、まだ若く未熟なマナが果たしたのだ。
それは褒め称えられることであって、罪悪感を感じることでは無い。
「でも…」
「全てを救うことなど、神にも出来ない傲慢だ」
「………」
「奴の復讐は死ぬまで止まらなかった。それを貴様は止め、多くの人々を救った。胸を張れ」
神の悪意を失っても、サマエルは止まらなかった。
もう後戻りなど、出来なかった。
かつて求めた人の身に戻っても、その心までは戻らなかった。
「………」
ケイナン教では、悪人は地獄に堕ちると教えられている。
しかし、その運命に翻弄された魂が、少しでも救われることをマナは心から祈った。
せめて、死後は安らかであるように。
「…ところで、セーレって今はどう言う状態なんだ?」
その時、興味深そうにセーレを眺めていたセシールが呟いた。
「いや、マナ様が権能を手放したことで、私はどうやら完全に人間になったみたいなんだが………お前は今、どうなっているんだ?」
神の慈悲と神の悪意が失われたことで、使徒と悪魔は地上から消えた。
それにより、半魔だったセシールも完全な人間になれたのだが、セーレはどうだろうか?
セーレとしての悪魔の肉体と、カナンとしての使徒の肉体。
その両方を失った今、セーレは何者なのだろうか?
「ふむ。俺も完全に把握している訳では無いが、恐らく人間だろう」
セーレは自身の身体を確かめながら、そう呟いた。
「俺は四百年以上悪魔だったとは言え、元は悪魔化した使徒だ。使徒が人間に戻ったのと同様に、この肉体も人の身に戻った」
「それは、不思議な感覚だな。五百年以上前の人間が突然現代に現れたような物か」
「そんなところだな」
人間である以上、これからは普通に歳を取る。
普通の人間のように成長し、老化し、やがて死に絶えるだろう。
「…セーレは、怖くないの?」
「何がだ? 聖女様」
「五百年以上も生きてきて、あと数十年しか生きられないって思ったら…さ」
マナは心配そうに呟いた。
そう、マナには自覚が薄いが使徒は永遠に近い寿命を持つ。
外的要因で命を落とさない限り、何年も生き続ける生命力。
これまで五百年も生き続けたセーレにとって、人の一生など刹那に等しいのではないか。
人に戻ると言うことは、長い寿命を手放すような物ではないか。
「ふっ、聖女様にしては、よく人の心が分かっているじゃないか。確かに、思う所はある」
「………」
「だが、それが普通になると言うことだろう?」
不敵な笑みを浮かべてセーレは言う。
「神の力は失われた。これからは全ての人間が平等な世界になる。そこに特別な誰かなど、必要ない筈だ」
マナが言ったことだ。
人が人を救うのに、特別な力など要らない。
何百年も生き続ける救世主など、必要ない。
この世界は、人の生きる世界なのだから。
「そっちも、終わったようだな」
コツコツと靴を鳴らす音と共に、バジリオとオズワルドが現れた。
戦いで負傷したのか、多少の生傷が見られるが、命に関わる傷は無いようだ。
「遅かったじゃないか。もっと早く来ると思ったが」
「そ、それは、だな」
セーレの指摘に、何故かバジリオが狼狽える。
「先程の光の柱を見た直後から、バジリオの権能が失われてな」
代わりにオズワルドがその理由を答えた。
「どうやら、サマエルを倒した影響のようだと私は説明したのだが、コイツは…」
「お、オズワルド! その話はもう良いだろう!」
慌てて静止の声を上げるバジリオだったが、それは逆効果だった。
余計に興味を抱いた者達の眼が、オズワルドへ向く。
「それで?」
「…コイツときたら、遂に神から見放されたのかと勘違いして」
「打ちひしがれているバジリオを宥めるのに時間が掛かった、と」
その続きをセシールが答えた。
呆れたような眼でセシールはバジリオを見る。
「何しているんだ?」
「う、うるさいな。いきなり人間に戻ったらそれはびっくりするだろうが! 今は自分を受け入れたから良いだろう!」
コレも人の身に戻った影響なのか、外見相応の子供染みた反応をするバジリオ。
「と、とにかく、僕のように混乱している人間は大勢いるだろう! 早く聖都に戻るぞ!」
「それもそうだな。それじゃ、凱旋と行くか」
慌てながら言うバジリオの言葉に、セーレは頷いた。
不敵な笑みを浮かべるセーレを見ながら、マナは不思議そうに呟く。
「でも、セーレって悪法を失ったんだよね? どうやって帰るの?」
「あ…」
ぽかん、とした顔でセーレはそう呟いた。
暗い、暗い、光すら差し込まない闇の底。
ヒューヒュー、と風が擦れるような音が響く。
それは息遣いだった。
両手足の骨を折り、腹部を瓦礫に貫かれて尚生き続ける生き物の呼吸だった。
「…昔を、思い出すな…」
掠れた声で死にかけのサマエルはそう呟いた。
かつて、あの村にいた頃のサマエルも似たような目に遭ったことがあった。
全身を火で炙られ、声を出すことも物を見ることも出来なかったあの頃に比べれば、幾らかマシだ。
「…は」
あの時と同じだ。
また生き残ってしまった。
転落しながら咄嗟に放った法術はサマエルの命を助け、こうして言葉を口にすることが出来る程に回復させたのだ。
今は動けないが、時間さえ掛ければ肉体は元通りになる。
「ふ、はは…」
神の悪意を失った。
使徒では無くなった。
だから何だと言うのか。
生きている限り、サマエルは止まらない。
「また私を殺し損ねたな、カナン…!」
逆境など、何度も迎えてきた。
どれだけ失敗しても、サマエルは諦めなかった。
蛇が恐ろしいのは狡猾だからでは無く、執念深いからだ。
例え首だけになろうとも敵に喰らい付く執念こそが、サマエルの武器。
「待っていろ、カナン! 私は何度でも繰り返す! お前を殺すまで! 人類を滅ぼすまで!」
暗い希望を抱き、サマエルは嗤った。
傷を癒し、この手でセーレを殺す瞬間を思って。
「…?」
その時、サマエルは何かの音を聞いた。
何もいない筈の闇の中で、動く影があった。
「ルロロ…ラァ…」
「―――――――――」
闇から聞こえた獣のような声に、サマエルの思考が停止する。
暗い崖の底でぼんやりと発光するのは、黄金の鎧。
灼熱の黄金の鎧に身を包んだ半人半獣の化物。
「モラ、クス…」
「ルァァァァァァ!」
応えるように、モラクスは吠えた。
その身体は既に満身創痍だった。
神の悪意が消滅した事実はモラクスにも影響を与えている。
今にも崩れ落ちそうな身体で、ゆっくりとサマエルに近付いてくる。
『人の魂』を求めて。
「…一応言っておくと、お前はもう手遅れです。例え私の魂を喰らったところで、死は免れません」
「ルゥ…」
言った所で、無駄なことは理解していた。
モラクスは理性なき化物。
弱った餌を見逃すことなど、決してない。
そう言う風に、サマエルが作った。
「因果な物ですね…」
ゆっくりとモラクスは近付く。
もうその顔は、サマエルの目の前にあった。
「悪は滅びる、か。く、はは…ははは…ギャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!」
ぐちゃり、と音が響いた。




