第百六話
(…何故だ)
サマエルはセーレ達を睨みながら思う。
目の前にいるのは、カナンの残り滓だ。
悪魔化したカナンの残骸。
神の悪意より生まれ落ちたサマエルの一部に過ぎない。
セシールもそうだ。
サマエルの一部だったシュトリの子。
その力はサマエルよりもずっと低い筈だ。
なのに、どうして…
「シモン」
「…私を、その名で呼ぶんじゃない」
弟子だった頃の名を呼ぶセーレに、サマエルは苛立ちながら言う。
その名はもう捨てた。
神に反逆すると決意した時、
人類を滅ぼすと決定した時、
人間であった自身と決別する意味で、サマエルと名乗るようになった。
「私は力を蓄えた。お前に敗北した頃の私ではない!」
サマエルは空を掴むように両手を大きく広げた。
それに合わせて周囲に漂っていた魔性が全て、サマエルに吸収されていく。
「『来い』」
否、魔性だけでは無い。
このソドムに存在する悪魔。
バジリオ達と戦っていた全ての悪魔がサマエルの下へ帰っていく。
「一度殺されたから何だと言うのか。十度殺されたから何だと言うのか」
悍ましい蟲のような化物が融け合い、同化する。
ドロドロとした黒い液体を纏いながら、サマエルは酷薄な笑みを浮かべた。
「例え百度殺されようと私は消えない! たった一つの命しか持たないお前に『私達』は殺せないのだ!」
焼かれた黒い翼に代わり、サマエルの背に蠅のような羽根が生える。
不快な羽音を鳴らしながら飛翔するサマエル。
狙いは当然、セーレの下だ。
「死ねェ! カナン!」
メキメキと絶えず変化を続けるサマエルの身体から、毒針が放たれた。
その数は百や二百を超え、豪雨のように無尽蔵に降り注ぐ。
「『空間捕縛』」
青白い粒子がセーレ達を包み込む。
粒子で形成されたのは、半透明の青白い箱。
空間を塞ぐ、鉄壁の護りである。
「チィ!」
どれだけの猛毒を秘めていようと当たらなければ意味が無い。
毒の殺傷力はともかく、針自体は細く脆い。
針ではこの護りを突破することは出来ない。
「なら、これならどうだ!」
叫びながら右腕を振り上げるサマエル。
その手の中に、紅蓮の炎が揺らめいていた。
それは以前、サマエルが生み出した焔の蛇だ。
「かつて国一つ滅ぼした焔を完全に解き放つ! この城どころか、ソドム全てを焼き尽くす災厄だ!」
当然、サマエル自身もただでは済まないが、問題では無い。
自爆だろうと、道連れだろうと、セーレを殺せればそれでいい。
一度や二度死んだ所で、サマエルは痛くも痒くもないのだから。
「させるか!『空間切断』」
「ッ!」
サマエルが正にそれを放とうとした瞬間、背後から声が聞こえた。
青白い光が走り、焔を握り締めていたサマエルの右腕を断ち切る。
「ぐ…! き、さま!」
「『転移』」
サマエルから切り離された右腕。
解き放たれようとしていた黒い太陽をセーレは転移させた。
「貴様と心中するなんて、もう二度と御免だからな」
「ぐ…うう…」
失った右腕を再生させながら、サマエルは憎悪の眼でセーレを睨む。
それはサマエルにとって運命そのものだった。
神の悪意を滅ぼす為に神に選ばれた存在。
「お前に! お前に勝たなければ、私は…!」
サマエルの人生は、何の為にあったのか分からない。
ただ善に滅ぼされるだけの人生など。
殺される為だけに生まれた命など。
「天罰の章。第十節『改悪』展開!」
朽ちて穴の開いた天井から見える空に、赤く濁った十の陣が浮かぶ。
「十の使徒。十の災い。ここに神の恐怖を示せ…『聖呪』」
蝗や虻を模した陣から放たれるのは、赤く光る灼熱の雨。
人類を滅ぼす神の恐怖の顕現。
「チッ! 悪法『強欲』収束」
セーレは粒子を収束させ、それを迎え撃つ。
「穿て『空間消却』」
青白い渦が灼熱の雨と衝突する。
渦が音を発てて焔を呑み、焔が渦を焼き尽くす。
「私の方が強い!」
「ぐ、くっ…!」
拮抗は一瞬だけ。
灼熱の雨は、少しずつ渦を蒸発させていく。
この一撃は、最上位法術を改悪した物。
カナンとしての力を持っていたセーレならともかく、ただの悪法で防げる筈も無い。
「この世の全ては私の敵だ! 運命は私を世界の敵と選んだ! ならば私に残された唯一の救いとは、私を滅ぼす運命を持つ者を滅ぼすこと! 私自身の運命を超えること!」
サマエルの執念に呼応するように、聖呪は勢いを増していく。
「私の為に死ねェ! カナン!」
今のセーレではコレを防ぐことは出来ない。
灼熱の雨はセーレを呑み込み、痕跡すら残さず焼き尽くす。
それを理解した上で、セーレの顔に浮かぶのは笑みだった。
「一瞬だけでも拮抗出来れば、それで良かったのさ」
「………何?」
「今だ、やれ!」
瞬間、天より降り注ぐ灼熱の雨へ向かって、地上から光の柱が立ち上る。
黄金に輝くその光は、神の慈悲の顕現。
あらゆる脅威を打ち払い、人類を護る希望の光。
「馬鹿、な…」
空に刻まれた陣が悉く破壊される光景を見ながら、呆然とサマエルは呟く。
カナンの権能は失われた。
それを継承したと自称する小娘は未熟で、権能を満足に使うことも出来ない。
その筈では無かったのか。
「私の聖呪が…使徒を滅ぼす為に生み出した、私だけの法術が!」
サマエルの眼が、今の一撃を放った者を捉える。
「あんな、二十年も生きていない小娘如きに…!」
「………」
悠然と構えるマナとサマエルの視線が合う。
サマエルの見るマナの眼には、怒りも恐れも無かった。
その事実が、余計にサマエルを苛立たせる。
「本当に、この世の全てがあなたの敵だったの?」
「…何?」
マナの言葉の意味が、サマエルには理解できなかった。
「たった一人も、あなたを認めた者はいなかったの?」
「…何を言うかと思えば」
サマエルは失笑を浮かべた。
説得や説教のつもりだろうか?
そんなこと、言うまでもない。
サマエルはずっと孤独だった。
全ての人間がサマエルの敵だった。
それは当然のことだ。
「本当に?」
「………………」
サマエルの脳裏に、かつてシモン=マグスと呼ばれていた頃の記憶が過ぎる。
気の弱い盲目の男を演じ、カナンの弟子として過ごした一年にも満たない日々。
『ほら、ノロノロと歩かない! もうカナン様は先に行ったわよ!』
『アンナさん。そんな急かさなくても…シモンさんは目が見えないんですし』
『ヴェラも聞いているでしょ、今日中に町に着かないと………ああ、もう! 引っ張ってあげるから、ちょっと手を貸しなさい!』
『ああ!? 無理やりは駄目ですよ! 足を引き摺ってますから! 大丈夫ですか、シモンさん!』
滑稽な奴らだった。
目の前にいるのが自分達の敵とも知らずに、手を差し伸べた。
怒ったり、泣いたり、笑ったり、そんな当たり前の感情をサマエルに向けた。
まるで、自分達と同じ人間のようにサマエルを扱った。
『シモン…? ここで何をしているの?』
初めから、敵だったのに。
『な、何を? コレは、何? 私の、身体…どうなって…?』
だから、何もかも壊してやったのだ。
全て殺し尽してやったのだ。
「好意を拒絶したのは、あなたの方では無いの?」
向けられた感情に目を背け、自らそれを壊した。
アンナもヴェラも、サマエルの敵では無かったと言うのに。
「神の悪意として生まれたから、全てを滅ぼす悪魔になる。誰よりも愚直に『神の意思』へ従っているのは、あなたじゃないの?」
「ッ!」
サマエルは誰よりも神を憎む一方で、誰よりも与えられた運命に忠実だった。
運命を超えると口にしながらも、神の意思に従い続けた。
神の悪意として、悪魔の創造主として、生まれたから。
それを受け入れ、人間として生きることを諦めていた。
「………」
道は幾らでもあった。
身に秘めた憎悪を捨て、真っ当な使徒として生きる道もあった。
抱えた苦悩を打ち明け、本当の意味でカナン達の仲間になる道もあった。
人類の敵として生まれたからと言って、本当の悪魔になる必要は無い。
神から与えられた運命に抗い、一人の『人間』として生きることこそが、本当の神への反逆だったのでは無いだろうか。
「…言いたいことはそれだけか?」
「………」
「仮定に意味など無い。私はこう在ることを望み、そう選んだのだ!」
もう引き返すことなど出来ない。するつもりも無い。
悪に堕ちたサマエルに、行ける場所など無い。
「権能『神の悪意』」
サマエルの身体が大きく膨張し、泡のように破裂した。
飛散する黒い液体から生み出されるのは、数十のサマエル。
「分身…? また幻覚を?」
「違う! アレは、全部本体だ!」
セシールの言葉に、セーレが答える。
全く同じ姿形をしたそれは、全て偽者では無い。
サマエルに宿る数十の命を、全てサマエルの形にして具現化したのだ。
「「「はははははは!」」」
羽根を使って空を飛ぶサマエル達が同時に嗤う。
外見だけでは無く、中身まで全く同じのようだ。
何度でも蘇る不死性は失われたが、サマエルと同等の知性と能力を持った者が増大した。
「「「さあ、決着の時だ!」」」
瞬間、全ての影が動き出した。
「チッ! 二人共、俺から離れるなよ!」
広い城の中を縦横無尽に飛び回るサマエル。
時折、魔弾や聖撃を空から放ち、その度にセーレが粒子で防御している。
「切り裂け『空間切断』」
接近していたサマエルを光の刃が切り裂くが、すぐに次の影が迫った。
確実に一人ずつは殺せているが、総数が多すぎる。
(なりふり構わねえってか。こんな力押しなんて…)
基本的に慎重に戦っていたサマエルにしては、大胆な策だ。
数で押す戦法は数で劣るセーレ達に有効とは言え、一度死んだ命は簡単には補充出来ない。
ここでセーレを殺しても、サマエルにはまだやることが残っている。
極力、命は温存したいと考えていると思っていたが、間違っていたか。
(…いや、違う。コイツは熱くなっても、無駄なことはしない。こんな手段を取ったと言うことは)
この戦法でも、命の残数をあまり減らさない自信があった。
若しくは…
(減らした分、命を補充出来る理由があった…!)
「マナ=グラース!」
サマエルの狙いに気付いたセーレが叫ぶ。
自身の背に庇っていたマナの方を振り返ると、
「遅かったな、カナン!」
「チッ!」
背後に現れたサマエルがマナの肩を掴んだ時だった。
慌ててセーレはマナを奪い返そうと、手を振るう。
しかし、その手は空を切っただけだった。
「転移が使えるのは、お前だけでは無いんだよ」
一瞬でセーレから距離を取ったサマエルは、勝ち誇るように呟く。
その右腕が蛇のように変化し、マナの首に巻き付いていた。
「ぐ…う、う…」
「マナ=グラース。賢いお前なら分かっている筈だ。この私が、何故お前を捕らえたのか」
「…シュトリの悪法を、解かせる為」
「その通り」
マナの細い首を締め上げながら、サマエルは嗤った。
その気になれば、一秒と掛からずこの首をへし折れる。
そうしないのは、サマエルがマナの権能を狙っている為。
悪法を解くと言う権能を使い、シュトリに刻まれた呪いを解く。
「コレで形勢逆転だ! 私は三百の命を取り戻し、今度こそお前達を殺す!」
「くそ、が…!」
「はは…ギャハハハハ! 良い顔だ! カナン、お前のその顔が見たかった!」
セーレなら一秒でマナを取り戻せる。
だが、それでも長すぎる。
たった一秒、ほんの一瞬でサマエルはマナの命を絶てるのだ。
「さあ、マナ=グラース。権能を使え。お前だって命は惜しいのだろう?」
「………」
僅かに迷うような顔を浮かべた後、マナはその手をサマエルへ向けた。
マナの手から黄金の光が放たれる。
淡く輝く光は、ゆっくりとサマエルへ吸い込まれていった。
「ギャハハハハ! そうだ、それで良い! コレで、コレで私は…!」
ドクン、とサマエルの心臓が強く音を発てた。
嘲笑を浮かべていたサマエルの顔が固まる。
「……………?」
ドクン、ともう一度音が響く。
それと共に、サマエルの身体が淡い光を纏う。
「何、だ…? 何が起こっている…?」
蛇のように変化していたサマエルの右腕が、光の粒子となって消えた。
身体を覆っていた鱗も、ボロボロと剥がれ落ちていく。
「き、さま…! 私に、私の身体に何をしたァ!」
サマエルは蛇から解放されたマナへ向かって叫ぶ。
「…私の権能を、あなたに譲渡しました」
マナは、何でも無いことのように答えた。
「セーレから権能を返してもらった時に思ったの。コレを、誰かに与えることは出来ないかなって」
聖剣が引き継がれるように。
権能が使徒から使徒へ継承されるように。
マナの意思で、それを本当に欲する者に与えることは出来ないだろうか、と。
「そんな、馬鹿なことが!」
有り得ない、とサマエルは口にした。
かつてサマエルがあれほど欲した力を、何故そうも簡単に手放せるのか。
「神の力なんて、私は要らない。人を救うのに、特別な力なんて必要無いのだから」




