第百一話
「カナン様、と呼んだ方が良いか?」
転移で聖都へ帰還したセーレ達を出迎えたバジリオは、やや困惑した顔でそう言った。
詳しい事情は聞いた後だが、それでも信じられなそうにセーレを見ている。
「セーレで構わん。元がカナンとは言え、今は一介の悪魔に過ぎないからな」
「そうか。では、そうしよう」
意外とすんなり納得したように、バジリオは頷いた。
割とドライな信仰を持っているバジリオにとって、『賢者カナン』もそこまで敬う対象では無いのかも知れない。
「そうしてくれ。どちらにせよ、そろそろ限界だ」
「…限界?」
そう言うとセーレは、首を傾げているマナの手を取った。
繋がれた手が黄金の光を放っている。
「何をしているの?」
「俺の肉体は悪魔のままだからな。長時間、権能を維持できねえんだよ。だから、権能は貴様に返す」
「え?」
不思議そうな表情のマナが手を離しても、未だマナの手は光ったままだった。
それに伴い、セーレの纏っていた淡い光が完全に消える。
「俺は既に人としては一度死んだ身だ。この力はもう貴様の物なんだよ、聖女様」
「あ、力が戻ってる…?」
「俺が一時的にでもカナンとしての力を振るえるのは、聖女様のお陰だ」
凝った肩を解しながら、セーレは懐に仕舞っていた仮面を取り出した。
「俺は何度か聖女様から魂の一部を貰った。その度に俺の肉体は少しずつカナンに近付いていたのさ。聖女様は魂レベルでカナンに似ているからな」
いつもの仮面を顔に被り、口元に不敵な笑みを浮かべてセーレは言った。
魂喰いとは、学ぶこと。
悪魔は人間から知性を得る為に、魂を喰らうのだ。
カナンの後継者であるマナの魂は、セーレの忘れていた部分を大きく刺激した。
「は。コレが運命ってやつかね。あの日、俺を呼び出して契約した娘が、よりによってカナンの権能を継承する存在だったなんてよ」
「………」
神の思し召し、と言うのだろうか。
この世界には、人間の理解を超えた力(或いは法則)のような物が存在する。
それが使徒を生み、善性の体現者である『カナン=モーゼス』を生み、悪性の体現者である『シモン=マグス』を生み出した。
四百年間、悪魔として過ごしてきたセーレが今になってカナンの記憶を取り戻したのも偶然では無い。
ずっと沈黙していたサマエルがこの世界に干渉したからこそ、マナはカナンの後継者に選ばれ、セーレもカナンとしての記憶を取り戻した。
全て、人類の敵対者であるサマエルを滅ぼす為に。
「…分かりませんね。神がサマエルを滅ぼすことを望んでいると言うなら、そもそも何故神はシモン=マグスと言う使徒を生み出したのでしょうか?」
思考するマナの隣で、セシールが訝し気な顔で呟く。
そう、サマエルは語っていた。
シモン=マグスと呼ばれる男に『神の悪意』と言う権能を与えたのは、神であると。
だからこそ、サマエルは神を憎み、使徒を憎むのだと。
「…神に人の心は無い」
その時、バジリオは表情の無い顔で呟いた。
「神とは、言わば力の塊。太陽のような物だ。陽光が作物を実らせ、人を増やすこともあれば、日照りが作物を枯らせ、人を減らすこともある」
人が喜ぼうと、人が悲しもうと、太陽は何ら揺らぎはしない。
人の命など気にも留めず、燃え続けるだけだ。
「地上に降り注ぐ光の内、特に強い光を受けた者がカナン。逆に影となった部分にいた者がシモンだ。光の量は常に一定で、光があれば影も出来る」
「………」
それは、何て救いの無い話だろうか。
誰の悪意でも無く、神の怒りでも無く、
ただ、運が悪かったと言う理由で地獄に生まれたシモン。
影に生まれたが故に、妬み続けた光の下に生まれた者達。
例え神を憎んでも、不思議では無い。
「…間違えるなよ。マナ=グラース」
「セーレ…」
「奴の苦しみを理解するのは構わないが、奴を赦すなんて言い出すなよ。生まれがどうあれ、今の奴は全てを滅ぼす災厄そのものだ。その怒りが正当なものであれ、人類を滅ぼさせる訳にはいかない」
その怒りは理解できる。
その境遇は同情できる。
だが、サマエルを認めることだけは駄目だ。
アレはもう止まらない。
最早何をしても、奴は自分自身を止められない。
全ての人類を滅ぼしたとしても、きっと神はサマエルの怒りに応えはしない。
サマエルの復讐の果てに待っているのは、より深い絶望だけだ。
その前にサマエルを倒すことこそが、唯一残った救いである。
「アイツは、必ず俺がこの手で…」
それはきっとセーレがしなければならないことだ。
彼がまだ人であった頃、
彼の抱く憎悪に気付かなかった罪深いカナンに。
『君はきっと、誰よりも優しい人間になれるよ』
初めて出会ったあの日、あの男はそう言って私の手を取った。
鬱陶しい男だった。
黒く濁った異形の眼を隠し、嘘の仮面を被っていたと言うのに、それを容易く見破ってこちらの心を見透かしてくる。
『…そうか。君は今まで辛い目にあって来たんだね』
奴は世界中の声を聞く能力以外にも、他者の過去を読み取る能力を持っていた。
彼らの中に紛れる為、常に心の奥底に隠していた神への復讐心。
それを見抜かれてしまった、と最初は焦った。
だが、
『なら、君は誰よりも人の痛みが分かる人間になれる。今まで苦しい思いをしてきた分、他者に優しく出来る人間になれるよ』
奴は、私が思っていた以上に愚かだった。
私の過去を読み取りながら、私の地獄を共感しながら、奴はそんな言葉を吐いた。
気休めでは無い、恐らく本心から。
何て、愚かなことだろうか。
人の痛みが分からないのは、お前の方では無いか。
奴は、これだけの地獄を味わいながらも、人の善性を信じていたのだ。
どれだけを酷い目に遭おうと、人が何かを憎む筈がないと。
神への復讐など、企む筈がないと。
『は。ははははは…』
嗤える。
この男はきっと、人の悪性に触れたことが無いのだ。
コイツの周りにいた人間は、全て善人ばかりで悪人は一人もいなかった。
だからこそ、幼児のように世界は善性で満ち溢れていると夢物語を口にするのだ。
ならば教えてやろう。
本当の『人の悪意』と言うやつを。
「………」
魔都ソドムにて。
朽ちた城の玉座に腰かけながら、サマエルは自らの力を確かめていた。
神に与えられた権能『神の悪意』
自らの分身である悪魔を創造する能力。
「…は。皮肉ですねェ。神への復讐の為に手にする力が、神から授かった物だなんて」
サマエルは憎々し気にそう吐き捨てる。
こんな物、出来ることならすぐにでも破棄したい。
それが出来れば、最初からこんなことにはならなかった。
…普通に生まれていれば、それで良かった。
「…意味の無い感傷ですね。私はこうして生まれた。例えそれが何かの間違いだったとしても、今もこうして生きている」
そう、間違いなのだ。
神も運命も、初めからサマエルの敵だ。
だからこそ、サマエルの復讐は不可能に近く、あらゆる障害が邪魔をする。
「元々はカナンと弟子を皆殺しにすれば終わると思っていたんですけどねェ」
当時存在した全ての使徒を殺せば、それで終わると思っていた。
しかし、甘かった。
あの生き汚い使徒共は権能を次の人間に継承させ、地上に残り続けた。
地上に人間が存在する限り、神の使徒は消えない。
その事実に気付いた時は、絶望したものだ。
「だが、この世に不可能なことは何一つない」
絶望しても、サマエルは諦めなかった。
地上に人間が存在する限り使徒が増え続けるなら、人類を全て滅ぼせば良いと判断した。
自分なら、出来る筈だ。
この世に不可能なことなど、一つも無いのだから。
「私は神へ報復する! 誰の為でも無く、私自身の為に!」
人類の敵対者として、神に選ばれたからでは無い。
そうなるように、と神に望まれたからでは無い。
この復讐心は、この憎悪は、サマエルの内から生まれた物だ。
如何なる運命も、神すらも関係ないのだ。




