第70話 訊きたいことがあるのです
本日1回目の更新です。
泣き声がする。
梨々は目を開いた。
周囲はどろりとした闇の中、無数の画面が浮いている。
砂嵐のような雑音にふさわしい、灰色の粒が走り続ける画面。
足元には何もない、というより、足があるのかもよくわからない。
体の感覚がそもそもなく、ただ目玉だけは存在を感じる。延々とノイズが聞こえるのだから、多分耳もあるのだろう。
聞き間違いのような、すすり泣きが聞こえる。
無数の画面のノイズは無尽に重なり、時折唸りや嘲笑に似た音が混ざる。僅かに光を滲ませ、粒が走り続ける画面の中では、不意に何かの形めいたものが蠢く。
――どこだろう、ここは……一体、誰の
『この恥晒しが!』
突然の怒声に、梨々は硬直する。
男の声だ、父親と同じくらいの。
ノイズに肉を叩く音が混じる。
輪唱のごとく複数から響く。
罵声の砲撃。
怒号の強襲。
喚き叫びたてる高音の乱射。
悪意と負の感情に満ち満ちた大音声に、それを上回るノイズの嵐が耳を塞ぐ。
――それでも、か細い泣き声が、梨々にはずっと聞こえてくる。
「誰だ」
くるくると探し回っていると、明瞭な声がした。
振り向いた梨々に、闇と画面に隠れた人影はほとんど見えない。鋭角的な低めの声は、理知的な淑女のようでも、酷薄な青年のようでもある。
「っお前は……なぜ、こんなところに」
「泣いてたから」
答えてから、口もあったらしいことを知る。
「泣き声がしたから、探しています」
「探してどうする」
「……どうしましょう」
は、と、呆れとも疑問ともつかない声を相手がこぼす間にも、梨々は耳を澄ませ探している。
ノイズは重なって積まれて詰められて、羽虫が耳に何十匹も住むようだ。あるいは夏祭りのステージが轟かす、低音スピーカーの前に似た気持ち悪さ。
厚い雑音の向こうから、革で、金属で、言葉で打擲する音に嘲笑が混ざる。すすり泣きが遠ざかっていく。
代わるように立ち上る、冷徹な声。
『私が――であれば良いと言ったのはそちら』
『コロセッ! この――!』
『用済みだ、――郷』
ゴオ、と音を立てて画面の一つが燃える。
青炎が示すのは極度の高熱、そして魔法の火である証だ。止める間もなく燃え尽きる。
……いつの間にか、あの人影が梨々の目前にいる。
「これ、もしかして、あなたの」
「記憶だ」
「……でも、それは」
「黙れ」
酷薄に激情が滲む。次々に画面が燃え落ちていく。
「私は私の選択を悔いない。私の生き方は私のものだ、何も知らぬ只人の裁きなど受けるものか!」
苛烈に叫んだ人影は、全てを燃やす青に染まる。
だから、その直後に起きることを、まるで予測していなかっただろう。
「……そう、ですね」
梨々には抱きしめる腕があった。相手の胸元に押しつける顔もあった。身長差はいかんともしがたいようだ。
困惑した様子の相手を見上げ、梨々は言葉を続ける。
「私は何も知らなくて、わからないことが沢山あるんです。
なぜ生きるほうがえらいのかも、
自分から死を望むのがダメな訳も、
続けたくないのに、望まれているのに、生を止めてはいけない理由も――」
呪いを浴びて育った人間にとり、生とは地獄より酷である。
明日が来ることに価値がなく、昨日で終えることに損もなく、暁光は新たな苦行の幕開けとしか思えず。
欠けた大気の薄さにあえぎ、自重よりも重い圧を負い、何もわからぬまま胸が血噴く。
彼らの目に、死が安寧に映るのは当然なのだ。痛苦と永遠に別れるから。
――だから梨々には、わからない。
「どうして、泣いているのですか?」
*
「あなたは全てを終えた人。自分で終わりを決めた人。
望んで、選んで、果たしたのに、なぜ今も悲しむのですか?」
梨々は含みも躊躇いもなく、素直に不思議でならなかった。
望みを果たした者はみな、笑みや安らぎを浮かべるものではないのか。
喜びの涙と呼ぶには、その滴は唇に苦い。
「――あの方がお前の背丈ほどだった頃、わたくしは拐かされ、賊に裾をまくられた」
誓ってそれだけだというのに、わたくしは婚約を破棄され、屋敷の地下に幽閉され、外には流行病で死んだことにされた……婚約者どもは本当に死んだがな。
だが、あの方は、汚れたとされるわたくしに、変わらず花をくださった。
ゆえにわたくしは、この命の全てを賭して、あの方を生かすと誓い、禁じられた薬を呷った。わたくしの体のままでは、不都合が多かったから。
――以来、あの方を生き延びさせるために、ずいぶんと手を汚したが。
悔いはないのだ、本当に。
……ただ、
あの方の中から、私は消える。
初めからいなかったことになる。
人を超える魔力を得るために、己の記憶を燃やして魔力に換え、〈宿りの石〉を分解する。その力で、ただひとつの望みを叶える。
これはそういう術で、契約だ。
初めから存在も消え去れば、皆等しく私を知らず、悲しむ者もいない。だから悲劇にはならない。
――ああ、それでも
「惜しむくらいの弱さは、あるらしい」
囁き、
滴が落ちる。
疑問も落ちる。
「なぜ」
「……なぜ?」
「なぜ、あなたは、悲しまれたくないのですか?」
人影が、息を呑む。
梨々はひとつだけ知っている。
「泣かせたくない人ができたら、自分から死んではいけなくなる」
「ッ……黙れ、黙れだまれ!」
「泣いてしまう人ができたら、自分では死ねなくなるから」
「お前に何が――いまさら何も間に合わぬ!」
「いいえ」
告げたと同時、青炎が一気に消失する。
禁術の構造も内容も、梨々にはたやすく理解できるものだった。
きわめて簡潔に言えば、望みを叶えるだけの魔力を前借りする術だ。
魔術を発動した後で、借りた分の魔力を返せば済む。記憶と〈宿りの石〉による、二段階変換を要するほどの魔力は、梨々が持つそれの幾分かにも満たない。
つまり、梨々が代わりに支払ったので、取立の炎が消えたというわけだ。
「ごめんなさい、燃えた分は戻せないけれど」
続けて、梨々は魔術式を展開する。
多重に生まれ重なり合う紋様、それは究極点ゆえに制限を重ね、実質不可能とされた業。
「死者蘇生の……ばかな、どれほど魔力量を誇ろうと、これは複数人の魔術師がいなければ発動せぬ、暴発するぞ!」
「大丈夫、ひとりじゃないから」
呪文につかえることもない。
発音を間違うこともない。
この世界特有の、さらに古雅な言い回しを、彼女達は紡いでいく。
彼は裁かれるだろう。
数えられるだけでも罪は重い。死をもっての償いは、むしろひとつの救いである。
死者は痛みを感じない。
死体は痛みを伝えない。
痛みは、生きているが為にある。
……それでも、生きていなければ、痛みは癒えない。
「〈故、〉」
「〈祈りあれかし〉」
終いの文言を、相手も囁いた気がした。
次回は5/3夜18時頃更新です。




