第65話 一方その頃、シェルはめっちゃ暴れていた
時は少し遡る。
占術師の住まう館で、ひとりの先視が眠たげな顔を上げた。
王が最も信頼する、鮮やかな金の瞳を持つ女である。
重厚な黒衣をまといて床に座し、緩やかな褐色の髪を長く垂らすその姿は、誰も知らぬ未来を垣間見るという、ある種の異様に相応しい。
女が口を開く。
「やっとかよ。〈勇者〉が死んだっつーのに確定が遅いからひやひやしたぜ」
ばさり、黒衣を翻し立ち上がる。その瞳は丸く開かれ、現れた腕は紐で髪を束ねあげる。
さらに女は指先を目尻に近づけると、ぽろりと何かをこぼした。
金に光るほど磨かれた、何かの鱗のようなものだ。その下で乳白色の瞳が踊る。
「〈耳長〉も大したことねーな、この俺に出し抜かれるんだから。あれが国一の魔術師だってんなら、この戦は勝ち確だぜ」
そう喋る間にも、女の姿は変わっていく。重たげな黒衣から、肌に貼りつくような衣服へ。その上にいつの間に手に入れたのか、庶民風の貫頭衣と下衣を重ねて着る。
最後にあらかじめ書き上げていたらしい手紙を置くと、女は窓枠に手をかけた。
「じゃーな、俺なんて信じた愚かなオウサマ。せいぜいうちの陛下の礎になってくれや」
窓枠から飛び降り駆け抜ける女を、見た者は誰もいない。
*
「……だから、密偵と言うたのにの」
「行き先は山向こう――それなりの軍勢がそろっているかと」
「捨て置け、〈王の耳目〉はツァルデンの見張りしか命じられておらぬ」
「よろしいので?」
「大方、陛下は逃がされる。その後こそが妾の役目よ――むしろ今は、あの娘の方が問題だの」
蛋白石の瞳には、黒髪の子供が執務室に現れる、その瞬間が映っていた。
その後は、先に語られたとおりである。
*
黒髪の子供が騎士に運ばれている頃、警邏隊長ユイゲンは、なぜか秘密裏に執務室へと呼ばれていた。
部屋には蒼白で微笑む、妙に生気が宿った目のツァルデン王と、彼に懇願する宰相の姿がある。
「おおユイゲン、お前も陛下を説得せよ。そしてこの方を、安全な場所まで連れて行くのだ」
「マキュレイ、私は王なのだよ」
「だからこそ生きねばならないのです、陛下!」
「……何事です?」
思わずユイゲンは口を挟んでしまう。警邏隊長程度の立場ではありえないことだが、宰相に寵愛されている彼にはその力が許されている。
「我が国は他国と戦になる。それを許したのは私なのだ」
「陛下!」
「そうだろう、私が〈喰らうもの〉を滅ぼしたせいなのだから」
王の言葉に、ユイゲンは音ひとつ立てられない。それほどの驚愕が彼を貫いている。
〈喰らうもの〉が、彼の愛する養父母と義妹を奪った仇が、滅ぶ。
自分のあずかり知らぬところで、一太刀も浴びせることもなく。
――望んだ結果のはずなのに、この胸にうずまくものは何だ。
ユイゲンの困惑を一顧だにせず、観念した様子で宰相が子細を説明する。
短い黒髪の子供が、〈喰らうもの〉の消滅と、そのために他国と戦になる、という預言をもたらしたこと。
確かめるために先視の占術師を呼びつけたところ、手紙だけを残して忽然と消えていたこと。
そしてその手紙には、預言の裏付けと、戦になるので自分は逃げる、という旨が書かれていたこと。
王はその手紙を読んだせいで、民の平穏と引き換えに命を差し出すつもりなのだと。
「警邏隊長たるお前ならば、誰にも知られず町を離れる道筋も、安全な隠れ家も知っていよう、今すぐ陛下をお連れせよ!」
「しかし――」
「それでも陛下の臣民か! 民が全て滅びようと、陛下さえいれば再興はかなう! 我らは命を賭しても陛下に生きていただかねばならんのだ!!!」
その瞬間、
その言葉ゆえに、
彼の中で、何かが断ち切れた。
「……ユイゲン?」
くるりと背を向ける警邏隊長に、宰相が訝しげな声を上げる。
「俺は〈喰らうもの〉を討てると聞いたからこそ従ったまで。それが滅ぶというのなら、もう愚かな貴族に抱かれる義理もない」
「なっ?!」
「陛下、御身の無事をお祈り申し上げます……では」
警邏隊長、いや、ただのユイゲンが執務室の扉を閉めた瞬間、固いものが激しく扉を叩いた。
*
当てはなかったが、どうやら追いついたらしい。
硬い靴先が目に入ったらしい少女が、はっと顔を上げる。
乾ききらない短い黒髪、黒い瞳に、濡れた細い体。
「隊長、さん……」
「――その言葉がなければ、見逃してやれたのだがな」
細すぎる腕をつかむ。その袖を素早くまくりあげる。
現れた右腕には引き攣れた、大きな火傷痕が刻まれている。
「蘇りと引き換えの〈代償痕〉……やはりお前が預言者か、リリ・サトー」
「違います、これは」
「お前は死んだ。あの場所で死なないはずがない。それこそ、〈勇者〉でもなければ」
笑いは腹から勝手にこぼれた。ひきつけの発作のような嘲笑だった。
「〈勇者〉はもういない。必要すらない。〈王〉が滅ぶと預言させたのだから、〈喰らうもの〉は滅ぶのだろう? 俺の家族を犬死にさせたままなァ!」
びくり、手の中の腕が震える。
だが、少女の黒々とした目はしっかりとこちらを見ている。
幼子のように大きく開かれた瞳が、醜い蒼い目をした、金茶の髪の男を映している。
「……やめてくれ」
両親の、妹の仇を討つためだと言い聞かせて、あらゆることをやってきた。
戦技を磨き、侮蔑に耐え、己の見目すらも利用した。
汚れたことを幾度も行い、無辜の人々を部下に殺させた。
この身は赤く白く穢れている。
愛する妹にはとても見せられないほどに。
「見ないでくれ、サーチャ!」
ただただまっすぐな、彼女の目が耐えられない。ゆえに、
――剣風が、奔った。




