第61話 決着の時が重なります
局所的豪雨の描写があります。
ゆらゆらと歪む森の中を歩いていたはずが、気がつくと洞窟の奥だった。
見渡す限りに泉が広がる。
だが、梨々がそれに気づいたのはしばらく後だ。
見上げるほど大きな一枚の鏡が、その上に浮かんでいたからである。
幅広の縁には豪奢な装飾が施され、銀の表面は水面のようにさざめき、梨々と精霊王の姿を映す。
王が口を開いた。
〈これは扉であり口である〉
〈届く場は唯一つ、ゆえに望みも唯一つ〉
〈あなたが願う場所ひとつだけに、これをつないであげよう〉
どこまで、と梨々が尋ねると、どこでもいい、と子供が答える。
ツァルデンでも、よその国でも。暮らした家でも、それ以外の場所でも。勇者の世界で言うアノヨでもいい。こちらとあちらの二つの界、その範囲の中ならどこへでも、と。
その言葉に、梨々は迷う。
迷う心があることに、戸惑った。
正しくあるのなら、自分は地球に戻り、あの世に行った方がいいのだろう。
梨々が消えたと考えている両親は、梨々が生きて戻ることをきっと許さない。
たとえ家に戻れたとして、待っているのは罵倒と嫌悪の日常だ。傷の存在を知った今、その日々に戻ることには、足がすくむ。
それに、梨々が地球に戻ることで、百億の命の補填がきく。
召喚は偶然でしかなく、梨々は本来、あちらで生きて死ぬべき命である。
今回の家庭環境は不幸だったが、次はうまくやるだろう、多分。
そう――わかっている。
戻るべきだとわかっている。
けれど、浮かぶのを止められないのだ。
房のような長い黒髪も。
うれしいと緑に輝く瞳も。
梨々を抱き上げる長い腕、頭をなでる大きな手。
慰めてくれた広い胸、負ぶわれた温かい背中。
幼い日の祖父のように、当たり前にそばにいてくれた。
優しいということ、穏やかということ、与えられていた傷の深さや苦しみも。
細やかに、教えてくれた人。
――あの人は、泣くかしら。
そう思い浮かべば、目頭がじわり熱を持つ。胸がぎゅうと苦しくなる。
大事な人。
好きな、人。
だからこそ自分は、彼の記憶を消すことができる自分は、去らなければならないのに。
〈……会いたい?〉
ささやかれた言葉に、梨々の脳裏が閃く。
――欲が走る。
抱きしめてほしい
頭を撫でてほしい
そばにいてほしい
並んで散歩に行って、
一緒にご飯を食べて、
隣で本を読んで、
こっそりお菓子を分けて、
それから、それから――!
閉じ込めきれない想いがあふれる。
血潮のように噴き出して、水のように滾々と湧き上がる。
息も吐けずに、溺れて、しまう
〈会いたいのなら、ためらってはいけないよ。体の置き場は一度にひとつ。選べるのは、自分だけだ〉
さあ、と背中を押される。
踏み出した足が、おそれるように泉に触れた。
*
にやりと笑う短髪の少女は、突然その場を飛びのく。
一瞬後を刃が薙ぐ。
ナイフには長い剣身が、ぞろりと輝く。
「馬鹿ナ、砕ケタ心ニ剣ガ握レルハズガナイ!」
だが、少女の姿に襲い来るのは切り刻む刃、そして本物の剣技だ。
長い黒髪が房のように踊り、銀色が無数に閃く。
そのたびに少女の服は裂け、肌の傷から靄が散る。
「――出ろ」
地を這うごとき低い声が届く。
「そこから、出ろ」
それは、怒りに裏打ちされている。
それは、大いなる恥辱に震えている。
――安い挑発にのるほどに、自分は弱いままなのか。
愛し誇った主たちが、歴史の陰で絶えた一族が、幸薄い少女が遺したモノを、護るのは自分だけだというのに……!
「その姿から、出てこい!」
勢いも速く踏み込む、その腕から剣が降る。
刃は靄を裂き肉を裂き、骨を断たんとガガと叩く。
濁りきった悲鳴が細喉から噴き出す。
同時に、怨嗟が轟いた。
「口惜シヤ、口惜シヤ! コレホドノ純然タル怨ミガアリナガラ! ダガ、〈御化〉ガコレデ死ヌナドト思ウテ『いや、お前はここで死ね』ナッ」
「ルカ?!」
突然周囲に響いたのは、灰色髪の精霊の声だ。
『質疑応答は後だ! シェル、〈御化〉を封じる、無事でなくても手伝え!』
「うるさい無事だよ、ホントお前精霊使いが荒いな!」
『よし、〈挟み討ち〉な』
「それは魔力が――」
『いける。お前もだろ』
きっぱりとした声に、シェルの頭はある可能性を浮かべる。だが、問うのは後だ。
彼の手には、猛攻の中でも手放さなかった、梨々の右腕が握られている。
固いのは死者の腕だからではない。
これは、魔力で練られた義腕である。
ゆえに――術者が望めば、再び魔力に還元する。
腕ひとつ分を無理なく動かすために、練った魔力は莫大だ。
例えば、〈御化〉を二人がかりで殲滅できる程度には。
だが、還元すれば。
「――〈音を愛する者、風よ、疾く来よ〉」
『〈森を愛する者、水よ、疾く来よ〉』
「チィッ!」
詠唱を始める精霊に、半ば靄となった〈御化〉は逃走を試みる。
だが、「グワェイッ?!」長めのナイフに足を縫い止められ、頭からは見えない圧力をかけられて、少女の姿を捨てることができない。
本来靄に等しい姿である〈御化〉を封じるには、形を持っていることが条件なのだ。
〈御化〉は少女の声をたてる。
「シェル、シェル! 助けて! 私を二度も殺さないで!」
「〈風よ刃となれ、鞴となれ、戦果振り撒け〉」
『〈水よ槍となれ、礫となれ、戦利撒き散れ〉』
「しぇる、しぇるぅ……いやだよお……わたしはしにたくないノォ……」
「〈汝浄めの猛風なれば、怨敵尽く潰え〉」
『〈汝清らの激流なれば、忌敵須く滅す〉』
〈御化〉が怒号と悲鳴の入り交じったような苦悶を放つ。
だが、その顔は凄絶に、口が裂けそうに笑っている、嘲っている。
風も水も、浄化には強力な存在だ。だが、あくまで二番手でもある。
〈御化〉を確実に滅するのは、魔力を尽くした炎だけだ。宿った肉体を滅ぼされようと、靄のほとんどを打ち消されようと、押し流すだけの風や水相手に、〈御化〉の浄化は務まらない。
ゆえに〈御化〉は、派手に苦悶する陰で少しずつ、己を外へ逃がしていく。負の感情がたまる場さえあれば、欠片になろうと存在はできる。
詰めの甘さを嘲った、その時だった。
「〈――以て、天を募れ〉!」
「〈地を貫け〉!」
轟くは、天地をつなぐ一閃。
瞬殺された〈御化〉は、最後まで何が起こったのかわからなかった。
*
空は急速に曇天と化し、瞬くまもなく土砂降りとなる。
唸りを上げていた黒雲は、やがて明確に塔の一点を撃ち抜いた。
目を灼くほどの閃光、間を置かぬ轟音に、姫君は長い耳を伏せ、傍らの娘を抱き寄せる。
栗色の髪の娘は、先刻からぐたりと力なく、それでも瞼はどうにか持ち上げている。姫君の魔術のおかげでもあった。
「ルカ達、でしょうか」
「さてな……」
あやつら、生きておるといいが。
その言葉を胸中で飲み込み、姫君は己の従者を呼んだ。




