第59回 誘う者、招かれぬ者
体液めいた赤が渦巻く空間の中。
そこに立つシェルの周囲を、どす黒い靄が覆っている。
一度目であったなら、これほどの絶望はなかっただろう。
彼女でなかったのなら、色濃い悔いに呑まれはしなかっただろう。
シェルが主を〈食われる〉のは、これが二度目だった。
一度目は八百年以上昔、病弱で長く生きられないだろうと言われた、リーシャの娘リラだ。
母譲りの墨色の髪と瞳をした、賢しらな幼子。
シェルが初めて抱いた赤子であり、初めて育てた子供であり、初めて喪った主である。
病により急激に魔力を落としたリラは、今よりも強力な〈食らうもの〉たちに襲われ、むなしく全身呑み込まれた。
指一つ、爪一つすら残らずに。
いつかの死別を覚悟していたリラの時でさえ、喪った空漠は想像を絶するものである。
まして、リラがそのまま育ったかのような姿の少女――梨々が〈食われる〉のに間に合わなかったことは、シェルの心をひび割れさせるに充分だ。
唯一つ残された右腕は、止血の甲斐なく冷えていく。
生き物とも思えぬ固い腕だ。死者の腕だ。
(どうして)
言葉にならない痛みから、片言の疑問がこぼれ落ちる。
(どうして主が襲われた?)
(どうして主が殺された?)
(どうして主が、死ななければならなかった……?)
「人間のせいさ」
ふいに、答えが返る。
目の前には、小柄な人影。
薄い肩の上で、短い黒髪が揺れる。
「人間のせいだよ、シェル。傲慢で強欲な人間たちが、自分たちだけの望みを叶えようとして、私たちを踏みにじったんだ」
「リラ――主……?」
「どっちでもいいじゃない、そんなこと。大事なのは、私たちは人間に殺されたってこと」
よく動く赤い口元に、シェルの視線は吸い寄せられる。
唇は笑みさえ刻みながら、朗々と声を上げていく。
「人間は強いほど勝手をする。潰されるのはいつも弱い方。殺したって見向きもしないんだ。死なせたことすら気づかないんだ。こんな理不尽ってあるかい?」
にこり、人影は笑みを浮かべる。
懐かしい無邪気なその顔に、シェルの胸は締めつけられる。
――主にも、こんな風に笑ってほしかったのに。
「だからさ、仕返しに行こうよ」
「仕返し」
「そう! シェルが助けると言ってくれれば、私たちには力が手に入る。私たちで彼らに仕返しに行こう!」
細い腕が差し伸べられる。小さな手がシェルを誘う。
寝台で、遊ぼうと招く時によく見た様が、屈託なく抵抗を減らしていく。
どす黒い靄が蠢いて、シェルの手足に絡みつく。
しかし、そのことに彼は気づかず、人影へと口を開いて――
「いけません」
突然の大音声、同時に口を塞がれる。
伸ばしかけた手もまた、何かの力に引き留められる。
そこに姿は見えない。しかし、いるらしいことは感じとれる。
大きな手が、シェルの視界を覆った気がした。
「いけません。その力は〈魔王〉に繋がるもんです。悲しみに呑まれても、憎しみに焼かれても、世界を壊してはいけんのです」
「違うよ、ちょっと仕返しに行くだけだよ! だって私たち殺されたんだよ?!」
耳元で聞こえるのは、田舎くさく訛りの強い、しかし力強い言葉だ。
甲高い声が、慌てたように主張する。
「精霊王は言われとります、痛みに世界を歪めてはならぬ、と」
「シェル、シェル、助けてよ! 助けるって言うだけでいいんだから!」
「なぜなら、世界というもんには常に、大事な者と、大事な者が大事にする者がいるからです。世界を壊せば、大事な者も壊れてしまう」
「私たちには、シェルしかいないの!」
「あなたにも、大事な方たちがおられるでしょう。皆さん、あなたを心配しておってです」
――レグラントの家を見守るだけが記憶ではないわ。
ふいに甦ったのは、半年近く前に亡くなった元主、ユマニエルの最後の言葉だ。
――あなたが大切にしたい方を見守って、繋いでいくことも、リーシャ様の望んだ記憶だと思うの。
そう言って、ユマはベルーシャとの繋がりを遺した。
腐れ縁のルカ、料理長のスヴェン、古い知り合いのレウ、迎え送り出してきた大勢の友人と使用人と、彼らの大事な者たち。
――主たちが愛した者たち。
「大事な者を奪うのは、いつだって人と王ではないか!」
甲高い声が轟く。
靄が渦巻いてシェルを覆い、全身に雷撃のような痛みが走る。
「ぐっ……」
「邪魔ヲスルナ、アブレ者! コノ精霊ハ我ガ器ニ相応シイ! コレデ憎キ者を滅シテヤルノガ、無駄ニ殺サレ続ケタ、オ前タチノ望ミデモアルダロウガ!」
「いけま、せん……気づい、て……あなたの主が、あなたが悲しむことを、望むはずが、ない……」
隠されていた視界が開けていく。
目の前の人影が、ニヤリ、笑った。
*
〈珍しいこともあるものだ〉
〈ああ、珍しいこともあるものだ〉
〈人の子がここまで来るなんて〉
裸足で歩き続けた森の奥、開けた草地に立つ一本の樹の下で、ぱちりぱちりと何かを進める人々がいる。
たっぷりと髭をたくわえた、背の高い老人がひとり。
豊かに過ぎる髪と胸と腰を持つ、年齢の曖昧な大人がひとり。
性別の垣根を軽々と越えるような、利発な目をした子供がひとり。
三人は木製らしい盤の上で、何やら駒を進めている。
〈王の座が開かれて以来初めてだ〉
〈星が大地を叩き割るほどに珍しい〉
〈それで、どうするの?〉
ぴたり、指が止まり。
ゆらり、顔が一面を向く。
その先に立つ裸足の梨々は、六つの視線に貫かれ、体を震わせる。
彼らを梨々は知っている。
魔術と精霊に満ちたこの世界で、御伽噺にすら語られる、全てを統べるモノ。
「精霊王……」
〈最奥へようこそ、界を渡る魂〉
三柱一体の王は、そう告げて駒を動かした。




