第57話 遭遇はするが対面はできない
注意:よく考えるとグロい。
「……よかったんですか?」
ふらふらと階段を上っていく少女を見ながら、鳶色の髪の副隊長がささやく。
ユイゲンは怪訝そうに眉を上げてみせたが、口は一筋も開かない。
「隊長、小さい子供は見逃がしてきたじゃないですか。なのに、あの子だけ……しかも、まだ熱も下がってないっていうのに――」
「宰相殿の命だ」
上位者に従うのは、警邏隊が軍事組織的な面をもっていることを示す。
軍において、上の命令は絶対だ。どれだけ理不尽であろうと従うのは、そこに味方の安全がかかっているからである。
上意下達が滞れば、死ぬのは末端の者たちなのだ。
だからこそ、警邏隊長にすぎないユイゲンは、宰相の命に絶対的に従う。
自分を拾い上げた彼の命令に従うことが、自分の復讐につながっていると、信じている面もある。
けれども――ユイゲンの手のひらから、すがるように握る小さな熱が消えなかった。
*
はぁ、はっ、と息を荒げながら、梨々はようよう目的地に到着する。
先導していたフード姿の人物から、呆れと苛立ちの入り交じる視線を感じた。
「早くお入りください」
扉を開けて示される。
入り口から一歩進んだところで、熱のせいだろうか、足がもつれてすっ転んだ。
ずざぁっ、とスライディングする梨々に、フードは一言だけ告げて扉を閉める。
「正面の壁に向かってお進みください」
淡々とした、いっそ清々しいほどに無関心な声だ。
梨々はその指示通り、起き上がって正面に歩き出す。
ちらりと見た、右手から血がにじんでいる。
壁には無数の文字と、意味ある図形が刻み込まれ、蛍火のように明滅している。よく見れば床も同様のようだ。
どこか既視感のある空間である。
暗闇に響く、無数の叫び声。
乏しい明かりの中、端から消えていく人々。
――かすかに見える、蠢く輪郭。
梨々は無意識に足を止める。
次の瞬間、転身。
ズムン……
梨々の立っていた場所を、透明な輪郭が飲み込んだ。
振り向けば、空間の半分は占めそうなほどの巨体が、見えるはずのない輪郭を震わせている。
それは、高熱も一気に冷めるほどの存在。
〈食らうもの〉。
その姿は、巨大すぎる細胞を思わせた。
ノタリ……ノタリ……
緩慢な動きで近づいてくるそれに、梨々はとっさに横に逃げる。津波のように透明な輪郭が押し寄せたのは、その直後だ。
ぎりぎり間に合わなかった踵が、削られる。
いや、〈食らわれ〉る。
「――本当に、痛くないんだ」
踵が消えたせいで片足立ちに近い状態で走りながら、梨々はひとりつぶやく。
ノタリ、〈食らうもの〉が蠢く。
ついでに扉も食べてくれればいいものを、人間しか〈食らう〉ことがないのは本当らしい。
近づいてくるのを、また横に逃げてかわす。動きが遅いことと、なによりかすかに輪郭が見えることが、梨々の生存を可能にしている。
だが、じわりじわりと踵から消えていく感覚は、逃げ切れないと暗にささやく。
ズムン、透明な津波を起こされながら、部屋をぐるりと一周する。
取っ手にとりついたが、梨々の力では微動だにしない。鍵のぶつかる音すら聞こえないほど、頑丈に閉め切られている。
〈食らうもの〉が押し寄せる気配がして、梨々は二周目に突入する。
もともと高かった熱がさらに高くなり、息は切れ視界は朦朧としてくる。
『さっさと食べられてくださいよ』
部屋のどこかから声がした。
幻聴かもしれない。そのくらい梨々は頭が働いていない。
『食べられないと判断つかないんですよ。いつもは一瞬ですむのに……』
苛立たしげな声は、母親を思い出させる。
梨々が知らないところで死んでいることを常に期待していた、彼女の声に似ている。
『あんた、なんで死なないの』
なぜだろう。
死ぬのも、還るのも、この世界にとっては同じことだ。梨々の存在が消えるだけ。
シェルの記憶を消させないために去るのならば、〈食らうもの〉に飲み込まれるのも選択肢のひとつである。
なにより、梨々は一時、それを選ぼうとしていたのだ。
なぜだろう。
――なぜって、それは
『主!』
声がした。
彼を呼んだはずはないのに。
扉にぶつかる音がする。微動だにしなかった扉がきしんでいる。
消えそうな梨々のつま先は、自覚する前にそちらへ向かっていた。
ガダン、と扉が動く。
壁との隙間が広がっていく。
扉へと右腕が伸びる。
傷ついた手から血の滴が落ちる。
駆ける梨々は気づかない。
彼女の背のすぐ後ろ、透明な輪郭があることを。
ズムン……
――ボトリ
*
そして、彼は見る。
青白い巨体の、〈食らうもの〉が蠢く様と、
今落ちたかのように転がり跳ねる、細く小さな右腕を。
それは、塔ばかりでなく。
広い広い王城の、全ての部屋に響かんばかりに。
――慟哭が、轟いた。




