第56話 一方梨々は階段を上っていく途中だった(息切れ多め)
この世界での最後の食事は、半分も食べられないまま終わった。
塔の最上階にある大広間に行けば、元の世界に帰れるという。
汗をかいた体を拭い、清潔な下着を身につける。
上からは、庶民的な貫頭衣をかぶるよう言われた。
熱の残る体でのたのたと支度しながら、梨々は元の世界――日本のことを考える。
自分が死ぬことを期待してきた母親はどう思うだろう。
全てを娘のせいにしてきた父親はどう思うのか。
学校にも、生徒会にも、自分の居場所があるとは思えない。梨々はこれまで、クラスの中で浮くことはなくても、なじむこともまたなかった。
――ただ、こちらの世界よりは食事に気を遣わなくていい、それだけの世界。
「……シェルさん」
対して、こちらの世界の人々は梨々に優しかった。
ベルーシャも、ルカも、スヴェンをはじめとするロコンチェルキ家の使用人たちも。
――自分を買ったはずのシェルでさえも。
耳の長いお姫様。治療してくれた医師とレウ。制服の人間たちでさえ、梨々に食事と寝床を与え、一部を除いて誰も乱雑に扱わなかった。
初めて、誰かを好きだと思った。
いや、思い出したのかもしれない。
「おじいちゃん……」
元の世界で、唯一大好きだった人。
祖父が死んだとき、梨々の心も凍ってしまった。
薄茶と緑の入り交じる瞳が、真剣に怒ってくれるまで。
その優しいお節介で、温めてくれるまで。
「――帰らな、きゃ」
だからこそ、梨々はこの世界にいてはいけない。
優しい彼の記憶を、消してしまう自分は、去らないといけない。
幸い、王様の命令と、自分の目的は合っている。
元の世界に帰れば、彼の記憶を消せる者はいなくなる。
――それでいい。それが、いいのだ。
*
謁見の間は、伝説もいえる諫めの一族を一目見ようと、朝早くから野次馬が詰めかけている。
しかし〈耳長の姫〉の登場に、野次馬たちは息を呑んだ。
そうして自分への視線がはずれたことに息をつきつつ、ベルーシャは真剣な顔を崩さない。
王が異界の民を殺している、その状況証拠はそろっている。
だが、あくまでそれは推測の材料に過ぎなかった。
だからこそ、ベルーシャは無理を承知で、遠縁である諫めの一族に連絡を取ったのだ。
大伯母の妹に当たる最後の直系に、どの言葉が響いたのかはわからない。今朝方ようやく届いた証を再度握りこむ。
この証がある限り、今のベルーシャは王と同等だ。宰相の言は封じられる。
そして、王の前に直接乗り込み、証言を得ることには半ば成功している。
だがそれはまだ、暗に示されているだけだ。
同じ王族である〈耳長の姫〉が言いくるめれば、真実は闇の中。
リリの居場所も無事も、わからなくなってしまう。
――殺されてなるものか。ユマニエルが亡くなって、一年もたっていないのに。
王の前に進み出た〈耳長の姫〉が、膝を折る。
「なぜおいでになったのです。今は謁見中ですぞ」
「用があるからに決まっておるだろう」
宰相が咎める声で言う。その棘は礼儀に包まれてなお鋭い。
対して姫君は、あくまで飄々とした態度を崩さない。
互いが互いを敵視しているという噂は、真実のようだとベルーシャは解する。
先王の姉姫が、ならず者の〈森の民〉に襲われてできた子供である〈耳長の姫〉。
彼女は〈森の民〉ゆずりの膨大な魔力と、不老長寿の体を持つ。現にそろそろ三十歳近いというのに、豊かな金髪を揺らすその姿は、十六歳の成人したてと変わりない。
王族の血を引きながら、その特異な立ち位置ゆえに、王位継承権は与えられず、城で飼い殺しにされることが決定している身の上だ。
だが、王族は王族である。公式な場に出れば、王の次に敬意を払わなければならない。強大な権力を持つ宰相でさえ、立場上覆せない原則だ。
それを厭う貴族たちのために、〈耳長の姫〉は叔父の葬儀にすら参列できなかった。
その姫君が、公の場に立つ。
この一点だけで、どれほど異常であることか。
衛兵さえも顔を見合わせ、野次馬のざわめきは止まらない。
「陛下」
よく通る声が、場を揺らす。
「城のはずれの塔で行っていることを、お取りやめくださいませ」
王は無言を貫く。その表情には何も浮かんでいない。
だが、姫君はあくまで王に顔を向け
「〈御化〉の気配がございます」
ざわり、動揺が渦巻く。
ベルーシャたちも例外ではない。
一瞬とはいえ、宰相の顔すら引きつった。
〈御化〉とは〈勇者〉の命名した、死者の断末魔の集合体である。
恨みの感情を吸って成長するそれは、放置すればやがて〈魔王〉に至ることすらあるという。
――そしてそれは、短期間で多くの人間が殺された場所に、発生するのだ。
「姫殿下、陛下に報告せずとも、貴女様の莫大な魔力で一掃すればよろしい」
「元を絶たねば意味はありませぬ。陛下、何をなさっておるのか知りませぬが、早々に取りやめるがよろしいかと」
姫は知っているのだ、とベルーシャは直感する。
王に向かい、再度声を上げる。
「陛下、集めた異界の民は、その塔にいるのではありませんか?」
城からはずれた塔のどれかに、集められていることはベルーシャも知っていた。
そこには、毎日十名程度の分しか、食料などが運び込まれていないことも。
王は何も答えない。
それが答えのようなものだ。
シェルが即座に立ち上がり駆け出す。ルカは鼻を鳴らした。
「沈黙は後ろ暗さとみなすぜ。まさか〈御化〉を自前で作ろうなんてなあ」
「っ違う、私は〈勇者〉を」
「陛下!」
宰相が珍しく声を荒げる。
「姫殿下、早々に〈御化〉に対応を。残りも下がるがよい」
「諫めの一族は、証ある限り陛下と同等。そなたごときが命じて動かせるなどと思うな」
扇で打つがごとき鋭さと鮮やかさ。
鋭い緊張の支配する空間に、ベルーシャは己の力量不足を歯がみする。腰が引けないようにするので精一杯だ。
「マキュレイ」
王が口を開く。
「例の件の一時凍結を。〈御化〉に対応せねばなるまい。あれはまだ、人でも倒せるものなのだから」
「……はっ」
宰相が頭を下げる。
「諫めの血を引く者よ、私は私の民のために動く。いずれそなたにもわかるだろう」
「――陛下の民は多様にございます。お心がけを、陛下」
王の言葉は最後まで穏やかであった。
表情を欠片も変えぬままに。
*
衛兵の誰何を振り払いながら、シェルは城内を駆けていく。
城の外れの塔はいくつかあるが、異様な気配が立ちこめているのはひとつだけだ。
主は無事でいるだろうか、と思う反面、名を呼ばれればすぐ行けるのに、という苛立ちもある。
彼女は愛に飢えた子供ではない。
愛されることそのものを知らない子供だ。
大事にされること、大切に扱うこと、それを自分のものでないと思っている、痛ましい子供。
あの日、オークションで。
遠い昔の主であった、病を抱えた幼子が浮かんだ。
それとよく似た顔をした、そのまま育ったかのような姿が、こわばり震えているのがやりきれなかった。
突然別れ、愛しきれなかった悔いが、重なったのはある意味当然だった。
愛してやらねば。
大事にされる、ということを教えなければ。
〈砕かれた子供〉は、大切にされることを知らないために、誰かを大切にすることが不得手だ。そうなれば、長じるほどに周りから味方が消えていく。
昔の幼子によく似た少女が、そうなっていく未来は嫌だった。
相手の意思を尊重しながら、大事に大切に接していく。
少しずつ振り向く様に情がわけば、彼女個人が愛おしくもなる。
可愛い可愛い、大事な主。
……城から従者だけを逃がすために、全力を傾けるような、一筋縄ではいかない相手。
「ちっ」
行き止まりの壁に角を曲がる。
衛兵の多さにうんざりしてくる。
主に好かれているのは知っている。
だからこそ、自分を当たり前に犠牲にする姿が腹立たしい。
駆けるほどに、走るほどに、焦りと苛立ちが募っていく。
名前さえ呼んでくれれば。
助けて、と声を上げてくれれば。
一瞬で彼女の傍に行けるのに。
――それとも、声さえ上げられないのか?
「くそっ!」
屋根伝いに行くんだった、と後悔してももう遅い。
塔が近づいてくるにつれて、異様な気配も強まっていく。
その中に、別の存在も混ざっていたのだ。
〈食らうもの〉の感覚が。




