第52話 見えないところに動きはあるのです
「逃がした、と?」
「申し訳ございません」
片眉を跳ね上げる宰相に、警邏隊長は深々と頭を下げる。
「〈以下位〉の子供と侮りました。仮にも白光の精霊と契約した身、魔力が目覚めていなかっただけなのやもしれません」
「……その子供、早急に食わせてみよ」
捕らえてあるのだろう、と続けるマキュレイにユイゲンは頷く。しかし、指示の意味はまだ分かっていない。
「今の主を奪うことで、〈精霊武器〉の契約を解除なさるのですか」
「それだけではない。別に我らはな、王がお求めの結果に至れば何でも良いのだ」
「は……」
ユイゲンが理解していないのに気づいたらしいマキュレイが、彼の方へ向き合う。
「そも、我らが王の目的は、人口過密が深刻な首都の拡大である」
〈喰らうもの〉が跋扈するこの世界では、多くの人は〈力ある水〉の巡る配管の下でなければ、安んじて生きられない。配管を広げられる大きさが、そのまま都市の大きさとなる。
だが、配管には定期的な調整や手入れが必要だ。その人手は常に足りていない。
そこで、先々代と先代の王は、配管工を増やすために民への教育を行った。読み書き計算ができる民は、配管以外にも国の発展に役立つだろうから、と。
この世界での教育は高額だ。紙やインク、写本などが高価なため、読み書きの知識もまた、高額になるのである。それが国のお金で安価に受けられる、となれば、子供の将来を思う親たちが集中する。彼らを追って商人が集まり、それがまた人を呼ぶ。
こうしてシュヴァイエは賑わった。賑わいすぎた。
「街を広げたければ、配管を広げるしかなかろう。しかし、今少し広げたところで次はどうなる? 無限に配管を広げることは、それこそ〈魔王〉討伐の〈勇者〉を求めるほど夢物語なのだ」
配管を広げれば広げるほど、費用と人手は桁違いに上がり続ける。そもそも今でさえ、限界に近いことは分かりきっていた。
しかし〈喰らうもの〉がいる限り、人は配管なしには安んじて暮らすことなどできない。民を見捨てれば王家は倒れる、それは前王朝を倒した一族の子孫である王が、一番よくわかっていることだ。
〈喰らうもの〉が存在する限り、配管を増築していくしかない――そんな時だ、王のお抱え占い師のひとりが、予言をもたらしたのは。
「〈喰らうもの〉を食い尽くす者……新たな〈勇者〉を見つけ、封じられた〈魔王〉の残骸を滅すれば、それが〈喰らうもの〉を滅ぼす、と」
「そう、王は同じ夢物語ならば、より現実味のある方をとったにすぎない。王にとって、先見の予言は絶対の事実なのだ。だからこそ我らは、既に召喚されているという〈勇者〉を見つけ、〈精霊武器〉を託さなくてはならない」
それも、早急になされなくてはならなかった。
〈目覚めの祭〉を取り上げるまでもなく、民は上から下までシュヴァイエに流れ込んでくる。清潔とは言えない川の下流に住む貧民を追い出し、自分たちの住まいとする者すら多く出ているという。貧民に限っていた病が、民衆の間に広まる懸念などもあった。
「ゆえに、〈勇者〉がわかれば誰でも良い。可能性の高い者は優先して調べるべきであろう」
「ですが、失敗すれば白色に戻す者がいなくなります」
「元は〈勇者〉を味方に付けるために与えるはずだったもの、必ずしも白色である必要はない。――今の宝物を損なわないためのものでもあるのだからな」
「……了解いたしました」
眉間にしわを刻んだ顔で、ユイゲンが一礼する。
こうして、梨々はシェルを逃がしたために、その身に危機を引き寄せることになったのである。
*
身の内から、熱い塊が飛び出ていったようだった。
制服が迫る中、ただ逃げてほしくて、逃がしたくて。
――自分のそばにいれば、残酷なことになってしまうから。泣くことすらできなくなってしまうなら、自分なんかといない方がいい。
……だって、私は
ふいに湧いた言葉は、差し込んだ光にかき消える。
目を開いたことに気がついて、梨々はそれまでを思い出す。
そうだ、彼を逃がした後、身の内が冷えていくようになって、気づく前に意識を失ったのだ。
見知らぬ天井。敷布の匂い。
そして身の回りを囲む、太い茎で編まれたもの。
また牢に入れられたにしては、ここはずいぶんと明るい。
窓から光が射し込んでいるかのように――
『おはよう、リラ』
やわらかな声とともに、見知った顔がのぞく。その顔は、知っているよりもずいぶん若く、大きい。
(リーシャさん……?)
墨色の髪を肩の上で切り、若々しい丸い目をしているが、それでも以前動画の群の中で出会った女性だと、梨々はすぐに気がついた。
ふに、と頬に何かが触れる。棒のような、けれど硬くはないもの。
『ふふ、可愛い』
溶けそうにやわらかい微笑みに、梨々はとっさに顔をそらそうとしてできないことに気づく。いや、体の自由そのものがきかない。縛られている感覚もないのに、体が重い。
『主』
ふいに、聞き慣れたものより硬い声がした。
編まれた壁の向こうから、黒髪と緑がかった茶色の目がのぞく。
『泣かないね。赤子は泣くものじゃないの』
『今日は機嫌がいいみたいよ』
思わず持ち上げた手の小ささに驚愕する。見たこともないような細かな爪が並ぶその小さな手は、赤子を見る機会が少ない梨々にすら、生まれたての乳児のものだとわかる。
対して、相手の指は明らかに太く大きい。たわむれに置かれた指先さえ、赤子の手のひらからはあふれてしまう。
『小さい、な』
柔らかに目を細めたその微笑みに、はじめて彼が彼だと実感する。
胸のうちが温かく、緩やかにほどけていく。
『この子を見ていてね、シェル。この子の行き着く先を』
重い体が、さらに重くなっていく。
ぼやけるように、視界に靄がかかっていった。
***
「目が覚めた?」
見知らぬ天井。固い寝床。
目覚めたところへ上からのぞき込んできた顔に、梨々は覚えがある。
「……レウさん?」
「そうよ、覚えててくれたのね」
ベージュのような短い金茶色の髪が、天井からの明かりに艶めく。レウは大人の女性らしい豊満な体に、医者のような白衣をまとっている。
「レウさん、お医者さん、ですか?」
「ええ、新しい主がね。私は助手のようなことを頼まれているの」
まだ大したことはできないのだけどね、と言いながら、起きあがる梨々の背を支える。助けることに慣れた手つきだ。
「何か食べられそう?」
「私、どうなって……」
「大量の魔力を無理に放出したせいで、〈神経〉に大きく負担がかかったのよ。うちの主は、食べて休むのが一番の薬だと言っていたけれど――」
レウが言いよどむのと同時、簡素な部屋の扉が開く。
「リリさん、起きていましたか」
「先生」
現れたのは、ロコンチェルキの家で梨々の診察をしてくれていた医師だった。




