第51話 あなたを守りたいのです
だって、助けを呼んだだろ?
*
風が轟く。梨々はとっさに目をつぶる。
耳の奥までうなる音が響き、けれど恐ろしくはない。
風に混じり、布のはためく音が立つ。
「ざっけんじゃねーぞ、ごらあああああああああああああっ!!!!!!」
地を蹴る。刃が風を切る。
梨々はようやく目を開く。
配管の下、翻る黒の上下。踊る黒い房のような髪。沈む日にきらめくナイフ。
「……シェルさん」
視界が歪んだ瞬間、最後の勝負が決まる。
勝利者は地に降り立ち、へたり込む梨々へとまっすぐ進んでくる。
手が伸びる、と思ったときにはもう、腕の中に収まっていた。
「〈泣きじゃくり〉だね、主は」
そこからはもう、言葉にならない。
擦れて痛む手にもかまわず、ただぎゅう、と上着にすがりつく。
「がんばったね。えらいよ」
大きな手が頭をなでる、懐かしい感触がする。
人肌の向こう、砂と胡椒の入り交じったような、シェル自身の匂いがする。
「ごめ、なさ」
誰も巻き込みたくなかったのに、彼に助けを求めてしまった。
この襲撃が、自分一人が死んですむとは、どうしても思えなかったから。
「何を謝るの?」
なのに彼は、笑って言うのだ。
擦りむいた手を握り、その傷に唇を当てながら。
「俺が主の剣なんだから、謝るべきは俺の方だ」
言葉に悔恨がにじむ。梨々は思わず首を振る。
体を少し離され、額に額が当たる。
梨々の視界が、揺らめく緑の瞳でいっぱいになる。
「守れなくて、ごめん」
涙の止まらない梨々の目には、今にも彼が泣きそうに見えて。
とっさに腕を伸ばし、その首元にすり寄る。
「主が指輪をしていてくれたから、どこにいるかは感じ取れてたんだ。でも、どんなことになってるかはわからなかったし、呼ばれるまで声すらかけられなくて……」
〈宿りの石〉をはめた指輪に唇を落とす。癒えた手に頬をすり寄せる。
「……怖かった」
「うん、ごめんなさい」
配管の影が伸びる中、別れた空白を埋めるように、ひたすらに互いに触れ抱きしめあう。
だが、そうしている暇は少ないことに、シェルは気づいてたらしい。
「帰ろう、主。とにかくここを出て、いったん立て直さないと――」
「だめ」
制止はするりと梨々の口から出た。
「私、王様のものになったから。ベル様のところには、帰れない」
「……は?」
シェルは表情を消し、ただ眉間にぐっと皺が寄る。
「王が、まさか主に?!」
「お金を、払ったから。王様が、私を買ったの」
警邏隊長いわく、金銭はすでに払われ、梨々の所有権はロコンチェルキ家から、王家へと変わっている。
その状態で城から出れば、追っ手がかかるのは必至。シェルはもちろん、ベルーシャも処罰を受けるだろう。
「主は〈売りもの〉じゃないんだぞ。第一王妃もおいてないくせに……!」
「シェルさん?」
実は現在のシェルも、宰相によって王家の所有とされているため、逃げ出せば追われることになるのだが、梨々はそのことを知らない。
ついでに彼の言葉の意味も分かっていない。
「ともかく、主が残るなら俺も残る。俺は主の剣だ」
「それも、だめ。シェルさんがここにいたら、私がシェルさんの記憶を消さなきゃいけなくなる」
おそらく、王はそのために梨々を買ったのだ。シェルの記憶を消すことで、彼を白色精霊に戻すことが、王には必要なのだろう。
だが、彼から八百年のすべてを奪うような、そんな残酷なことは梨々にはできない。前にどうして戻れたのかさえ、よくわかってはいないのだ。
「私はいいから、シェルさんは逃げて。契約が邪魔なら、私は」
「そういう訳にはいかないのだ」
契約を破棄してもいい――そう言いかける梨々と、そしてシェルの前に、人影が現れる。
金茶の髪と青い瞳の美丈夫、警邏隊長のユイゲンだ。その周囲には、部下たちの姿もある。
「お前たちは既に陛下のものだ。異界の民は故郷へ帰し、精霊の刃にはふさわしい持ち主と場を用意する。それが陛下のご意志、恩情、慈悲なのだ」
「心ある意志を省みずに何が恩情だ、どこが慈悲なんだ! ただの愚王の我が侭じゃないか!」
言い返しながら、シェルは梨々の肩を抱き、ここを突破する隙を探す。
背後の部下は散開し、シェル達の周囲を取り巻いている。ちらりと見上げた上は、配管が屋根の下をつないでおり、そこから逃げることは難しい。
部下達の壁が迫ってくる。
――ぎりぎりまで引きつけ、飛び越えて、手の薄い出入り口を目指す。
そう算段をつけたときだった。
梨々の指輪が――祭の日に贈って以来、はめた指になじんで意識もしないほどになっていた指輪が――ぱちり、音を立てる。
「逃げて」
瞬間、シェルの視界が大きく歪む。
何もかもが溶ける寸前まで混ぜ合わされ、マーブル状になる。
「主!」
腕の中に人影はなく、ただ感触を求めて手を伸ばす。
だが、何も掴めぬまま、シェルはどこかへと放り出される。
――視界が戻ったとき、そこには木々に囲まれて、一本の〈万年樹〉が腕を広げていた。




