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第50話 確認と勧誘、そして逃走

 はるか広がる、霧とも雪とも違う真っ白な天地。遠くその境がかすかに見える。

 だが、見下ろしても梨々の体はなく、手足の感覚も溶け消えている。


『そなたはほんに異界から来たのじゃな。区切れぬほどの概念容量がありながら、魔力がまるでない』


 響くのは姫君の声。目と耳は使えるらしいのに、声の出し方がわからない。


『ああ、無理をするでない。今、妾が手を貸すゆえ』


 ほのかな甘さを鼻に感じて、次の瞬間景色は様変わりする。

 小さな窓と暗い部屋。ごちゃついた狭い台所に、物でほとんどが埋まったダイニングテーブル。がたつく濃い茶の木のいすには、ひとつだけクッションが置かれていない。

 ――この十五年、あまりにも見慣れた光景。


「驚くほど狭いのう。これが異界の民の部屋か」


 聞こえた声にはっと顔を向けると、繊細な刺繍を施したドレス姿の姫君が、木のいすにかけてたたずんでいる。深い紫の瞳をした彼女と、その前に置かれた厚手のマグカップが、実にそぐわない。


「そなたも座るが良い。自分の家であろう?」


 うながされて思わず腰かけながら、どうして、と梨々はつぶやく。

 錆びたトースター、傷の残るいすの背、風で回る換気扇――周囲に広がる景色は、説明が難しい部分まで再現されている。


「ここはそなたの〈器〉の中じゃ。記憶を引き出すなど造作もない」


 姫君はさらりと言ってみせるが、ここに王国の魔術師がいれば、それは彼女だからだと、畏れと呆れを含んで告げただろう。


「それにしても、そなたは面白いな。他人の一族の記憶をも抱えて、まだ莫大な余裕を抱えている」


 魔力があればさぞ偉大な魔術師となったであろうに、と言われても、梨々は戸惑うしかない。

 この姫君は、大変にマイペースなのかもしれない。


「あの、……あの」


 疑問がふくれ上がりすぎて、何から尋ねればいいやらわからない。あまりにも突飛で、そして心配だ。


「目は、痛くありませんか」

「目?」

「私の目を見た人は、突然血を流して、目が」

「――ああ、あやつのことか」


 一緒にするでない、と姫君は憮然とした顔をする。


「そなたの〈器〉は、魔力に比して莫大すぎる。それゆえ力の足りない者が、見誤って自滅したのじゃ。〈半森半人はんしんはんじん〉の妾でさえ、そなたの記憶から一部を引き出すのがせいぜいなのじゃぞ? ただの無謀じゃ、そなたのせいではない」


 それは梨々にはよくわからなかったが、魔術師が聞けば驚愕がおさまらない事態である。


 〈半森半人〉とは、〈森の民〉と人との間に生まれる、強大な魔力と生命力を持つ子供のことだ。伝説の魔術師リーシャ・レグラントの才能と技術を、〈森の民〉ならば幼子の時分から持っている、と言えば、その圧倒的な差異はよくわかるだろう。


 実際、姫君の魔術師としての能力は、リーシャ・レグラントに匹敵するか、越えているかもしれないと言われる。事情さえなければ、希代の大魔術師として君臨していてもおかしくないのである。


 そんな姫君が、記憶の一部しか操れないほどに、梨々の〈器〉に収まる〈概念容量〉は大きい。


 本来、魔力の高い者が低い者の〈器〉に入れば、相手の記憶や経験を無意識レベルまで読みとり、意のままに操ることができるとされる。それは、魔力と〈概念容量〉の大きさが、基本的に比例するからである。

 逆に言えば、梨々の魔力と〈概念容量〉の関係は、あまりに歪なのだ。


「ま、異界の者だからであろうの」


 それだけの背景を、姫君は語らずただ一言ですませる。

 ひとまず、姫君が傷つくことはないのだとだけ理解して、梨々は胸をなで下ろす。

 途端に、ぐぅ、と腹が鳴いた。


「……すみません」

「ははは、愛いやつめ。確認もできたし、戻って軽食といこうかの」


 瞬間、姫君の姿がかき消える。

 梨々が二、三度瞬きした時にはもう、蒸気めぐる一室に戻っている。シュー、と配管を蒸気が通る音が、静けさの中で妙に耳をつく。


「ああ、そうか。やたら静かじゃと思ったら、そなたの家には配管がないのか……」


 しみじみと目の前の姫君が言う。その瞳は霧を閉じこめたように白い。

 唇すら触れそうなほどの近距離で、紫だったはずなのに、と梨々は胸中首をひねる。


 ふと、あるはずの痛みが消えていることに気づく。

 殴られた頬も、掴みあげられた顎も、熱や痛みがひいている。

 思わず姫君を見つめると、白い瞳を細め微笑んだ。


「〈器〉に入れば、この程度は造作もないこと。とはいえ、多少は手こずったがの」

「……あ、ありが」


 腹の虫が盛大に鳴いた。

 うなり声が、長く長く尾を引いていく。

 ――ひいたはずの熱が、瞬時に上がる。

 姫君の快活な笑い声が響いた。


「まったく、いつまでやってるんですか」


 少し離れた場所から、豪奢な制服を着た少年があきれたように言う。その歳は梨々と同じか、もしかすると下かもしれない。


「スクィーズ、お茶の支度を頼んでくれ。摘むものを多めでな」


 姫君が離れながら命じ、梨々の手を引いてテーブルの前に座らせた。

 見回せば、部屋の作りはロコンチェルキ家の客室に似ている。梨々が寝起きをさせてもらっていた部屋である。


 見えるところに、天蓋に覆われた寝台があり、本や小物を納める棚があり、小ぶりに見えるティーテーブルのセットがある。梨々はこれを勉強用に使っていたが、姫君は正しくお茶をするつもりらしい。

 ――一国の王族の姫にしては、ずいぶん質素な私室とも言える。金銭に余裕がないわけではないのだから、なおさらであろう。


「妾はもともと離宮のひとつで暮らしておってな。ここには用事があるときしか来ないのだ」


 疑問が顔に出ていたのか、姫君がそう説明してくれる。

 話すたびに、長い耳がひくひくと動くせいで、梨々の目はどうしてもそちらに向かってしまうけれども。


「ふふ、そうも素直に見つめられると照れてしまうの」

「あ、ごめんなさい、可愛くて」


 カチャン、と陶器のぶつかる音がした。

 スクィーズと呼ばれた少年――姫君の従者なのかもしれない、と梨々は今さらに考える――が、何事もなかったかのように茶器を並べていく。


 ……冷静に考えて、梨々はさっと顔を青ざめさせる。

 この国は王国で、王族と言えば絶対権力者。ささいなことでも機嫌を損ねれば、気軽に死罪を言いつけられるのが、王族による独裁国家というものである。


 死ぬことそのものは怖くない。だが、シェルが泣いてしまうと考えると、胸がぎゅうぎゅうと痛くなる。

 前の主を亡くしてから、半年ほどしかたっていないのに――


「ふっ、ははははははは!」


 突然、姫は声を上げて笑う。それはもう、とびきりゆかいなことでもあったかのように。


「ああ、なるほど、そなたは確かに異界の者よ。この耳の意味がわからんのだからな」

「えっと……?」

「良い良い、気にするな。今必要なのはそのような話ではない」


 はじけた笑いをかみ殺しながら、姫君はひとつの提案を告げる。


「そなた、妾の〈使い魔〉にならぬか」


 発音すらもできず、梨々はただ首を傾げて返す。


「〈使い魔〉だ。そなたの世界にはないか? 魔術師の魔力を食らう代わりに、服従を誓う、従者のようなものよ」


 いわく、梨々は召喚された存在であるため、こちらでの人に近くても、〈使い魔〉になれるらしい。

 姫君は〈半森半人〉という生まれゆえに、いや、生まれ以上の膨大な魔力を持っている。しかし、それがあまりに多大であるために、人としての部分に負荷がかかっているのだと言う。


「このスクィーズも〈使い魔〉でな。周りのことをする分には使えるのじゃが、魔力を与えてもすぐにいっぱいになってしまう」

「〈器〉が小さいわけではないのですよ。私にも私の魔力がありますので」

「そこで、そなたを見つけたというわけじゃ」


 少年の補足を遮るかのように姫君が続ける。


「そなたの〈器〉は莫大で、対して魔力はあまりに小さい。いわば、ほぼからっぽの酒杯のようなものじゃ。妾の魔力を与えても、そなたなら難なく吸収できよう」


 何なら魔術師にもなれるぞ、と姫君は笑う。

 するり、梨々の手を取って


「そなたの力を貸しておくれ、のう」


 梨々の体が無意識に震える。

 そんなことを言われたのは、初めてだ。

 強い視線で見つめてくる、姫君の手はしっとりとして少し温く、やわく握る仕草に鼓動が高まっていく――


 ガタン


 ふいに、窓が音を立てる。


 ダン ドダンダン


 壁を殴るような音が立つ。


「何じゃ、騒々しい」


 思わず、すっと手を引いた。

 梨々はこれを知っている。

 あまりに耳慣れてしまっている。


「――だめです、姫様」


 〈食らうもの〉。

 いつでも梨々を襲い来る、人だけを食らいつくすもの。


「だめです、私」


 自分が死ぬだけならいい。

 この高貴で寛容な人が、自分を求めてくれた相手が死ぬのは恐ろしい。

 どれほど魔力があろうとも、〈食らうもの〉は、人では撃退できないのだ。


「私のせいで、ごめんなさい!」

「っ待て!」


 言葉も聞かず、梨々は部屋を飛び出す。

 どこかへ――人のいないところへ。

 迷宮じみて広い城内を、ただやみくもに駆け抜ける。


 ドン ダンドン


 壁を殴る重い音は、いつまでも梨々につきまとう。

 〈食らうもの〉だ、とどこかで声が挙がるのを、避けるようにまた駆け回る。


 自分が死ぬのは怖くない。むしろ必要とさえ思う。

 けれど、姫君の知り合いかもしれない誰かが、巻き込まれて死ぬことはとても怖くて、息が切れるより苦しくて。


 だって、もしかしたら。

 初めての、本当に初めての、友達になれたかもしれなかったから。


 外へ抜ける。

 勢い余って転ぶ。

 摩擦音けたたましく、ちぎれた草が宙を舞う。


 顔を起こし見上げれば、暮れていく光の中、かすかな輪郭がいくつも梨々を見つめている。


 自分が死ぬのは怖くない。

 でも、誰も巻き込みたくないから。


「――シェルッッッ!!!」


 自覚より早く飛んだ呼び声。

 耳の奥で、硬いものの弾ける音がした。


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