第48話 そこに選択の余地はなく、ただ実行を先延ばす
赤と透明の体液に濡れた顔を洗われ、服を着替えさせられて、梨々は呆然と城の中を進む。
先導する金茶の髪の美丈夫は、警邏隊長のユイゲンだと名乗った。
『お前は、陛下に買い上げられた。もはやロコンチェルキのものではない、陛下の所有物だ』
だから、梨々の命はツァルデン王、ヴェルデリア四世のもの。その命令は絶対で、決して逆らうことは許されない。
王が、梨々を買ったのだから。
『陛下は、お前を元の世界に還すおつもりだ。だがその前に、やってもらわねばならないことがある』
そう言って、ユイゲンは梨々を先導する。後ろから制服を着た隊員がついてきていたが、梨々に逃げ出すつもりは毛頭ない。
そうした気力がないのもあるが、ここで逃げればシェルはもちろん、ベルーシャやルカにも迷惑がかかることを、察しているのである。
「ここだ」
重厚な、頑丈そうな扉の前で、ユイゲンは通行証らしきものを見張りに見せる。分厚い扉が重々しく動き、明かりひとつない暗闇が口を開ける。
宝物庫だ、と告げる声を、梨々はやはりぼんやりと聞いていた。
脳裏にこびりつくのは、濁声の絶叫と、弾け飛ぶ眼球、体液。
直前まで梨々の目を、その奥を覗き込もうとしていた魔術師は、彼女の眼前で異常を起こし気絶した。
そのまま運び出されていったが、治ることはないだろうと制服たちは噂する。
精霊の魔法でもない限り、眼球の破裂を元通りにすることはできない。
そのことに、梨々の心はひどく重苦しく、気が塞がっている。
自分なんかの腕は治ったのに、彼の目は元に戻らないのだ。
梨々に関わったばかりに――梨々がとっさに拒んだばかりに。
「これだ。覚えがあるだろう」
かけられた声に、梨々は我に返る。
ユイゲンがその手で差し出したのは、細い鎖が何重にも巻かれた、やや鞘の長いナイフである。刃渡りが相応にあるのだろうそれは、従者を名乗る彼が常に携えていたものだ。
「シェルさん」
無意識に手を伸ばしかけて、はっと梨々は思いとどまる。
先日、梨々はシェルの本体とも言えるナイフを握ったことで、彼の記憶を全て消し去ってしまう事態を招いた。その時はもとに戻ったから良かったようなものの、理由も背景もはっきりしていない。
わかるのは、梨々が触れたせいである可能性が高い、ということ。
「握れ」
「え……」
「お前が握れば、〈天を切り裂く〉は全てを忘れ、本来の力を取り戻すだろう。王国最高位の魔術師の髪を入れた鎖だ。白色精霊になったところで、ほどけはしない」
それは、思い出を何よりも大切にしているシェルから、全て奪って気づかせるな、ということだ。
彼だけの、八百年以上もの記憶を、全て。
「……どうして」
「お前の知ることではない、が――」
ユイゲン曰く、〈天を切り裂く〉は王城の大火によって失われた、ある宝剣の兄弟剣なのだという。レグラント家に代々伝わってきたシェルは、最後の一人が亡くなったときから、本来王家に納められるべきだった。
そして、シェルをある者に下賜するために、王は記憶の消去と、契約の解除を求めているのだと。
「〈精霊武器〉にとって、記憶は自身を弱体化させる枷だ。賜る前に、その枷を完全に取り去っておきたい、というのが王のご意志である。黒色精霊と白色精霊では、その力の差は天地に等しいほどだからな」
「――偶然かも、しれません。シェルさんは、もとに戻りました」
「記憶に関しては絶対ではない。だが、契約の解除はしてもらう」
ずい、とナイフを突き出す動きに、梨々は察してしまう。
これは決定事項なのだ。逆らうことなど考えられない、確定した王の命令。彼らは作業をするだけであり、梨々がやらなければ咎はロコンチェルキ家に及ぶ。買ったのだから無関係だ、と王が言うとは思えなかった。
だが、だが――
緑と茶の瞳がくるくると入れ替わる、楽しそうな笑み。弾む声。自分なんかといることが、幸せなのだと言いたげなふるまい。
やわらかに、時に固く抱きしめる腕。広い胸。砂と胡椒の入り交じったような匂い。
怒ってくれた。慰めてくれた。忠告と賞賛をたくさんくれた。
――愛してくれた。
「柄を握って、契約解除、と言えばいい」
そうすれば、梨々とシェルは主従ではなくなる。
彼は梨々のことを忘れる。大勢の主のこととともに。
――自分のことはいい、けれど彼が愛した主人を、家族を、一族を奪うのは、残酷なことではないのか?!
「どな、たに」
気づいたときには、口が動いている。
「どなたに、差し上げるのですか」
その人に頼み込めば、レグラント家の記憶は残してもらえるかもしれない。
赤子から老人まで、等しく深く愛していた彼だ。記憶を失えばそれはもう彼ではない。白色になってしまえば、悲しむこともできない。
力が弱くとも、優しさでそれを補えたなら。
「〈勇者〉だ」
ユイゲンの答えに、梨々は目を瞬かせる。
対する彼の声は、憎しみとも羨みとも少し違う、重苦しい何か。
「〈食らうもの〉を滅ぼす、唯一の手段」
俺はそれを、二十年も待ったのだ。




