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公爵夫人、離婚して資産三割を手に人生をリスタートします  作者: カワカン


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第7話 歯車の軋み

 翌朝。


 執務室には、昨夜机に残された書類がそのまま置かれていた。


 リリアは一番上の封筒を手に取り、目を通す。


 商会との契約更新。


 毎年、この時期に行われる定例の契約だった。


 ほどなくして、商会の支配人が執務室へ案内される。


「お忙しいところ恐れ入ります。本日、契約更新のお時間をいただければと存じます。」


 リリアは予定表へ目を落とした。


 午前中は使用人たちとの打ち合わせ。


 昼には庭師から夏の植え替えについて報告。


 午後には王都から客人が訪れる予定になっている。


「申し訳ありません。」


「午後でしたら、お時間をお取りできます。」


 支配人は穏やかに微笑み、一礼した。


「承知いたしました。」


 しかし、その日の午後。


「奥様、王都からのお客様が予定より早く到着されました。」


 使用人の報告に、リリアは席を立つ。


 応接室での歓談は思いのほか長引き、契約更新の時間は過ぎてしまった。


 夕方。


 支配人は再び一礼する。


「本日はご都合がつかないようですので、改めて明日お伺いいたします。」


「申し訳ありません。」


 リリアは素直に頭を下げた。


「明日でしたら、必ず。」


「かしこまりました。」


 商会の支配人は変わらぬ笑顔で屋敷を後にした。


 その時は、誰も気に留めなかった。


 契約が一日延びただけ。


 ただ、それだけのことだった。



翌日。


 商会の支配人は約束どおり屋敷を訪れた。


 契約内容に大きな変更はない。


 輸送費がわずかに上がり、一部の品目で価格が改定される程度だった。


「市場価格の変動によるものでございます。」


 支配人が説明すると、リリアは資料へ目を通し、小さく頷く。


「分かりました。」


 契約書へ署名する。


 これで今年の契約更新は終わった。


「ありがとうございました。」


 支配人は深く一礼し、執務室を後にする。


 リリアは安堵したように息をついた。


「一つ終わりましたね。」


「はい。」


 セバスチャンも静かに答える。


 リリアは次の書類へ手を伸ばいた。


 契約は終わった。


 だから、この件も終わった。


 そう考えていた。


 一方、セバスチャンの視線だけが、机の上に残された資料へ向けられていた。


 市場価格。


 輸送費。


 納入時期。


 その数字は、厨房の献立にも、孤児院への支援にも、冬の備蓄計画にも関わってくる。


 しかし、その資料は閉じられたまま、次の書類の下へ静かに重ねられていった。





 契約更新から数日後。


 屋敷では、少しずつ予定の見直しが始まっていた。


 朝一番に厨房長が執務室を訪れる。


「奥様、食材の仕入れ価格が上がりました。このままでは今月の予算を超えてしまいます。」


 リリアは帳簿を見つめた。


「それほど変わったのですか?」


「一つひとつは僅かですが、毎日のことですので……。」


 昼には庭師が頭を下げる。


「温室の修繕ですが、来月へ延期していただければと。」


「予算の都合かしら?」


「はい。」


 午後になると、孤児院を担当する役人も執務室を訪れた。


「支援物資の手配を一週間ほど遅らせたいとの申し出がございました。」


「それも予算の関係ですか?」


「はい。」


 厨房。


 庭園。


 孤児院。


 まるで無関係に見える三つの報告。


 しかし、その始まりは、数日前に結んだ一枚の契約書だった。


 リリアは思わず呟く。


「……契約一つで、こんなに影響があるなんて。」


 セバスチャンは静かに頷くだけだった。


 公爵家では、一つの判断が屋敷全体へ広がっていく。


 それは昔から変わらない仕組みだった。




 その夜。


 再び執務室には書類が積み上げられていた。


 リリアは疲れた表情で最後の束へ手を伸ばす。


 だが、時計を見ると、約束の時間が近づいていた。


 翌日のお茶会。


 招待客への贈り物。


 着るドレスの最終確認。


 まだ準備が残っている。


 リリアは静かに書類を閉じた。


「……明日にしましょう。」


 今日できなかった仕事は、明日やればいい。


 そう自分に言い聞かせるように席を立つ。


「おやすみなさい、セバスチャン。」


「おやすみなさいませ、奥様。」


 セバスチャンは一礼し、リリアを見送った。


 誰もいなくなった執務室。


 静まり返った部屋で、彼は机の上に残された書類へ視線を落とす。


 ふと、かつての執務室が脳裏によみがえった。


 エレノアは席を立つ前に、最後の一枚まで目を通していた。


 急ぎではない書類ほど、後回しにはしなかった。


 その姿を知る者は、もうこの部屋には一人しかいない。


 セバスチャンは何も言わない。


 言葉よりも重い沈黙が、執務室を満たしていた。



数日後。


 商会から一本の連絡が入った。


「奥様、申し訳ございません。」


「契約更新が予定より遅れましたため、今月分の荷は他領への納品を優先させていただきました。」


 リリアは驚いたように顔を上げる。


「え……?」


「こちらへの納品は、一週間ほど遅れる見込みでございます。」


「たった数日遅れただけではありませんか。」


 思わず口をついて出た言葉だった。


 商会の支配人は困ったように微笑む。


「商会も多くのお客様とお付き合いしておりますので、予定は順に進めております。」


「ご理解いただけますと幸いです。」


 通信を終えると、その影響はすぐに屋敷へ広がった。


 厨房では献立の変更が決まり、


 温室の修繕は来月へ延期され、


 孤児院へ送る支援物資の出発日も組み直される。


 一枚の契約書。


 たった数日の遅れ。


 それだけで、公爵家の歯車は静かにずれ始めていた。


 リリアは机の前で呟く。


「……たった数日だったのに。」


 誰も責めない。


 誰も怒らない。


 それでも、公爵家という組織は、ほんのわずかに昨日とは違う姿になっていた。


 その小さなずれは、まだ誰の目にも衰退とは映らない。


 だが、その日を境に、公爵家は少しずつ、本当に少しずつ、築き上げてきた積み重ねを失い始めていた。



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