第2話 離縁
朝の光が、公爵邸の長い廊下を柔らかく照らしていた。
窓の外では庭師たちが剪定を始め、厨房からは焼きたてのパンの香りが漂ってくる。侍女たちは花瓶の花を替え、執事たちは今日の来客予定を確認しながら忙しく歩いていた。
アーヴィン公爵家の朝は、いつもと変わらない。
少なくとも、そう見えた。
執務室では、エレノアが机いっぱいに広げられた書類へ目を通していた。
王都商会との契約更新。
領内の灌漑工事の進捗報告。
羊毛価格の推移。
今月の税収見込み。
どれも後回しにはできない案件ばかりだった。
ペンを走らせ、必要な箇所へ短く指示を書き添える。その手つきに迷いはない。
十五年。
公爵夫人として積み重ねてきた年月は、彼女の判断を自然なものへ変えていた。
その時だった。
控えめなノックが響く。
「失礼いたします。」
家令のセバスチャンだった。
長年この屋敷を支えてきた初老の男は、いつもと変わらぬ礼儀正しい所作で一礼する。
「おはようございます、奥様。」
「おはようございます、セバスチャン。」
エレノアは微笑み、ペンを置いた。
「何かございましたか。」
「旦那様がお呼びでございます。」
それだけなら珍しいことではない。
しかし、セバスチャンはわずかに言葉を続けるまで間を置いた。
「……第一応接室へ、お越しいただきたいとのことです。」
エレノアの手が、一瞬だけ止まる。
第一応接室。
そこは家族が使う部屋ではない。
王家の使者や高位貴族を迎えるための正式な応接室だった。
夫婦だけの話をする場所ではない。
だからこそ、小さな違和感が胸をよぎる。
「そうですか。」
それでもエレノアは表情を変えなかった。
「すぐに参ります。」
セバスチャンは一礼したまま動かない。
珍しいことだった。
何か言いたげに視線を伏せ、それでも主人の立場を越えることはできない。
やがて彼は静かに口を開いた。
「……奥様。」
「はい。」
「どのようなことがございましても、私ども使用人一同は、奥様へ心より感謝しております。」
エレノアは目を瞬かせた。
思いもよらない言葉だった。
「急なお話ですね。」
少しだけ笑みを浮かべると、セバスチャンも力なく微笑み返す。
「この屋敷は、奥様が支えてくださいました。」
「それだけは、誰一人として忘れてはおりません。」
短い沈黙が流れる。
エレノアはゆっくりと立ち上がり、机の上の書類を整えた。
「ありがとうございます。」
ただ、それだけを返す。
理由は分からない。
それでも、胸の奥で何かが静かに沈んでいくような感覚があった。
執務室を出ると、廊下ですれ違う使用人たちが次々と頭を下げる。
いつもと同じ光景。
それなのに、誰もがどこか硬い表情をしていた。
何かを知っていて、何も言えない。
そんな空気が屋敷全体を包んでいる。
第一応接室の前まで来ると、重厚な扉の前には衛兵が立っていた。
中からは人の気配がする。
ゆっくりと息を整え、扉を開く。
そこには、夫であるリチャードが静かに座っていた。
その隣には王国法務官。
さらに二人の書記官。
机の上には、蝋印の押された分厚い書類が整然と並べられている。
その光景を見た瞬間、エレノアはすべてを悟った。
驚きはなかった。
取り乱すこともない。
ただ、十五年間積み重ねてきた夫婦としての時間が、静かに終わろうとしていることだけを理解した。
エレノアはゆっくりと席へ歩み寄り、いつもと変わらぬ優雅な所作で腰を下ろす。
「お待たせいたしました。」
その一言に、部屋の空気はさらに静まり返った。
リチャードはまっすぐ妻を見つめる。
その表情には決意があった。
そして、言葉にできない迷いもまた、確かに残っていた。
誰も口を開かなかった。
応接室には時計の針が刻む音だけが静かに響いている。
リチャードは正面に座るエレノアを見つめたまま、何度か言葉を飲み込んだ。
公爵として数え切れないほどの決断を下してきた。
戦後の復興。
領地改革。
商会との交渉。
どれほど難しい判断でも迷うことはなかった。
しかし今日だけは違う。
目の前にいるのは政敵ではない。
十五年間、誰よりも信頼してきた妻だった。
「……朝早くから呼び立ててしまい、申し訳ない。」
ようやく絞り出した声は、いつもの威厳ある公爵のものではなかった。
エレノアは静かに首を横へ振る。
「お気になさらないでください。お話があると伺いました。」
その穏やかな返事が、かえってリチャードの胸を締めつける。
彼は一度目を閉じると、小さく息を吐いた。
「エレノア。」
「はい。」
「……君との婚姻を、終わりにしたい。」
その言葉は静かに部屋へ落ちた。
誰も息をのむ音すら立てない。
法務官も書記官も、視線を伏せたまま動かなかった。
エレノアは驚いた様子も見せず、しばらくリチャードを見つめていた。
やがて、ゆっくりと問いかける。
「理由を、お聞かせいただいてもよろしいでしょうか。」
責める響きはない。
ただ、事実を確認するような口調だった。
リチャードはまっすぐ妻を見返す。
「公爵家には跡継ぎが必要だ。」
短い言葉だった。
しかし、その一言にすべてが込められていた。
「私たちは12年間、夫婦として歩んできた。しかし、子には恵まれなかった。」
彼はそこで言葉を切る。
それが誰の責任でもないことを知っている。
だからこそ、続く言葉は慎重だった。
「君を責めるつもりはない。」
「責められる理由もございません。」
エレノアは穏やかに答えた。
「ええ。」
リチャードは苦く笑う。
「私もそう思っている。」
再び静寂が訪れる。
窓の外では、小鳥のさえずりだけが聞こえていた。
「だが、公爵家は私一人のものではない。」
リチャードはゆっくりと言葉を続ける。
「先祖から受け継ぎ、次の世代へ渡さなければならない。爵位も領地も、この家そのものもだ。」
その声には、公爵としての責任が滲んでいた。
「私は再婚する。」
静かな宣言だった。
「若い夫人を迎え、後継者をもうける。それが、公爵として果たすべき責務だと判断した。」
エレノアは目を伏せた。
悲しみではない。
十五年間の記憶を、一つひとつ胸の中へしまうような沈黙だった。
やがて顔を上げる。
「そうお考えになられたのですね。」
「……ああ。」
リチャードは頷く。
「君には感謝している。」
その一言には、偽りがなかった。
「君は誰よりも公爵家へ尽くしてくれた。領地を立て直し、商会を育て、屋敷を支え、私を支えてくれた。」
彼は机の上で両手を組む。
「だからこそ、離縁後の生活に不自由はさせない。屋敷も用意する。十分な財産も渡そう。使用人も付ける。」
それが自分にできる最大限の誠意だった。
リチャードはそう信じていた。
エレノアは静かに耳を傾け、最後まで遮ることなく聞き終える。
そして、小さく微笑んだ。
「そこまでお気遣いいただき、ありがとうございます。」
その穏やかな笑みに、リチャードは胸を撫で下ろした。
責められなかった。
怒鳴られることもなかった。
これで、互いに穏やかな別れを迎えられる。
そう思った、その時だった。
エレノアはゆっくりと姿勢を正す。
「離縁につきましては、お受けいたします。」
その言葉に、法務官が静かに記録を書き始める。
「ですが、一つだけお願いがございます。」
リチャードは顔を上げた。
「お願い?」
「はい。」
エレノアは落ち着いた声で続ける。
「財産分与につきましては、私の代理人を通じて正式に協議させていただきたく存じます。」
その場にいた誰もが、一瞬だけ息を止めた。
慰謝料ではない。
財産分与。
その言葉の重みを理解していたのは、この部屋では法務官だけだった。
三日後。
王都でも名高い法務代理人、アルフレッド・グランヴィルは、定刻どおりアーヴィン公爵邸を訪れていた。
応接室には、リチャード、公爵家側の法務顧問、王国法務官、そして二人の書記官が席に着いている。
窓から差し込む昼の光が、机に並べられた書類を照らしていた。
アルフレッドは一礼すると、静かに席へ腰を下ろす。
「本日は、お時間をいただきありがとうございます。」
「こちらこそ。」
リチャードは穏やかに頷いた。
「妻……いや、エレノアの代理人として来られたと伺っている。」
「そのとおりでございます。」
アルフレッドは革張りの書類鞄を開き、一冊の分厚い資料を机へ置いた。
その厚みに、書記官の一人が思わず視線を向ける。
「本日は、離縁に伴う財産分与について協議させていただきます。」
リチャードは頷いた。
「慰謝料については、こちらも十分に用意するつもりだ。」
「公爵夫人としての功績に報いることは当然だと考えている。」
アルフレッドは静かに首を横へ振る。
「慰謝料につきましては、本日の議題ではございません。」
応接室の空気がわずかに張り詰める。
「では、何についてだ。」
「婚姻期間中に形成された資産についてでございます。」
アルフレッドは資料を開いた。
最初の頁には、公爵家の事業一覧が記されている。
領内河川の改修。
港湾整備。
新街道の建設。
羊毛産業への投資。
王都商会との包括契約。
穀物倉庫の新設。
領民向け融資制度。
税制改革。
十五年間で、公爵家を飛躍的に発展させた事業ばかりだった。
「これらの事業につきましては、契約書、議事録、商会との往復書簡、領主会議の記録を精査いたしました。」
アルフレッドは一枚ずつ資料を示していく。
「いずれも、エレノア様が立案、調整、契約交渉、資金計画、実施管理に深く関与されたことが確認できます。」
法務官も資料へ目を通し、小さく頷いた。
書記官たちは黙々と記録を取り続ける。
「また、家令セバスチャン殿をはじめ、商会長六名、領内代官四名より証言書を提出いただいております。」
アルフレッドは最後の書類を机へ置いた。
「皆一様に、『現在の公爵家の繁栄は、エレノア様の働きなくして成し得なかった』と証言しております。」
リチャードは資料へ視線を落としたまま、小さく息を吐く。
「……異論はない。」
その一言に偽りはなかった。
公爵家がここまで発展した理由を、誰よりも知っているのはリチャード自身だった。
だからこそ、アルフレッドは静かに本題へ入る。
「以上を踏まえまして。」
一呼吸置き、まっすぐリチャードを見据える。
「エレノア様は、婚姻期間中に形成された財産につきまして、三割の分与を請求されます。」
沈黙が落ちた。
誰もすぐには言葉を発しない。
やがてリチャードが静かに問い返す。
「三割……か。」
「はい。」
「その根拠を伺ってもよろしいか。」
アルフレッドは頷いた。
「本来であれば、寄与割合についてさらに高い主張も可能でございました。」
その一言に、公爵家側の法務顧問が顔を上げる。
「しかし。」
アルフレッドは穏やかな口調を崩さない。
「エレノア様は、公爵家がこれからも領地と領民を守り続けることを望んでおられます。」
「そのため、公爵家の継続性を考慮し、三割という割合をご提示されました。」
応接室は再び静まり返る。
それは交渉ではなかった。
最後まで、公爵家を思いやる提案。
その事実が、かえって場にいる者たちの胸へ重くのしかかった。
リチャードはゆっくりと資料を閉じる。
そして、静かに目を閉じた。
長い沈黙のあと、小さく息を吐く。
「……なるほど。」
その声には、納得と、わずかな苦笑が混じっていた。
「最後まで、君らしい。」
その言葉は、もうこの場にはいないエレノアへ向けられたものだった。
応接室は、しばらく静まり返っていた。
誰も言葉を発しない。
聞こえるのは、書記官が羽ペンを走らせる音だけだった。
リチャードは机の上に広げられた資料へ視線を落とす。
事業一覧。
契約書の写し。
商会との往復書簡。
領主会議の議事録。
そのどれにも、エレノアの名前が記されていた。
改めて並べられると、その存在の大きさを否応なく突きつけられる。
公爵家が発展した十二年間。
その歩みの傍らには、いつも彼女がいた。
「……異論はない。」
リチャードは静かに口を開いた。
「エレノアが公爵家へ尽くしてくれたことは、私が誰よりも知っている。」
アルフレッドは黙って耳を傾ける。
「だからこそ、三割という請求にも理由があることは理解できる。」
短く息を吐き、法務官へ視線を向けた。
「法的にも問題はない、という認識でよろしいか。」
法務官は手元の資料を閉じると、ゆっくりと頷いた。
「提出された契約書、証言書、事業記録を確認いたしました。」
「婚姻期間中に形成された資産に対し、エレノア様が重大な寄与をされたことは十分に立証されております。」
「本請求は、王国法に照らしても妥当であると判断いたします。」
その言葉を聞き、リチャードは目を閉じた。
数秒の沈黙。
やがて、小さく頷く。
「……分かった。」
その一言で、応接室の空気がわずかに動いた。
「エレノアの請求を受け入れよう。」
書記官が新しい羊皮紙を机へ広げる。
アルフレッドも静かに一礼した。
「ご英断に感謝いたします。」
リチャードは契約書へ目を通す。
財産分与。
婚姻期間中に形成された総資産の三割相当額を支払うこと。
双方が異議なく離縁に合意したこと。
簡潔でありながら、一つひとつの文言に重みがあった。
彼は羽ペンを手に取る。
ほんの一瞬だけ、その手が止まった。
十二年前。
同じように契約書へ署名し、エレノアと夫婦になった日のことが脳裏をよぎる。
王都中の祝福を受けた結婚式。
緊張した面持ちで微笑んでいた彼女。
共に公爵家を支えていこうと誓い合った日。
その記憶は、インクが乾くほど短いものではなかった。
しかし――。
リチャードは静かにペンを走らせる。
さらさら、と羊皮紙の上を滑る音が部屋に響く。
最後に、公爵家の印章が押された。
赤い蝋に刻まれた紋章が、静かに固まっていく。
これで終わりだった。
夫婦として歩んだ十二年は、一枚の契約書によって幕を閉じた。
リチャードはゆっくりと椅子にもたれ、小さく息を吐く。
「痛い出費ではあるが……仕方あるまい。」
自分に言い聞かせるような独り言だった。
「七割は残る。」
「公爵家は揺るがない。」
アルフレッドはその言葉に何も返さない。
ただ契約書を丁寧に書類鞄へ収めると、静かに立ち上がった。
「それでは、本日の協議はこれにて終了とさせていただきます。」
一礼し、応接室を後にする。
重い扉が閉まる音が響いた。
部屋には、リチャードと法務官だけが残る。
窓の外では、穏やかな春風が庭木を揺らしていた。
その静かな景色とは裏腹に、公爵家を支えてきた一つの時代は、音もなく終わりを迎えていた。
夕暮れの陽射しが、公爵邸の長い廊下を茜色に染めていた。
エレノアは執務室の扉を静かに開く。
もう、この部屋へ入ることはない。
十二年間、公爵夫人として過ごした場所。
窓際の書棚。
季節ごとに並べ替えた花。
何度も書き直した領地の地図。
机の上には、最後まで使い慣れた羽ペンが一本だけ残されていた。
エレノアはその羽ペンを手に取り、小さく微笑む。
この一本で、どれだけの契約書へ署名し、どれだけの領民の暮らしを守ってきただろう。
そっと机の引き出しへ戻し、静かに閉じる。
「これで、おしまいですね。」
誰に聞かせるでもない独り言だった。
扉が控えめに叩かれる。
「失礼いたします。」
家令のセバスチャンだった。
彼はいつもと変わらぬ姿勢で一礼する。
「馬車の準備が整いました。」
「ありがとうございます。」
エレノアは頷き、小さな旅行鞄を手に取った。
驚くほど荷物は少ない。
衣服が数着。
本が数冊。
そして、思い出の品が少しだけ。
それだけだった。
二人は並んで廊下を歩く。
普段なら領地経営の話をしていたはずの道のりは、今日は足音だけが響いていた。
やがて玄関ホールへ着く。
そこには執事や侍女、料理人、庭師、衛兵まで、この屋敷で働く者たちが静かに並んでいた。
誰一人、声を上げない。
ただ、一斉に頭を下げる。
その光景に、エレノアは目を見開いた。
「皆さん……。」
言葉が続かなかった。
沈黙の中、セバスチャンが一歩前へ出る。
「奥様。」
その呼びかけに、エレノアは穏やかに微笑んだ。
「もう、その呼び方は卒業ですね。」
少しだけ空気が和らぐ。
それでも、誰も顔を上げなかった。
セバスチャンは深く頭を下げたまま、静かに言う。
「失礼いたしました。」
一拍置き、呼び直す。
「エレノア様。」
「十二年間、本当にありがとうございました。」
その一言を合図にするように、使用人たちがもう一度深く頭を下げた。
「ありがとうございました。」
重なる声は決して大きくない。
それでも、公爵邸の広い玄関に静かに響いた。
エレノアは胸の前で両手を重ね、一人ひとりの顔を見渡す。
見慣れた笑顔。
共に働いた日々。
厳しい冬も、豊かな収穫の秋も、この人たちと乗り越えてきた。
「こちらこそ。」
ゆっくりと頭を下げる。
「皆さんのおかげで、私は公爵夫人でいることができました。」
顔を上げると、その表情はいつもの穏やかな笑みだった。
「どうか、お元気で。」
そう言い残し、エレノアは馬車へ乗り込む。
御者が手綱を引く。
ゆっくりと馬車が動き始めた。
窓の外には、公爵邸の門が見える。
十二年間暮らした屋敷。
喜びも、苦しみも、すべてがそこにあった。
エレノアは静かに頭を下げる。
「さようなら。」
馬車は門をくぐり、夕暮れの街道へと走り出した。
その姿が見えなくなっても、使用人たちは誰一人その場を動かなかった。
広い公爵邸は、いつもと変わらぬ静けさに包まれている。
けれど、その静けさは、もう昨日までのものではなかった。




