第1話 公爵夫人エレノア
王都の中央、緩やかな丘の上に建つアーヴィン公爵邸は、今日も朝から慌ただしかった。
正門には各地の領地から届いた荷馬車が列をなし、港町から運ばれてきた木箱には、今年の収穫量や交易品を記した帳簿が積み上げられている。
王都でも指折りの名門公爵家。
広大な領地を治め、多くの商会と契約を結び、数え切れない使用人を抱えるその屋敷は、一つの小さな町と言っても過言ではなかった。
だからこそ、一日の始まりは早い。
屋敷の廊下では侍女たちが足早に行き交い、執事や書記官たちは山のような書類を抱えて歩いている。
そんな忙しない空気の中、不思議なことが一つだけあった。
誰もが真っ先に向かう場所は、公爵リチャードの執務室ではない。
二階の東側にある、一室。
公爵夫人エレノアの執務室だった。
扉をノックする音が静かな部屋に響く。
「失礼いたします、エレノア様。本日の予定をお持ちしました」
専属侍女アンナが一冊の手帳を広げ、淀みなく予定を読み上げる。
「午前中は北方領の橋梁修繕について家令セバスチャン様との打ち合わせ。その後、レオン商会との港湾契約更新。午後は羊毛相場の報告と来月の舞踏会について王宮からの書状の確認がございます」
「ありがとう、アンナ。では最初のお客様をお通ししてください」
柔らかな笑みを浮かべながら答えたエレノアは、机の上に積まれた書類へ視線を落とした。
二十八歳。
白金色の髪を上品にまとめ、身につける装飾品は必要最低限。高価な宝石で着飾るよりも、質の良い万年筆や紙を選ぶような女性だった。
ほどなくして家令セバスチャンが姿を現す。
六十を越えてなお背筋は真っすぐ伸び、その立ち姿には長年公爵家を支えてきた誇りが感じられた。
「奥様、北方領から修繕費の見積もりが届きました。しかし石材価格の高騰で、当初予算を一割以上超える見込みです」
差し出された報告書へ目を通し、エレノアは一度だけ窓の外へ視線を向けた。
「南方の採石場へ問い合わせましたか」
「まだでございます」
「品質は多少落ちますが、橋脚に使うには十分です。運搬費を含めても総額は抑えられるでしょう。浮いた予算で川岸の補強も進めてください。春先の雪解け水は、例年より多くなりそうですから」
セバスチャンは目を細め、静かに頭を下げた。
「承知いたしました」
迷いはない。
エレノアがそう判断したのなら、それが最善だと知っているからだ。
セバスチャンと入れ替わるように、今度は財務責任者のオスカーが部屋へ入る。
「奥様、港の倉庫使用料について商人たちから相談がございます。今年は収穫量が少なく、このままでは負担が重いと」
「契約期間は何年ですか」
「一年更新です」
「では今年だけ使用料を一割下げましょう。その代わり契約を三年へ延長してください。公爵家は目先の利益より、長く続く信用を選びます」
オスカーは帳簿を見返し、納得したように頷く。
「確かに、それなら来年以降の収入が安定いたします」
「商人も安心して設備投資ができます。双方に利益がある契約こそ、長く続くものです」
「すぐに契約書を作成いたします」
深々と一礼し、部屋を後にする。
その背中を見送りながらアンナが新しい紅茶を注いだ。
しかし、エレノアは一口飲む間もなく次の書類へ手を伸ばしていた。
やがて訪れたのは、王都最大級の商会を率いるレオンだった。
王侯貴族を相手に商売をする大商人であり、普通の貴族なら向こうから頭を下げられることはまずない。
だが彼は部屋へ入るなり深く一礼した。
「朝早くから失礼いたします、エレノア様」
「おはようございます、レオン。どうぞお掛けください」
レオンは革製の書類筒を机へ置く。
「北方港の契約書です。確認をお願いいたします」
エレノアは書類を静かに読み進める。
数字を追う瞳は穏やかだったが、一文字たりとも見逃さない鋭さがあった。
やがて、一か所で指先が止まる。
「こちらですが、保管責任者が昨年交代した方のままになっています」
レオンは目を見開いた。
慌てて契約書を確認し、額へ手を当てる。
「……本当ですね。法務も確認したはずなのですが」
「人が確認する以上、見落としはあります」
エレノアは責めることなく穏やかに続ける。
「だからこそ、契約書は何度も確認するのです。一度結べば、何年も双方を縛るものですから」
レオンは静かに笑った。
「毎度のことながら、敵いませんな。公爵家との取引が安心できる理由を、改めて思い知らされました」
エレノアは首を横に振る。
「私だけの力ではありません。現場で働く皆さんが誠実だからこそです」
その言葉にレオンは小さく息を漏らす。
能力のある者ほど、自分の功績を誇らない。
だからこそ、多くの者が彼女を信頼するのだ。
部屋を出たレオンは廊下でセバスチャンとすれ違い、小さく笑みを浮かべた。
「今日も助けられました」
「いつものことです」
セバスチャンも穏やかに答える。
「奥様がおられる限り、公爵家は揺らぎません」
その言葉を、廊下を歩く誰一人として不思議には思わなかった。
それが、この屋敷では当たり前の日常だったからである。
午前の仕事が一段落した頃、廊下の向こうから軽快な足音が近づいてきた。
扉が開き、軍服姿の青年が部屋へ入る。
アーヴィン公爵、リチャードである。
鍛えられた体躯に、端正な顔立ち。
三十代半ばとは思えない精悍な雰囲気をまとい、王国でも名将として名を知られる人物だった。
「まだ仕事をしていたのか、エレノア」
気負いのない声だった。
夫婦としては、ごくありふれた朝の挨拶。
エレノアは席を立ち、優雅に一礼する。
「おはようございます、リチャード様。本日は軍議ではありませんでしたか」
「ああ。昼前には王城へ向かう。出発前に少し顔を見ようと思ってな」
そう言いながら部屋を見回す。
机いっぱいに積まれた契約書。
領地から届いた報告書。
開かれた帳簿。
しかしリチャードは、それらを一瞥しただけだった。
「相変わらず書類が多いな。」
「春は契約更新が重なりますので。」
「細かい仕事は私にはさっぱり分からん。」
肩をすくめると、苦笑しながら続ける。
「まあ、君に任せておけば安心だ。」
悪意はない。
心からそう思っているだけだった。
だからこそ、エレノアも微笑みを返す。
「ありがとうございます。」
その短いやり取りを見守っていたアンナは、小さく視線を伏せた。
リチャードは一度も尋ねたことがない。
この書類が何なのか。
どれほどの金が動く契約なのか。
誰が昼夜を問わず調整し、この公爵家を支えているのか。
それでもエレノアは、一度たりとも不満を口にしたことはなかった。
「では、私は城へ行ってくる。」
「お気を付けて。」
リチャードは軽く手を挙げると、そのまま部屋を後にした。
入れ替わるようにセバスチャンが姿を見せる。
「奥様、レオン様がお帰りになる前に、一つご相談がございます。」
「どうぞ。」
「西方商会が、今年から港の利用枠を増やしたいと申し出ております。しかし、そのまま認めますと既存商会との均衡が崩れます。」
エレノアは少し考え、机の上の港湾図を広げた。
「新しい倉庫は完成しましたね。」
「はい。」
「では利用枠は増やしましょう。ただし、新倉庫限定としてください。既存区画はこれまで通りとし、契約更新時に再配分を行います。」
セバスチャンは感心したように頷く。
「それなら誰も不公平とは感じません。」
「商売は利益だけでは続きません。納得もまた、大切な契約です。」
その言葉を聞いたレオンが、部屋の入口で足を止めた。
「……だから私は、公爵家と取引を続けているのです。」
レオンは穏やかな笑みを浮かべながら部屋へ戻る。
「失礼とは思いましたが、話が聞こえてしまいました。」
そう言って胸に手を当て、ゆっくりと頭を下げた。
「リチャード公爵は王国を守る名将です。しかし、公爵家の信用を守っておられるのは、間違いなくエレノア様です。」
部屋が静まり返る。
エレノアは少し困ったように笑みを浮かべた。
「買いかぶりすぎです。」
「いいえ。」
レオンは静かに首を横へ振る。
「商人は利益で動きます。しかし信用がなければ、一度きりの利益で終わる。」
彼は窓の外に広がる屋敷を見つめる。
「アーヴィン公爵家が何十年も繁栄してきた理由を、私たちは知っています。」
その言葉に、セバスチャンも黙って頷いた。
部屋にはしばらく、時計の針だけが静かに時を刻んでいた。
レオンたちを見送ると、執務室には束の間の静けさが戻った。
アンナは空になったティーカップを手に取り、小さく息をつく。
「ようやく一息つけますね。」
「そうですね。」
エレノアも穏やかに微笑み、椅子にもたれた。
窓から差し込む春の日差しは暖かく、庭では庭師たちが色とりどりの花を植え替えている。
それは誰もが美しいと思う、穏やかな昼下がりだった。
だが、その静かな時間は長くは続かない。
控えめなノックとともに、セバスチャンが再び部屋へ姿を見せた。
「失礼いたします。王宮より使者がお見えです。」
「王宮から?」
「はい。王妃殿下主催のお茶会へのご招待状でございます。」
銀盆の上に置かれた封筒には、王家の紋章が刻まれた封蝋が押されていた。
エレノアは丁寧に封を切り、一通り目を通す。
「来週ですか。」
「ご出席なさいますか。」
「もちろんです。王妃殿下からのお招きを辞退するわけにはまいりません。」
静かな口調だった。
嬉しそうな様子はない。
それは義務の一つとして受け止めているだけだった。
使者が帰ると、アンナが遠慮がちに口を開く。
「お召し物は、新しいものをご用意いたしますか?」
その問いに、エレノアは少しだけ考え、小さく首を横へ振った。
「去年の藤色のドレスがありましたね。あれで十分でしょう。」
「ですが……。」
アンナは言葉を飲み込む。
公爵夫人の衣装は、公爵家の威信そのものだ。
王妃主催のお茶会ともなれば、新調する夫人がほとんどだろう。
それでもエレノアは、毎年同じドレスを大切に着続けていた。
「まだ傷んではいません。」
柔らかく笑う。
「浮いたお金で、侍女たちの冬用の制服を新調してあげてください。今年は寒さが厳しかったでしょう。」
アンナは返事ができなかった。
エレノアはいつもそうだった。
自分のことは後回し。
誰かのために使うお金は惜しまないのに、自分のためとなると途端に財布の紐が固くなる。
「奥様。」
思わず声が漏れる。
「たまには、ご自分のためにお金をお使いになっても……。」
エレノアは少しだけ目を丸くし、それから困ったように笑った。
「私には十分ですよ。」
その言葉に偽りはない。
本当にそう思っているのだ。
だからこそ、アンナは胸が締め付けられた。
昼食の時間になっても、エレノアは机を離れなかった。
領地から届いた報告書を一枚ずつ読み進め、気付けばスープはすっかり冷めている。
「またでございます。」
アンナが小さく呟いた。
「何がですか?」
「お昼を召し上がっていらっしゃいません。」
エレノアは机の端に置かれた食事を見て、小さく笑う。
「あら、本当ですね。」
忘れていました、とでも言うような口調だった。
「温め直します。」
「いいえ、このままで大丈夫。」
「ですが……。」
「冷めても、美味しく作ってくださっていますから。」
そう言って、ようやくスプーンを手に取る。
その姿を見つめながら、アンナは胸の内でそっと願った。
この人にも、誰かが温かい食事を用意してくれる日が来ますように。
誰かのためではなく、自分自身の幸せを願える日が来ますように、と。
夕暮れの鐘が、王都に静かに響き渡った。
執務室の窓から差し込んでいた西日も少しずつ色を失い、長かった一日の終わりを告げている。
エレノアは最後の書類へ署名を終えると、静かに羽ペンを置いた。
肩を回すように小さく息を吐く。
それだけで、一日分の疲れが滲んでいた。
「本日のお仕事は、これで終わりでございます。」
アンナが書類を受け取りながら微笑む。
「お疲れ様でございました。」
「皆も、お疲れ様でした。」
その一言だけで、部屋にいた書記官たちや侍女たちの表情が柔らかくなる。
公爵家では、公爵よりも公爵夫人に労われる方が嬉しい。
そんな使用人も少なくなかった。
やがて皆が部屋を出ていき、執務室にはエレノアとアンナだけが残る。
静寂の中、遠くから馬のいななきが聞こえてきた。
アンナが窓へ近づき、小さく外を覗く。
「旦那様がお出掛けになるようです。」
エレノアも立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。
正門には豪奢な馬車が止まり、礼装に身を包んだリチャードが従者と何か話している。
王城で開かれる夜会。
あるいは、貴族たちとの晩餐会。
公爵ともなれば夜の付き合いも多い。
それは妻であるエレノアも理解していた。
ふと、リチャードが二階の窓に気付き、軽く手を上げる。
エレノアも微笑み返した。
リチャードは玄関へ戻りかけ、何かを思い出したように振り返る。
「そうだ、エレノア。」
少し大きな声が庭まで響く。
「今夜は戻りが遅くなる。」
その言葉は、何の躊躇もない日常の一言だった。
エレノアは静かに頷く。
「承知しております。どうぞ、お気を付けて。」
「うむ。」
それだけだった。
リチャードは満足そうに頷き、馬車へ乗り込む。
従者が扉を閉め、御者が手綱を鳴らす。
馬車はゆっくりと屋敷を離れ、夕暮れの街へ消えていった。
その姿が見えなくなるまで、エレノアは窓辺を動かなかった。
やがて、アンナが小さな声で言う。
「旦那様は、お忙しい方でございますね。」
エレノアは穏やかに微笑む。
「ええ。王国を支えるお立場ですから。」
責める言葉はない。
寂しいとも言わない。
それでもアンナには分かっていた。
この部屋の灯りは、毎晩遅くまで消えることがない。
仕事が終わらないからではない。
誰も待っていない寝室へ戻るのが、少しだけ寂しいからだということを。
エレノアは机へ戻ると、整え終えたはずの書類をもう一度手に取った。
急ぎではない。
明日でも構わない。
それでも、紙をめくる音が静かな部屋に響き始める。
仕事をしている間だけは、余計なことを考えずに済む。
そのことを、アンナだけは知っていた。
窓の外では、夕闇がゆっくりと王都を包み始めていた。
夜も更け、公爵邸は静かな眠りに包まれていた。
昼間は多くの使用人が行き交っていた廊下も、今は壁に掛けられたランプの灯りだけが淡く揺れている。
アンナは銀盆に温かなハーブティーを載せ、主人の寝室を訪れた。
「失礼いたします。」
部屋の中では、エレノアが窓辺に立っていた。
昼間とは違い、肩の力を少しだけ抜いた姿。それでも背筋は美しく伸び、月明かりに照らされた横顔には、静かな気品が宿っている。
「お休み前のお茶をお持ちしました。」
「ありがとう。」
エレノアは微笑み、カップを受け取る。
しかし、口を付けることはなく、その温もりを確かめるように両手で包み込んだ。
窓の外では、夜風が庭木を静かに揺らしている。
耳を澄ませば、遠くから馬車の音が聞こえた。
アンナは思わず窓の外へ目を向ける。
帰ってこられたのだろうか。
そんな期待は、馬車の音が屋敷の前を通り過ぎていくことで静かに消えた。
エレノアは何も言わない。
その音を追うこともなく、ただ夜空に浮かぶ月を見つめていた。
「奥様……。」
アンナは言いかけて、言葉を飲み込む。
慰める資格など、自分にはない気がした。
やがてエレノアは窓辺を離れ、寝室へ歩いていく。
広い部屋の中央には、大きな天蓋付きの寝台。
結婚祝いとして王家から贈られた、夫婦二人で眠るための寝台だった。
だが今夜も、その半分は誰にも使われない。
エレノアは掛け布団を整え、隣の枕へそっと手を伸ばした。
毎朝使用人が整えるその枕は、皺ひとつないまま夜を迎え、朝を迎える。
細い指先が、意味もなく布地を撫でる。
それは無意識の仕草だった。
アンナは胸の奥が締め付けられる。
この部屋には、ずっと二人分の家具がある。
それなのに、暮らしているのは、いつも一人だけだった。
エレノアは静かに灯りを落とす。
暗闇の中、小さく息をついてから、誰に聞かせるでもなく囁いた。
「……おやすみなさい。」
返事はない。
それでも、その一言だけは結婚した日から、一度も欠かしたことがなかった。
アンナは音を立てぬよう扉を閉める。
廊下へ出た瞬間、思わず目頭が熱くなった。
誰よりも多くの人を支え、誰よりも多くの人から慕われる人。
けれど、その人を支える者は、この屋敷のどこにもいなかった。




