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公爵夫人、離婚して資産三割を手に人生をリスタートします  作者: カワカン


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第3話 新しい暮らし 

 朝の柔らかな陽射しが、宿の小さな窓から部屋へ差し込んでいた。


 聞こえてくるのは、通りを行き交う人々の話し声と、遠くで鳴る教会の鐘。


 公爵邸のように、使用人が一日の始まりを告げに来ることはない。


 エレノアは静かに目を覚ました。


 昨夜、自分で閉めた部屋の鍵。


 自分で消した明かり。


 そして、自分で選んだ宿の一室。


 どれも十二年間の暮らしにはなかったものだ。


 寂しさがないと言えば嘘になる。


 けれど、不安は不思議なほど感じなかった。


 昨日、公爵夫人という立場を手放した。


 今日からは、一人のエレノアとして生きていく。


 そう決めたのは、自分自身なのだから。


 身支度を整え、一階へ降りる。


 宿の主人が笑顔で一礼した。


「おはようございます、エレノア様。」


「おはようございます。」


 肩書きを付けずに呼ばれることが、少しだけ新鮮だった。


 朝食を終えたら、銀行へ向かう。


 財産分与の入金を確認し、その後は新しく暮らす家を探す予定だ。


 やるべきことは多い。


 だが、その一つひとつが、自分の意思で選んだ未来へつながっている。


 紅茶を口に運ぼうとした、その時だった。


 宿の入口の扉が勢いよく開く。


 肩で息をしながら、一人の若い女性が辺りを見回した。


 そしてエレノアを見つけると、安堵したように大きく息を吐く。


「……よかった。」


 見慣れたエプロンドレス。


 小さな旅行鞄。


 その姿に、エレノアは目を丸くした。


「アンナ?」


 アンナは駆け寄ると、その場で深く頭を下げた。


「お願いがあります。」


「私も連れて行ってください。」


 その声には迷いも、ためらいもなかった。


 新しい人生は、思いがけない来訪者とともに始まろうとしていた。



宿の食堂は、朝の賑わいが少し落ち着いていた。


 窓際の席へ案内された二人は、温かな紅茶を前に向かい合って座る。


 アンナは膝の上で両手をぎゅっと握りしめたまま、なかなか口を開こうとしなかった。


 エレノアは急かすことなく、静かに待つ。


 やがてアンナは、小さく息を吸った。


「昨日、公爵邸を辞めてまいりました。」


 エレノアは驚いたものの、表情は変えなかった。


「そうですか。」


「セバスチャン様にも、旦那様にも引き止められました。でも、お断りしました。」


「どうしてですか。」


 アンナは迷わず答えた。


「私がお仕えしていたのは、公爵家ではありません。」


「エレノア様です。」


 その言葉に、エレノアは静かに紅茶へ視線を落とす。


 アンナがまだ十六歳だった頃。


 右も左も分からない新人侍女として公爵邸へやって来た日のことを思い出していた。


 礼儀作法も。


 帳簿の付け方も。


 客人への応対も。


 一つひとつ教えた少女が、今は自分の意思でここへ来ている。


「嬉しいです。」


 エレノアは穏やかに微笑んだ。


「ですが、それだけで人生を決めてはいけません。」


 アンナは顔を上げる。


「公爵家に残れば、安定した生活があります。」


「次の公爵夫人に仕える道もあったでしょう。」


「私について来れば、苦労をするかもしれません。」


「それでも、よろしいのですか。」


 アンナは真っ直ぐエレノアを見つめ返した。


「はい。」


 その返事は、あまりにも迷いがなかった。


「私が今こうして胸を張って働けるのは、エレノア様のおかげです。」


「失敗して落ち込んだ時も励ましてくださいました。」


「計算が苦手だった私に、何度も帳簿を教えてくださいました。」


「使用人だからと見下したことも、一度もありませんでした。」


 一つひとつ思い返すたびに、アンナの目は少しずつ潤んでいく。


「だから恩返しをしたいんです。」


「公爵夫人だからではありません。」


「エレノア様だから、お側にいたいんです。」


 その言葉を聞いたエレノアは、小さく目を閉じた。


 公爵夫人という肩書きを失っても、自分を必要としてくれる人がいる。


 それだけで十分だった。


 静かに目を開き、優しく微笑む。


「ありがとうございます。」


 そして、少しだけいたずらっぽく続けた。


「ですが、一つだけ訂正があります。」


「えっ?」


「昨日までの私は、公爵夫人でした。」


「でも、今は違います。」


 アンナは不思議そうに首をかしげる。


 エレノアは柔らかく笑った。


「これからは、『エレノア様』ではなく、『エレノアさん』と呼んでください。」


「ええっ!?」


 アンナは思わず大きな声を上げてしまう。


「そ、そんなことできません!」


「慣れるまでは大変かもしれませんね。」


「一生慣れません!」


 あまりにも真剣な返事に、エレノアはくすりと笑った。


 その笑顔につられるように、アンナも笑う。


 昨日まで、公爵夫人と侍女だった二人。


 今日からは、新しい人生を共に歩む仲間だった。



朝食を終えた二人は、宿を後にした。


 王都の大通りは、すでに多くの人々で賑わっている。


 荷馬車が石畳を行き交い、商人たちの威勢のよい声が響く。


 エレノアは街並みを見渡しながら、ゆっくりと歩いた。


「まずは銀行ですね。」


「はい。」


 アンナが頷く。


 財産分与の契約は昨日で終わった。


 今日は、送金が確かに行われたかを確認するだけである。


 ほどなくして、王立銀行へ到着した。


 受付で名を告げると、支店長が応接室へ案内する。


「お待ちしておりました、エレノア様。」


 机の上へ、一枚の書類が差し出される。


「昨日付で、ご指定の口座へ全額送金が完了しております。」


 エレノアは静かに目を通した。


 数字に誤りはない。


 十二年間の働きが、正式な財産として形になっていた。


「確認いたしました。」


 それだけを告げ、書類を丁寧に返す。


 支店長は思わず感心したように微笑んだ。


「これほど落ち着いて確認される方は珍しいものです。」


「仕事柄、数字には慣れておりますので。」


 エレノアも穏やかに微笑み返した。


 銀行を出ると、アンナが小さく息を吐く。


「あれだけのお金があるのに、驚かないんですね。」


 エレノアは少しだけ考えたあと、静かに答えた。


「お金は、使い方で価値が決まります。」


「持っているだけでは、何も生みません。」


 アンナはその言葉を胸の中で繰り返した。


 公爵家が豊かだった理由を、少しだけ理解できた気がした。


 二人は続いて、不動産商を訪れる。


 店内には王都各地の住宅や土地の図面が整然と並べられていた。


「いらっしゃいませ。本日はどのような物件をお探しでしょう。」


 店主が丁寧に頭を下げる。


 エレノアは迷いなく答えた。


「豪邸は必要ありません。」


「公共馬車の停留所まで徒歩で行ける場所で、管理しやすい家を探しています。」


 店主は少し意外そうな顔をした。


「ご予算でしたら、大きなお屋敷も十分お求めいただけますが……。」


「広い家は、それだけ維持費もかかります。」


 エレノアは穏やかな口調で続ける。


「これからは、自分で暮らしを築いていくのです。」


「必要以上の家は、資産ではなく負担になります。」


 店主は感心したように何枚かの図面を並べた。


 その中の一枚で、エレノアの手が止まる。


 二階建ての住宅。


 華やかさはないが、公共馬車の停留所まで徒歩五分。


 市場も近く、土地付きで抵当権も整理されている。


 建物だけでなく、土地の所有権も取得できる物件だった。


 エレノアは図面を見つめながら、小さく頷く。


「この立地なら、将来手放すことになっても価値は大きく下がりませんね。」


 店主は驚いたように目を丸くする。


「そこまでご覧になりますか。」


「家は住む場所であると同時に、資産でもありますから。」


 その答えに、店主は深く頭を下げた。


「失礼いたしました。まるで長年、不動産業に携わってこられた方のようです。」


 エレノアは小さく笑う。


「少しだけ、家計より大きなお金を扱っていただけです。」


 その一言に、アンナは思わず笑みをこぼした。


 公爵夫人という肩書きはなくなった。


 けれど、十二年間で培った知識と経験は、何一つ失われてはいなかった。




不動産商の案内を受け、二人は購入を決めた家へ向かった。


 王都の中心部から少し離れた住宅街。


 公共馬車の停留所までは歩いて数分。


 市場や銀行へも行きやすく、人通りも多すぎず少なすぎない。


 静かに暮らすには申し分のない場所だった。


「こちらになります。」


 店主が鍵を差し込み、玄関の扉を開ける。


 陽の光が差し込む玄関。


 磨かれた木の床。


 決して豪華ではない。


 それでも、長く大切に住まわれてきたことが伝わる温かな家だった。


 エレノアはゆっくりと部屋を見て回る。


 一階には居間と台所。


 二階には寝室が二つと、小さな書斎。


 窓を開ければ心地よい風が吹き抜け、庭には季節の花を植えられるほどの空き地もある。


「お気に召しましたか。」


 店主が尋ねる。


 エレノアは穏やかに頷いた。


「ええ。」


「広さも十分ですし、維持費も抑えられます。」


「何より、この立地なら土地の価値も大きくは下がらないでしょう。」


 店主は苦笑する。


「建物より土地をご覧になるお客様は珍しいですね。」


「建物はいずれ古くなります。」


 エレノアは静かに答えた。


「ですが、良い土地は、人が暮らし続ける限り価値を持ち続けます。」


 その言葉に、店主は深く頷いた。


 契約書が運ばれてくる。


 エレノアは一通り目を通し、静かに羽ペンを取った。


 公爵家では、数え切れないほど契約書へ署名してきた。


 けれど今回は違う。


 これは誰かのためではない。


 自分自身の人生のための契約だった。


 さらさらと名前を書き終える。


 店主も署名を終え、書類を閉じた。


「これにて契約成立です。」


 そう言って、一つの鍵を差し出す。


「本日より、この家はエレノア様のご所有となります。」


 エレノアは両手で鍵を受け取った。


 小さな鍵だった。


 だが、その重みは不思議なほど掌へ伝わってくる。


 公爵夫人として暮らした屋敷の鍵ではない。


 誰かから預けられた責任でもない。


 自らの意思で選び、自らの力で手に入れた家の鍵。


 その意味は、何ものにも代え難かった。


「おめでとうございます!」


 アンナが嬉しそうに声を上げる。


 エレノアは思わず笑みを浮かべた。


「ありがとうございます。」


 その一言には、不動産商への礼だけではない。


 これまで支えてくれた人々への感謝と、これから始まる人生への期待も込められていた。


 契約を終えた二人は、その足で王都の商店街へ向かう。


「今日は、お祝いにしましょう。」


 エレノアがそう言うと、アンナは目を丸くした。


「お祝い、ですか?」


「ええ。」


「新しい家を手に入れた記念です。」


 二人は仕立て屋へ入り、普段着を何着か選ぶ。


 公爵夫人だった頃のような豪華なドレスではない。


 毎日を気持ちよく過ごせる、動きやすく上質な服。


 アンナにも一着、淡い青色のワンピースを贈った。


「エレノア様、本当にいただいていいんですか?」


「もちろんです。」


「これからは、一緒に働く仲間ですから。」


 アンナは何度も頭を下げながら、その服を大切そうに抱きしめた。


 二人は焼きたての菓子を買い、通りの茶店で紅茶を飲む。


 他愛もない話をして笑い合う。


 それは公爵邸では決して味わえなかった、ごく普通の午後だった。


 けれどエレノアにとっては、その「普通」が何よりも新鮮で、何よりも愛おしかった。




夕焼けが王都の街並みを優しく照らしていた。


 新しく手に入れた家の扉を開ける。


 まだ家具はほとんどない。


 広い居間には、宿から運んできた荷物がいくつか置かれているだけだった。


 アンナは部屋を見回し、思わず笑みを浮かべる。


「何もありませんね。」


「ええ。」


 エレノアも微笑んだ。


「だからこそ、これから少しずつ揃えていけます。」


 何もない部屋は、不思議と寂しく見えなかった。


 これから積み重ねていく時間が、その空間を満たしていく。


 そんな予感があった。


 アンナは買ってきた食材を台所へ運ぶ。


「夕食は私が作ります。」


「では、私は食器を洗っておきますね。」


「えっ?」


 アンナは驚いて振り返った。


「そんなこと、私がします!」


 エレノアはくすりと笑う。


「今日からは二人暮らしです。」


「一人だけが働くのは、不公平でしょう?」


「でも……。」


「役割は分けましょう。」


「その方が、長く続きます。」


 アンナは少し考え、やがて笑顔で頷いた。


「……はい。」


 台所からは包丁の音が聞こえ始める。


 その音を聞きながら、エレノアは窓を開けた。


 夕暮れの風が部屋へ流れ込み、白いカーテンを静かに揺らす。


 公爵邸では、夕方になれば執務室へ戻り、山積みの書類に目を通していた。


 だが今日は違う。


 帰る場所は、この小さな家だった。


 エレノアは玄関へ歩き、一度だけ振り返る。


 まだ何もない居間。


 楽しそうに料理をするアンナの後ろ姿。


 窓から差し込む夕陽。


 その景色を胸に刻み、玄関の鍵へ手を伸ばした。


 カチャリ、と小さな音が響く。


 今日初めて、自分の家へ鍵を掛けた。


 その音は、一つの時代が終わった音ではない。


 新しい暮らしが始まった音だった。


 エレノアは静かに微笑む。


「ただいま。」


 その言葉に、台所からアンナの明るい声が返ってくる。


「おかえりなさい!」


 その何気ないやり取りが、この家に初めての温もりを灯した。


 公爵夫人ではない。


 一人のエレノアとして歩み始めた日々は、こうして静かに幕を開けた。



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