第九話 観察者
前夕、村の境界で見たあの高貴な織り模様を纏った女性。
一夜明けたルマ村には、すでにその見慣れぬ旅の女の不穏な噂がさざ波のように広がっていた。
村の畑を荒らす魔物の残滓を調査していた騎士たちが、森の入り口で彼女の足跡と、同行者とおぼしき数名分の蹄の跡を発見したからだ。
「ただの野良犬や、こそ泥じゃねえな」
共有地の端、朝霧が立ち込める水路の側で、カイルは地面の泥に刻まれた足跡を指先でなぞりながら、低い声で言った。
「この消音革の貼り方、指示された足跡の重心の置き方は、帝都の宮廷護衛局のさらに裏、かつて政争で没落した一族に仕えていた私設の特務騎士たちのやり方に酷似している。
若い頃、宮廷警護をしていた俺には見間違うはずがねえ。
彼らは表向き全員が処刑、あるいは追放されて存在を抹消されたはずだが、まさか辺境で生き残って地下に潜んでいたとはな。
都から遠く離れたこの最果ての野生領域は、帝国の税吏や査察の目が届かない、彼らにとって唯一の生存圏だったというわけだ。
宮廷の匂いがプンプンしやがる」
「アルダーク伯爵の放った隠密か、あるいは彼の競合派閥の先遣隊か。
どちらにせよ、私たちの動きを観察しているのは間違いない」
自家製の水質インジケーターを試験管に補充しながら、乾いた声を返した。
前夕に目撃した、外套の裏地から浮かび上がった金糸の織り模様。
都の宮廷薬学に携わっていた頃、身分制度に応じた衣装規格を専門的に知る機会があった。
あの独特の意匠は、帝国法で皇族、またはそれに準じる極めて高貴な一門のみに制限されている最高級の織技術だった。
カイルは腰の剣の柄に手を置き、不快そうに舌を打った。
「てめえの正体が神殿にバレたのか、それとも、俺たちの証拠隠匿が伯爵に察知されたのか。
いずれにせよ、ただの偶然でこんな辺境に上級貴族の影が現れるわけがねえ。
リアム、今日からの水路の検分、十分に警戒しておけよ」
「合理的だな。
相手の意図が不明である以上、無駄な接触を避けるのが最も生存確率を高める」
*
だが、その不気味な均衡は、同日の昼下がりに、最も容易な形で決壊した。
村の共有地から少し離れた、防護柵のすぐ外側を流れる水路の合流点にいた。
共有井戸に設置した濾過フィルターの予備として、上流から流れ込む原液の希釈度を、ツユクサの色素試薬を用いて測定していたのだ。
周囲の森は、昼光の中にあっても灰色を帯び、重苦しい薬品の臭気を漂わせていた。
不意に、周囲の空間から、風に揺れる木の葉以外の音が完全に消失した。
それまで羽音を立てていた特定の羽虫や、水路に集まっていた小鳥たちが、不自然に一斉に飛び去り、森が静まり返る。
生体が危険を察知した際の物理的なシグナルだ。
前夜に変異獣の包囲を経験したばかりの感覚が、その生態系の微細な変化を敏感に検知していた。
軍事的な索敵の専門家ではない。
だが、森を観察する薬学者として、空間の異変を幾何学的に捉えることには慣れていた。
風上に漂う複数人の微かな匂い。
そして、不自然な角度で枯れ葉を遮っている三つの細い直線の影。
光学的に逆算すれば、その影の延長線上にある弓先の射線は、正確に胸部を焦点として交わっていた。
ここで逃げるような無駄な動作をすれば、生存確率はゼロになる。
最も合理的な防衛行動は、敵意がないことを示すために、ただ静かに目の前の作業を淡々と継続することだった。
試験管の液体の色を観察する動作を、極めて平然と続けた。
「おや、こんな最果ての泥の中で、ずいぶんと高尚な玩具を弄んでいらっしゃるのですね、薬師様」
背後から、不意に声がかけられた。
冷たく、透き通るような声。それは丁寧な響きを帯びながらも、その底には人を値踏みし、見下すような、隠しきれない皮肉の棘が潜んでいた。
ゆっくりと振り返ると、そこには、立ち枯れた灰色の巨木の根元にたたずむ、一人の女性がいた。
前夕に見た旅装の女。
泥のついた外套を纏っているにもかかわらず、その立ち姿には隠しきれない優雅さが宿っていた。
丸腰で前に出て、部下が陰から狙撃体制を敷いているのは、戦闘能力の有無と、何より、精神的な「揺らぎ」をテストするための、宮廷式の冷酷な査定だった。
「玩具ではない。上流からの汚染水流入を検知するための、最低限の観測装置だ」
女性は、冷たい美貌に微かな笑みを浮かべてこちらを見つめた。
「あなたがトビーという少年に施した処置、そしてあの水質調査技術。
……お隠しになっても無駄ですわ。
あれはかつて宮廷薬学の頂点に立ち、後に歴史から抹殺された『ヴォルテ家』の秘伝調合理論。
違いますか?」
眉が、わずかに跳ね上がる。ヴォルテ家。
かつて宮廷薬学の頂点に立ちながら、数年前に神殿によって完全に抹消された、かつての家名だった。
「……なぜ、それを」
「神殿が禁忌薬で世界を支配するこの歪んだ構造を壊すには、暴力だけでは足りません。
彼らの薬を無力化し、真の治療を可能にする『本物の薬学技術』が必要なのです。
まさか、こんな辺境の村で、その継承者に出会えるとは思ってもみませんでしたわ」
彼女が求めていたのは、単なる手駒ではなく、神殿の支配を根底から揺るがす「知識」そのものだったのだ。
「宮廷の様式を纏うあなたが、わざわざこの最果てで、不審な薬師を観察する理由は何か。
アルダーク伯爵の命令か」
「笑止」
女性は、まるでその名を口にすることすら不快であるかのように、冷たく言い放った。
「あのような、神殿の顔色を窺って証拠隠滅に奔走するだけの凡愚に、私が顎で使われるとでも?
随分と、見縊られたものですこと。
……せいぜい、その小さな砂の城を磨き続けるといいでしょう。
汚染を濾過し、一時的な平穏を貪る。結構なことです。
ですが、このルマ村の決壊は、宮廷の政治的陰謀の第一段階に過ぎませんのよ。
上流の廃棄プラントで製造された『禁忌薬の結晶』が、どのような経路で帝都へ運ばれ、誰がその暴利を貪っているか……お知りになりたくはありませんか?」
「始まり、とは何だ。上流のプラントの存在か。
それとも、宮廷の競合派閥を潰すための、より大規模な汚染工作の布石か。
あなたはそれを知っているのか」
具体的に問いを重ねると、女性は目を真っ直ぐに見つめ、その切れ上がった双眸の奥に、すべてを焼き尽くそうとするような、昏い復讐の光を宿らせた。
かつて彼女の一族を没落させ、追放した、アルダーク家をはじめとする宮廷の主流派閥。
そしてその影にいる神殿の中枢。あの帝都の支配者たちへの復讐のために、彼女は禁忌薬がもたらす汚染という破滅の因果を、巨大な引き金として利用しようとしている。
宮廷の腐敗を内側から食い破るために、彼女は動き出しているのだ。
「おや、やはりただの薬売りではありませんわね。
……あなたの論理の底、もう少し覗いてみたくなりましたわ。
明日、村の東の境界へおいでなさい。お断りになるなら、あなたが必死に磨いたこの砂の城が、内側からどのように崩壊するか
……お見せすることになりますわ。せいぜい、その命を無駄に散らさぬよう、泥の中でもがき続けることですわ」
森の奥から、低く短い指笛の音が響いた。
彼女は、リアムが「交渉する価値のある相手」であると査定を完了し、不気味な交渉の指定を突きつけたのだ。
女性は、問いにそれ以上答えることなく、優雅に身を翻した。
その外套の裏地から、再びあの金糸の織り模様が灰色の立ち枯れ木の隙間から漏れ出す午後の鈍い陽光を反射してきらめき、足音も立てずに巨木の奥へと、吸い込まれるように消え去っていった。
気配が、一瞬にして森から去っていく。
翌朝を待たずとも、すでに新たな、そして避けがたい因果が、村の境界で私の名を呼んでいた。
*
「おい、リアム! 無事か!」
共有地の方角から、数名の部下を引き連れたカイルが、息を切らせて駆け込んできた。
抜刀した長剣が、午後の光を鈍く弾いている。
「怪しい女が、防護柵のすぐ外側に現れたって見張りから報告があった。
……どこへ行った?」
「去った。深追いするな。
周囲の森には、少なくとも三名以上の、高度な訓練を受けた狙撃兵が潜んでいた」
試験管を木箱に収め、手袋を外した。
カイルは悔しそうに周囲の茂みを睨みつけ、地面の新たな足跡に視線を落とした。
「……やっぱり、ただの野盗じゃねえ。
足音を消すための消音革をブーツの底に貼っていやがる。
あの女……ただの上級貴族じゃねえぞ。
宮廷から消された血筋の匂いがする」
カイルの分析は、脳内に、新たな計算式を立ち上がらせていた。
彼女の意図は不明だ。
アルダーク伯爵を凡愚と切り捨て、すべてを暴き、元の形に戻すと語ったあの言葉。
それは、禁忌薬による汚染と宮廷の腐敗を利用して、帝国そのものを根底から崩壊させようとする、巨大な復讐の計画を示唆していた。
私たちが帝都へ向かおうとするその直前、このような存在が目の前に立ち塞がったのは、決して偶然ではない。
翌朝、共有地に張り詰めた、冷たい緊張感は、さらなる報告によって破られることになった。
村の境界を守る騎士の一人が、青ざめた顔で村長の小屋へと駆け込んできたのだ。
「隊長ッ! あの、昨日の旅の女が
……また、村の境界線のすぐ外側に現れました!
騎士団の制止を完全に無視し、こちらの矢の射程ギリギリの場所で、馬を止めたまま動きません!」
「何だと? 武器は持ってるのか!」
「いえ、丸腰です! だが、彼女は……」
伝令の騎士は、チラリと調合台の方角に視線を向け、怯えたように声を震わせた。
「『薬師リアムを呼べ。彼と、一対一での交渉を要求する』と……名指しで告げております!」
新たな、そして避けがたい因果が、村の境界で私の名を呼んでいた。




