第十話 元皇女
背負っていた木箱から携帯用の真鍮乳鉢と予備の試験管を片付け、歩き出した。カイルが制止を振り切り、重い長剣を携えて同行することに異論は挟まなかった。
一対一という要求そのものが不自然だった。
こちらを狙うだけなら、監視の容易な村外れのどこかへ呼び出すのが最適だ。
わざわざこの境界線を選ぶ理由は何か。
単に呼び出すだけでなく、カイルをこの交渉の場へ引きずり出すための口実である可能性が高い。
そしてカイルが制止を振り切って同行を決めたとき、その仮説の確度は八割を超えた。
最初から、彼は罠にかけられていたのだ。
朝の濃い霧が、灰色の大地を低く這うようにして、村の東の境界線に滞留していた。
湿った冷気が皮膚を刺し、枯れ葉が濡れて腐食していく特有の匂いが漂う中、防護柵から数十歩離れた開けた場所に、その女性は馬を止めて静かにたたずんでいた。
防護柵を出た瞬間、周囲の濃霧の中から音もなく複数の人影が滲み出し、十数歩の距離を保ったまま包囲陣の形を成した。
カイルは即座に長剣の鯉口を切り、一歩踏み出したが、敵の無駄のない配置を見て、すでに間合いを取られていることを悟り、不快そうに小さく舌を打った。
彼らは抜刀すらしておらず、ただ手の届く腰の長短刀や暗器に指先をかけたまま、退路を塞ぐ完璧な包囲陣を形成していた。
高台の茂みには弓兵の冷たい射線が維持されている。
手袋をした両手を相手に見える位置に保ったまま、不意の狙撃に備え、カイルの頑丈な鉄胸当てをいつでも遮蔽物として利用できる位置取りを足元で静かに維持した。
「『一対一』と申し上げたのは、そちらの頼もしい番犬を引きずり出すための口実に過ぎません。
期待通りに釣られてくださって、何よりですわ、カイル百人隊長」
女性は馬の上から、優雅に頭を下げた。
泥を撥ねた旅装の襟元から覗く、細く白い首筋。
その佇まいには、他者を支配することに慣れきった高貴さが宿っていた。
カイルは、彼女の背後に控える私設騎士たちの装備に視線を配り、驚きに顔を強張らせた。
「俺の専任教官だった、ローゼンバーグ公爵家の元私設騎士と同じ隠密の歩法……」
さらに、彼女の外套の裏地に見える金糸の龍鷲紋へと視線を移した瞬間、息が完全に止まった。
金糸の龍鷲紋。
都の衣装規格において、それは皇族またはそれに準じる極めて高貴な一門のみに制限されている最高級の織技術だ。
「……てめえ、まさかあの、五年前の宮廷粛清で死んだはずの……第三皇女、ヴィオラ様か」
カイルが、相手の正体をその実務的知識から正確に看破した。
だが、あの粛清の際、ヴィオラ皇女は神殿の連行を拒んで自害したと公式に発表されていたはずだ。
なぜ生きているのかという当然の疑問が、カイルの表情を驚愕に染めていた。
女性は否定せず、ただ薄い唇の両端を吊り上げ、冷淡な微笑を向けた。
「おや、アルダークの犬にしては、頭の回転がよろしいようですわね。
自害したのは私の身代わりとなった影武者の侍女ですわ。
アルダークや神殿に『存在を消された』おかげで、私はこうして亡霊として、彼らの目の届かない辺境で牙を研ぐことができた
……皮肉なものですこと」
カイルは剣の柄に置いた手を離さず、押し殺した声で言った。
その瞳には、感情的な劇薬ではなく、かつて自分が間接的に加担させられていた組織的縋奪の冷酷な記憶に対する、軍人としての深い嫌悪と不快感がたぎっていた。
「あの事件で、俺の専任教官の仕えていたローゼンバーグ公爵家
――てめえの母方の実家は、配給枠を不法に横流しした罪で処刑された。
俺は上官のアルダーク伯爵の命令で門を封鎖させられたんだ」
「あの日、公爵邸の裏門を真っ先に封鎖し、私の脱出路を塞いだ近衛の兵たち。
その先頭で、松明の火に赤茶色の髪をぎらつかせて直立していたあなたの顔を、私が忘れるとでもお思いかしら。
……ようやく繋がりましたわ。あの日、我が一族を嵌めて処刑し、私を辺境へ追い落とした首謀者
――それこそが、あなたが忠誠を誓っている、あのアルダーク伯爵だったということですわね。
ですが、あの男は自らの手を汚す度量すらなく、神殿の顔色を窺って動いていただけの、実質的な傀儡
――ただの凡愚に過ぎませんわ。
だからこそ、私はあの男の背後にいるシステムごと、すべてを食い破る必要があるのです」
カイルは拳を血が滲むほど強く握りしめ、その声を怒りと絶望で震わせていた。
彼が自らの剣の誇りとして信じていた帝国騎士としての忠義。
その帰結が、ただの汚い宮廷の利権強奪者の手駒に過ぎず、目の前にいる元皇女はその陰謀の最大の被害者であるという厳然たる事実。
カイルは一晩眠れずに考え抜いた自らの政治的隠匿工作のシナリオすらも、この圧倒的な因果の前に瓦解していくのを、ただ唇を噛みしめて耐えるしかなかった。
「私にも辺境にいくつかの耳目がありますの。
あなたがこの村であっという間に、神殿の禁忌薬なしで疫病を抑え込み、変異獣の大群を壊滅させたという奇跡……。
それがただの偶然ではないことくらい、容易に理解できますわ。
さあ、私と手を組みましょう、リアム。この歪んだ世界の薬理を、引き剥がすために」
第三皇女ヴィオラ。 脳内での瞬時の計算。
リスク:極大。交渉自体が神殿主流派に対する明白な反逆罪。
成功率:カイルのみでは低い。
価値:裏の特務ルート。極大。
結論:取引の受諾。
「復讐などという主観的な感情には興味がない」
カイルの葛藤を無視して、ただ冷淡に答えた。
「だが、都の汚染源にアプローチするためには、カイルの査察権だけでは神殿の厳重な包囲を突破できない。
あなたが、宮廷の主流派の目を盗んで、帝都の廃棄プラントの最深部へ潜入するための、隠密行動権や個人資産、そして裏のルートを提供できるというなら、一時的にあなたの計画の駒になることは、生存確率を最適化する。
利害は一致している。利用価値がなくなれば、いつでも切り捨てるがね」
ヴィオラは、極めて乾いた、感情を一切排した回答に、驚いたように眉を上げ、次いで、貴族的な修辞に満ちた皮肉な笑みを浮かべた。
「素晴らしい。
やはり、ただの辺境の薬売りではありませんわね。
あなたのその不気味なほどの合理性、私は気に入りましたわ」
ヴィオラが顎で合図を送ると、彼女の背後に控えていた一人の私設騎士が、一歩前に進み出た。
騎士は、その手にした古い革袋から、一枚の折り畳まれた羊皮紙を取り出し、私に向けて静かに差し出した。
「お受け取りなさい。
都における神殿の廃棄プラントへ繋がっている、閉鎖された地下流通路の極秘の『切れ端』ですわ。そこから先に進むためには、私の部下たちの手引きと、あなたの解析能力が必要。
……まずは私の提示した『利用価値』の最初の証拠として、これをお受け取りなさい」
帝都エリュシオンの地下。
かつて都近郊に潜伏し、神殿の監視から逃れるための非正規の脱出路を探していた頃、都の地下に広大な、迷宮のような旧下水路網が遺棄されているという噂を耳にしたことがあった。
この羊皮紙が示すのは、その閉鎖された地下流通路の極秘の切れ端、つまり、あのプラントへの最初の一歩だった。
新たな、そして帝都の最深部へと至る、冷たい因果のパズルが、手元へと差し出されていた。




