第八話 灰の中の真実
決戦の夜が明けて、二日が経過した。
村人総出による泥臭い瓦礫の撤去作業と、変異獣の残骸処理が進む中、共有地の端に設けた仮設の調合台の前にいた。
空気中には、まだ煤と、獣の残骸を処理した際特有の、有機溶媒を思わせる甘く鋭い刺激臭が微かに漂っている。
変異獣の強塩基性の残骸をただ燃やせば、そのアルカリ性粉塵や有毒なガスが村に深刻な二次汚染を引き起こす。
そのため、カイルに指示し、地中への染み出しを防ぐためにあらかじめ酸性の粘土層を厚く敷き詰めた巨大な穴を掘らせた。
変異獣の遺体をそこに集め、村の炭鉱跡に残されていた希釈した硫酸性鉱液を流し込んで局所で中和・固定化させてから、湿らせた土で深く埋設処理させた。
この厳密な管理がなければ、土壌や水源の汚染がさらに深刻化して、避難した村人たちは化学性肺障害を再発していただろう。
「リアム先生、これ、トビーが持ってきたよ」
マリアが、トビーに付き添われながら調合台の脇にいくつかの乾燥した薪の束を置いた。
彼らの家は完全に押し潰され、跡形もなくなっていた。
村長ゴルドが手配した、共有地の頑丈な石造りの共同倉庫の一部に臨時の生活拠点を移し、家屋の再建計画と柱の切り出しが始まった段階だ。
「トビー、熱は下がったか。鎖骨の下の呼吸音は」
「もう全然なんともないよ! ほら、呼吸もすーすーする!」
少年は元気よく胸を張ってみせたが、革製の手袋をはめた手で、彼の顎を持ち上げて喉の奥を検分した。
粘膜のただれは消失し、心音も規則正しい拍動を刻んでいる。
「良好だ。だが、瓦礫の撤去作業で発生する石粉や煤を吸い込めば、肺粘膜が再び炎症を起こす危険がある。水路の片付けを手伝う際は、濡らした布を必ず口に巻いておけ。これが指示だ」
「はーい、お医者様!」
「薬師だ」
トビーが笑いながら共有地の瓦礫山へと駆けていくのを見送り、マリアが置いていった薪を台の隅へ寄せた。
それが、今回の避難計画と戦闘処理に対する、彼女の支払える精一杯の現物対価だった。
怪我人たちへの応急処置も、昨夜のうちにすべて完了させていた。
翌朝。カイルはひどく充血した目で、仮設の調合台の前に現れた。薄汚れたリネンのインナー姿のまま、手にはくしゃくしゃになったアルダーク伯爵の極秘命令書を握りしめている。
調合台の端に無造作に腰掛け、台の上に置かれていた試験管を指先で軽く弾いた。
「……一晩中、てめえの調合記録の控えと、共有地の瓦礫から掘り起こした『魔物の残骸』を突き合わせて考えていた。結論が出た。これ以上、アルダーク伯爵に正直な報告書を送れば、俺たちは口封じに消される」
カイルは凄惨な笑みを浮かべた。
「だから、この『汚染の証拠』と『変異獣の死骸』は極秘裏に隠匿した。これをアルダークの旦那への『脅しの材料』にする。そのためには、この変異を学術的に証明できるてめえの頭脳が必要だ。てめえを俺の部隊の『正規軍医補佐』として登録する。断る権利はねえぞ、共犯者」
宮廷の警護任務に就いていた若い頃、彼は嫌というほど貴族たちの腹の探り合いを見てきた。
だからこそ、ただ無防備な報告をするのではなく、自らの部隊の保全と、こちらを軍医補佐としてカモフラージュするための「交渉のカード」として証拠を隠匿したのだ。
「合理的だな。戦力として、そして身分を偽装するための盾として、あなたの存在は生存確率を跳ね上げる」
差し出された右手を握り返す代わりに、作業台の上からツユクサの精製液の小瓶を一つ取り、彼の手のひらに直接、静かに載せた。
これが、取引への合意の証だった。
カイルは手の中の小瓶を見て、
「けっ、最後までそういう奴だよな、てめえは」
と肩をすくめ、小さく吹き出した。
だが、その瞳には、確固たる協力者としての温度が宿っていた。
選別を終えたツユクサの瓶の蓋を閉めた。
このルマ村における、一時的な水質管理のデバッグはほぼ完了していた。
共有井戸の底部に、炭と細かい砂を用いた、応急処置としての簡易な多層濾過フィルターを設置し、さらに汚染物質が流入した際に呈色変化を起こすツユクサの精製インジケーターを組み込んだ。
ツユクサの精製液が反応するのは、廃棄原液に含まれる特定の重金属残渣だ。
単純なpHの変化ではなく、色素との錯形成反応によって呈色する。
先の森での検分時、ツユクサの色素が変異獣の体液に反応して示した、あの確実な呈色変化。
水路に廃棄原液が流入し、その残渣濃度が一定を超えれば、一瞬でどす黒い紫へと呈色変化を起こす。
もちろん、汚染が他の有機毒素や単純な細菌によるものである場合、この簡易フィルターや色変化だけでは防ぎきれない。
そのため、ゴルドに観察チェックリストを手渡し、複数指標で毎日確認するよう厳命した。
このシステムは、調合薬を補充できなくなればいずれ崩壊する一時的な時間稼ぎだ。だからこそ、その限界時間を迎える前に、帝都の汚染源を叩く必要があった。
頭の中に生じた、あの刺激性揮発薬の調合法の空白は、埋まることはない。
昨夜の不格好な代替薬は、村人全員を巻き込む危険な人海戦術を強いただけでなく、その未精製の有毒な黒煙を浴びたことで、肺の一部は今もピリピリと灼きつくように痛み、呼吸のたびに乾いた咳が出る。
一度の死と知識の喪失は、身体を確実に蝕み、調合の精度を決定的に劣化させていた。
「村を離れる」
静かな独白に、カイルは驚いたように顔を上げた。
「……行くのか、帝都へ」
「この最果てで汚染の飛沫を拭い続けるのは非効率的だ。
因果の源流である、帝都エリュシオンの廃棄プラントへと直接アプローチしなければ、根本的な解決にはならない。
都は世界樹を中心に同心円状に広がる巨大な超過密都市だ。
最下層の貧民区に潜り込み、神殿の監視を避けて潜入することは十分に計算可能だ」
「……てめえらしい、無茶な理屈だ」
変異獣の依存物となる廃棄原液の流出自体も、今日、カイルの部下たちが上流の小規模な流出水路に土嚢を積んで一時的にせき止めた土木措置により、数ヶ月間は村への接近を防げる。
だがこれもまた、次の豪雨で決壊すれば終わる、限られた猶予に過ぎない。
まずは、この汚染源であり、カイルに隠蔽を命じた宮廷のアルダーク伯爵。
彼こそが、この第一の因果を断ち切るために超えねばならない、最初の壁だ。
日没が近づき、夕闇が村を支配し始めていた。
小屋の外で、旅立ちのための最低限の荷物を整理していた。
不意に、背筋に冷たい摩擦を覚えた。 ただの風ではない。誰かの視線が、首筋に張り付いているような不快な違和感。
ゆっくりと共有地の境界線へと顔を向けた。
防護柵の外、街道を囲む立ち枯れた灰色の木々の隙間。
夕闇の青緑色の月光が、大気中の微粒子に乱反射するその逆光の中に、じっとこちらを見つめている影があった。
細身の、旅装を纏った一人の女性だった。
彼女が身を翻した一瞬、月光に翻った外套の裏地から、帝都で何度も目にした宮廷の限られた高官のみが使用する特有の織り模様が、青緑色の燐光の中にくっきりと浮かび上がった。
かつて都にいた私には、それが都の貴族階級の様式であることが一目で判別できた。
彼女は、ただの旅人ではない。
高貴さを崩さぬまま、私を値踏みしにきた宮廷の関係者だ。
彼女の意図は不明だ。
アルダーク伯爵が派遣した、カイルを裏から監視する本当の目なのか。
あるいは、密造プラントの存在を察知して、騎士団より先に出処を特定しにきた競合派閥のエージェントなのか。
いずれにせよ、行動に干渉しようとする何かが動き始めている。
女性は、視線に気づくと、薄い唇の両端をかすかに吊り上げ、そのまま音もなく灰色の立ち枯れ木の奥へと消え去っていった。
新たな、そして避けがたい因果の気配が、最果ての村の境界線を静かに侵食し始めていた。




