第七話 巻き戻る痛み
呼吸が、できている。
肺胞が空気を引き込み、鎖骨の下の静脈も何一つ損壊していない。
自室の作業台の前で突っ伏していた。
次の瞬間、極めて不快な嘔吐感に襲われ、床に四つん這いになって胃液をぶちまけた。
呼吸が荒く乱れ、激しい頭痛が脳髄を直接灼く。
死の間際の、あの細胞が融解していく凄絶な感覚が、生理的な拒絶反応として肉体に生々しく残留していた。
乱れる呼吸を必死に整えながら、血の気の引いた手で窓枠にしがみつき、外の景色を観察した。影の長さ、そして共有地でまだ避難指示が出される前に平穏に動き回っている村人たちの姿。
確かに、時間はおよそ半日前に巻き戻っている。
この死戻りという現象の限界回数は、自分自身にもまだ分からない。
だが試行回数はそう多くないことは確実だった。
世界樹がその喪失を吸い上げる代わりに、許容できる可逆限界である半日前へと因果の糸を再構成し、肉体もまた、無傷だった物理状態へと再構築したのだ。
世界が完全に汚染・崩壊した後に生じる巨大な因果の崩壊を処理するよりも、一人の薬師の死という局所的な喪失と引き換えに半日前までの小さな因果修正を実行する方が、システムを維持するための消費エネルギーが圧倒的に低い。
世界樹は、ただ自らを維持するために最も合理的な、最小のコストを選択している。
死に戻りとは、世界樹が世界を救うためのシステム維持関数の一部に過ぎないのだ。
だが、その物理的な自然法則の揺らぎを理解した瞬間、内側に、もう一つの決定的な異常が突きつけられた。
頭の中に、薄気味悪い空白が広がっている。
昨日まで当たり前のように脳内に描かれていた、あのアンモニアを用いた「刺激性揮発薬」の調合プロセス。
その具体的な構成分子式、至適温度、そして各成分の精密な混合比率が、記憶領域から跡形もなく消え去っていた。
世界樹が因果を巻き戻すために徴収する調合知識。
それは、失われれば次のループにおける生存確率が最も劇的に変動するような、直前のループで「自らの命や他人の命を救うために最も能動的に行使した知識体系」を丸ごと吸い上げ、永久に剥奪する。今回は、狼型変異獣を足止めするために土壇場で行使した、あの刺激性揮発薬の調合式という一つの知識体系が、代償として選ばれた。
失われるのは、前世から持ち込んだ調合理論の知識(人工的な配合・製法)そのものであり、この世界で実地に学び直せるような一般的な観察眼や、植物の採取経験自体は消去されない。
だが、高度な製法が失われれば、治療能力の優位性は確実に崩壊する。
手元の羊皮紙に筆を走らせ、今ある調合知識をすべて物理的に記録し、次の喪失に備えようとした。
だが、筆先が紙に触れる直前で、自らの非合理的な思考に気づき、手を止めた。
世界樹が因果を巻き戻す際、それは物質の配置や記録媒体すらも、半日前の状態へと完全に巻き戻す。
したがって、仮に死の間際に知識をノートに書き残していたとしても、世界線が半日前に巻き戻れば、ノートの紙面もまた、文字の書かれていない半日前の状態へと完全に巻き戻る。
世界樹の因果修正の前には、いかなる物理的記録によるハッキングも通用しない。
知識は脳内だけでなく、この世界の履歴から完全に消滅するのだ。
指先がガタガタと震え、作業台の上のガラス瓶をなぞった。
一つ、二つ、三つ。
硬質なガラスの感触をいくら認識しても、消えた論理は二度と戻らない。
自分を構成する結晶が、このようにして一つずつ削り取られ、最後には何も残らない抜け殻へと至る。
数十呼吸の間、その底知れない恐怖に支配され、動けずにいた。
だが、瓶を何度も数えることで、脳はかろうじて合理的な思考回路を再起動させた。
「……立ち止まっている時間はない」
今日の夜、再びルマ村は変異獣の大群に襲撃される。
前回のループにおいて、変異獣の体液からプラント由来の高濃度原液を化学的に検出した。
時間が巻き戻ったからといって、上流の貯留槽が数日前の長雨による地盤の緩みですでに決壊しているという、物理的事実は変わらない。
今夜、その汚染流出の影響がこの村の低地に達することは、純粋な物理的計算による予定調和だった。
木箱に、トビーが採取してきたツユクサの精製液などの最低限の道具を詰め込み、小屋を飛び出した。
共有地で哨戒の交代要領を確認していたカイルの前に、まっすぐに割り込んだ。
「てめえ、リアムか。なんだ、その死人みたいなツラは。風邪でも引いたか?」
「カイル、今すぐ村全体に避難命令を出せ。今夜、日没からおよそ二時間が経過した頃、東の防護柵が最初に破られる。先行するのは関節の壊れた狼型の変異獣だ。奴らは換気用の通気口から、最も頑丈な村長の家の地下貯蔵庫に直接侵入し、避難した子供たちを狙う。数はおよそ数十体だ」
カイルは目を丸くし、次いで不機嫌そうに眉をひそめた。
「はあ? 急に何を言い出すんだ、てめえ。なぜそんなに具体的、かつ明確に言い切れる? まるでてめえは、一度その現場を見てきたみたいじゃねえか。大群が攻めてくるって根拠はどこにある」
「前回のループ、いや、私の一連の薬理的・実証的観察が外れたことがあったか? 昨夜の森の変異獣の弱点においても論理的予測は正確だったはずだ。
上流の廃棄プラントの貯留槽が決壊した。流出した高濃度の廃棄原液は、今日の夜にはこの村を囲む低地や水路の全域へと達する。変異獣たちは脳を破壊されているが、あの廃棄原液の特定の化学物質を嗅ぎ分ける特定の嗅覚受容体だけは、生存領域を追跡するために過剰に鋭敏化している。汚染水が村まで達すれば、彼らを縛っていた高濃度領域そのものが村を包む低地まで拡大し、彼らはその汚染水の流れに吸い寄せられるようにして、音もなく進出してくる。
前夜の偵察で確認した原液の漏出量と、部下から上がってきた森の異常報告。今朝の言葉は、それらすべての事実とあまりにも精密に符合しすぎている。備える価値は十分にあるはずだ」
死人のような顔をしながらも微塵のブレもない論理的な指摘に、カイルは剣の柄に置いた手を強く握り直した。
「……チッ。上等だ、薬師。てめえのその不気味な予言、信じてやる。最悪のシナリオに備えるのが指揮官の義務だ」
カイルは踵を返し、部下たちに向けて吼えた。
「全員、武器を執れッ! 村長を呼べ、日没までに全住民を広場中央へ強制避難させるぞ! 防護柵の前にトラップを仕掛けろ!」
ルマ村は二十数世帯、百人足らずの小さな辺境開拓村だ。
これほどの小規模な人口であれば、騎士団の強制的な軍指示があれば数時間で避難を完了することは物理的に十分可能だった。
自らの小屋に戻り、失われた揮発薬に代わる防衛手段の構築を急いだ。
アンモニアと硫黄を用いた、かつての高効率な調合法はもう思い出せない。
だが、変異獣の鋭敏化した特定の嗅覚受容体を、強烈な化学的刺激で物理的に麻痺させるという戦闘コンセプトそのものは、脳内に残されていた。
村の堆肥置き場から発酵途中の堆肥を集めさせ、そこに木炭の灰と、自家蒸留した粗製アルコールを強引に混和させた。
効果はかつての十分の一にも満たず、成功する保証はどこにもなかった。
この劣悪な代替品を作動させるためには、避難している村人たち全員が防護マスク代わりに濡らした布を口に当て、防護柵の上から燃え盛る火塁の中に投げ込み続けるような、危険な人海戦術をとるしかなかった。
だが、大気中に可燃性エーテルガスが滞留している現状、火を使った防衛は自殺行為だ。
そこで、前回の戦闘で得た「変異獣の肉組織は、強塩基と酸との急激な化学的中和反応に極めて弱く、自壊する」というデータを活用した。
村の防護柵の手前に、あらかじめ堆肥と酸性粘土、中和剤を混ぜ合わせた「化学的な泥の溶解帯」を築かせておいた。
知識の喪失という代償は、優美な調合理論を剥奪し、このような非効率で危険を伴う妥協の戦術を強制する形で、その牙を剥いていた。
*
そして、夜が訪れた。
村人たちはすでに、村全体の避難計画に基づき、一人の漏れもなく、最も頑丈な村長の家の地下貯蔵庫や広場中央の安全な一画に避難を完了させていた。
マリアも、トビーの手を強く握りしめたまま、最初から避難民を誘導する炊き出し班の役目をゴルドの監視下で全うしていた。
防護柵の手前、突撃してきた変異獣が泥の溶解帯に足を踏み入れた瞬間、凄まじい中和熱と化学反応が彼らの四肢を襲った。
痛覚が極端に鈍化しているとはいえ、構造的に支持能力を失った肉組織がドロドロに融解していく。
変異獣たちは激痛に咆哮を上げて足を止め、動きを著しく阻害された。
さらに、水路からの発熱反応によって、泥塊から気化させた自家製の毒性燻煙を風上から大量に散布した。風に乗って流れる、堆肥の燃焼成分による強烈な刺激の黒煙が、防護柵の隙間に立ち込める。
村人たちが命がけで泥塊を化学熱の中に投げ込み続け、生じたその黒煙は、風上のこちらをも激しく咳き込ませ、目を開けていられないほどの強い刺激をもたらした。
だが、変異獣たちはそのさらに数十倍の、唯一機能していた嗅覚受容体を完全に破壊・麻痺させられ、突進の進路を完全に見失って同士討ちを始めた。
「突撃ィッ! 腱を断ち切れ! 動きを止めろ!」
ガス爆発のリスクを完璧に回避した安全な風上から、カイルの鋭い号令とともに、準備を整えていた騎士たちが一斉に槍衾を突き立て、変異獣たちの運動中枢を冷酷に破壊していった。
戦闘は、深夜に及ぶ前に、私たちの完全な勝利として終結した。
事前の完璧な避難計画と戦闘準備により、一人の死者すら出なかった。
だが、鋭い牙で腕を掠められた者、泥に触れて火傷を負った者が、騎士と村人合わせて十数名に上り、防衛線は傷だらけだった。
そして、すべては救えなかった。
変異獣たちの暴走によって、村の防護柵に近い家屋のいくつか
――マリアの家を含む、三つの住居が完全に押し潰され、瓦礫の山と化していた。
マリアはトビーを抱きしめ、失われた自らの生活の拠点を、遠くからただ涙を流して見つめるしかなかった。
*
血濡れた長剣を鞘に収め、カイルが横に並んだ。
その顔には、勝利の喜びは微塵もなかった。
その手には、泥に汚れた命令書が握られている。
『ルマ村近郊における、競合派閥の非正規禁忌薬不法貯蔵設備を差し押さえよ。なお、当該地域にて不法調合の副産物とみられる不審な獣等に遭遇した場合は、現地で速やかに焼却処分し、報告書は簡潔にまとめよ』
カイルは命令書を見つめながら、声を怒りと絶望で震わせていた。
「……おい。三日前に来た徴税官の命令書と、てめえの言う『廃棄物による汚染』。この2つが、どうしても頭の中で嫌な繋がり方をしやがる。おい薬師、てめえの言うことが本当なら……俺たちは最初から捨て駒だったんじゃねえのか?」
カイルの瞳に宿るのは、確信ではなく、底知れない陰謀に足を踏み入れてしまった恐怖と激しい動揺だった。
彼を見つめた。
「合理的だな。彼らにとって、この村の命など、禁忌薬の配給バランスを維持するための、ただの消耗品に過ぎない。……だが、カイル」
「これは、ルマ村だけの問題ではない。この汚染がこのまま進めば、帝国中央の何かが、根底から崩壊することになる」
自分の脳内から完全に消失してしまった、あの刺激性揮発薬の調合法に、心の底で冷たい哀悼を捧げていた。
何かを救うためには、これからも、自らの一部を切り売りし、荒い喪失を重ねていくことになる。
だが、理性は、すでに次の因果を計算し始めていた。




