第六話 壊された日常
汚染水が村の周囲へと到達し、彼らを縛っていた「依存の境界線」が村の防護柵まで拡大した。
その浸透が完了した瞬間こそが、彼らが動き出すトリガーだった。
月光の青緑色の蛍光を反射する無数の眼光が、一斉に村の中心に向けて動き出した。
篝火が消され、最低限の遮光ランタンの細い光だけが共有地を這う暗闇の中、カイルの引き絞られた叫び声が夜気を引き裂いた。
「遅滞戦術をとるッ! 決壊口に油丸太を投げ込んで火塁を築けッ! そこをボトルネックにして槍衾で突進を受け止めるんだ!」
カイルの的確な命令により、騎士たちは決壊口に一時的な火の壁を構築し、変異獣たちの突進のエネルギーを物理的に減衰させた。
だが、それでも変異獣たちは、痛覚の消失によって、自らの肉体の限界や骨の軋みを完全に無視した突進を繰り返す。
数百キログラムに達する巨体の衝撃が繰り返し丸太の防護柵を叩き、頑丈だった結束が次々とへし折られていった。
「先生、トビーをお願い! お願いします!」
配給の列の混乱の中で、マリアが私の外套を掴み、泣き叫びながらトビーの小さな背中を押し付けてきた。
彼女の手は泥と煤で汚れ、異常なほどの力で震えていた。
マリアは避難民を誘導する炊き出し班のまとめ役としてゴルド村長に指名されており、パニックを起こした足の遅い老人たちを誘導するため、避難列の最後尾にとどまらざるを得なかった。
私自身、カイルが防衛体制を敷いた段階で、すでに地下貯蔵庫での負傷者たちの処置と貴重な調合薬の保護を任されていた。
そこへマリアからトビーの身を託され、私は躊躇なくトビーの細い手首を掴み、避難経路である小道を走り出した。
「トビー、私から離れるな。カイル!」
「おうよ!」
カイルは火塁の前に立ち、槍を並べた陣形を指示しながら、私に叫び返した。
「てめえはガキどもを連れて、一番頑丈な奥の地下へ引っ込んでろ! 外の化け物は、俺たちが一頭残らず叩き斬ってやる!」
「非合理的な大言壮語だな。だが、防衛線の維持は任せる」
小道を走る途中、共有地の方角から木材の崩壊音と、カイルたちの第一防衛線が突破される不穏な金属音が響いた。
変異獣たちの圧倒的な質量差に押され、騎士団は遅滞戦闘を行いながら、村長の家がある広場中央
――第二防衛線へと、じりじりと後退を余儀なくされていた。
さらに小道の途中で、畑を囲む生垣を突き破って、皮膚の剥がれ落ちた狼型の変異獣が二頭、泥を跳ね上げて躍り出てきた。彼らの口からは、あの馬の肉組織を融解させた、青緑色の泡が絶え間なく滴り落ちている。
私は背負っていた木箱から、昨夜の内に不測の事態に備えて用意しておいた、アンモニアと硫黄の揮発瓶を取り出し、地面に叩きつけた。
ガラスが砕け、鼻を刺すようなアンモニアの混合気霧が、獣たちの目の前で急速に拡散する。
変異獣たちの脳は破壊され狂暴化しているが、廃棄原液を感知するための嗅覚だけは極度に鋭敏化していた。
それゆえ、その嗅覚を直接灼く強烈な刺激に、獣たちは唯一機能している感覚を攪乱され、激しい反射的パニックを起こして頭を振って足を止めた。
その大混乱の隙に、私とトビーはマリアや後続の避難民の列から一時的にはぐれる形になりながらも、村長の家の重い石造りの扉へと先に滑り込んだ。
石造りの地下貯蔵庫は、すでに老人や女子供たちを中心に、最も脆弱な住民約三十名が優先収容されていた。残りの健常な大人たちは、広場中央の第二防衛線の内側で、鍬や槍を手にして防衛に協力していた。
冷たく、湿ったカビの匂いが漂う暗がりのなか、避難した村人たちが、互いに肩を寄せ合って震えている。
外周戦で、残された騎士の部下たちは一頭でも多くの変異獣を足止めするために完全に手が離せない極限状態だったが、この強固な石扉が私たちを守るはずだった。
「リアム殿、外は、外はどうなっているのだ……!」
村長ゴルドが、松明の微かな光の下で私に駆け寄ってきた。
「防護柵は決壊した。騎士団が迎撃しているが、多勢に無勢だ。この石扉を内側から閂で固定しろ。一歩も外へ出るな」
「そんな、騎士様たちが……」
ゴルドの言葉を遮るように、上階の石床を揺らす重い振動が伝わってきた。
村長の家の地下貯蔵庫の換気窓は、村の外周防壁に近い、傾斜地になった土手に直接露出している。
防護柵を飛び越えた変異獣から見れば、それは中から漏れる体温と声を感知しやすい、格好の侵入口だった。
火塁の激しい熱風と煙で、村長の家の外壁が急激に熱せられた後、近くを流れる冷たい水路の水が溢れて石壁を急冷した。
熱応力によって石の継ぎ目に亀裂が走り、鉄格子の埋め込み部分が粉砕されかけていた。
そこへ、変異によって骨格が異常に関節破壊を起こした小型の四足獣が、自らの肉体を抉り、骨を軋ませながら無理やりその隙間を抉じ開けて滑り込んできたのだ。
崩落した石粉の雲の中に現れたのは、皮膚のただれた狼型の変異獣だった。
その歪んだ眼球が、狭い空間に閉じ込められた獲物たちを値踏みするように、青緑色に光る。
避難した人々が一斉に、出口のない奥の壁へと逃げ惑う。
変異獣は崩れた石段の上に前脚をかけ、最も近くに立ち尽くしていたトビーに狙いを定めた。
知性を失った変異獣にとって、恐怖で硬直してまったく動かないトビーは、逃げ惑う大人たちよりも最も容易に仕留められる弱者として、その捕食反射の標的になったのだ。
トビーは恐怖で足を縛られたように、動くことができずに、ただ大きく見開いた瞳で迫り来る獣を見上げていた。
私を支配する最優先の論理行動
――「目の前の死を防ぐ」という思考が、自己保存本能という下位のプログラムを一瞬で上書きした。
気づいたときには、私の肉体は、トビーの前に滑り込んでいた。
私はトビーの小さな肩を掴み、奥の壁へと全力で突き飛ばした。
「逃げろ、トビー!」
直後、私の視界は、目の前に迫った獣の、引き裂かれた大口と、むせ返るような有機溶媒特有の甘い揮発臭に占拠された。
衝撃は、冷酷な破壊として私の肉体に直接もたらされた。
変異獣の強靭な顎が、私の右肩から鎖骨にかけて、鈍い肉の破砕音とともに深く噛み砕いた。
息が止まる。
だが、真の絶望は、その瞬間に傷口から私の体内へと一気に侵入してきた、高濃度の廃棄原液の浸透だった。
それは強塩基性の壊死液と、禁忌薬の代謝毒の混合物だった。
噛まれた右肩の筋肉と鎖骨周辺の組織が瞬時にドロドロの液状へと融解し、さらに、鎖骨下の太い静脈から直接侵入した高濃度の毒素が、血管内を急速に循環して心臓を経由し、一瞬で全身の細胞組織と心肺機能を強制暴走させる急激なショック状態を引き起こした。
喉の奥から、ただの空気の漏れるような音が漏れた。
体中の神経細胞が一斉に限界を超えた発火を起こし、脳へ信号を送り届ける。
全身の血液が急速に変性し、血管を循環していく感覚。肺の粘膜が完全にただれ、酸素の取り込みを拒絶して収縮する。
私は地面の冷たい石床へと倒れ込んだ。
視覚情報が、急速にモザイク状に欠落していく。
前世において、世界を滅ぼした万能薬の毒素が私の肉体に侵食した際も、私はまったく同じ、機能停止へと至るカウントダウンを自らの肉体で計測していた。
その最悪の経験と、薬学者としての異常なまでの自己観察機能が、ショック死の激痛を機能停止への純粋な観察データへと置き換え、私に秒単位の正確な計測を許していた。
「リアム先生ッ!」
トビーの叫び声が、まるで水の中に沈んだように、遠く、くぐもって聞こえる。
その時、地下へと続く石段の上から、複数の足音とともに鋭い叫びが響いた。
「開けろッ! 俺だ、カイルだ!」
村長の家の地下入口は、第二防衛線が敷かれた広場からわずか数十歩の距離にあり、後退する最中のカイルにとって、高窓が変異獣によって破られたのは目と鼻の先の出来事だった。
彼はリアムたちの危機を察知し、防衛指揮を部下に預けて自ら駆けつけたのだ。
ゴルド村長が慌てて閂を外し、扉が押し開けられる。
「てめえ、よくもッ! 上等だ、この化け物がァ!」
カイルの怒号。
長剣が肉を断ち切る鋭い音。そして、獣が地響きを立てて倒れる振動。
カイルが私の体を仰向けにさせ、その大きな手が、私の血濡れた胸を強く揺さぶった。
「おい、薬師! 目を開けろ! リアム! てめえ、こんなところで死ぬんじゃねえ!」
カイルの声は激しく震え、彼の持つ甲冑の鉄の冷たさが、私の指先に微かに触れた。
だが、私の脳は、すでに自らの死を冷徹なデータとして処理し終えていた。
主要臓器の急速な停止。
体温は急速に失われ、末梢神経の伝達はすでに途絶している。
心停止まで、一分以内。
この人体の機能停止プロセスは、完全に不可逆だ。
私は、外套のポケットからこぼれ落ち、石床の上を転がっていったツユクサの木彫りを、おぼつかない視線で追った。
その不器用な花びらが、青緑色の不気味なスペクトルに満たされた視界の中で、かすかに揺れている。
結局、私は誰も救えず、自らの肉体を救うことすらできずに、ここで終わるのか。
視界が、完全に青緑色の燐光に塗りつぶされていく。
激痛の波が、脳の知覚限界を超えて一瞬の静寂へと沈み込み、私の世界は、音もなく暗転した。
――そして、この世界を巻き戻すための、冷酷な代償の徴収が始まる。




