第五話 静かな夜
前夜、東の森の奥で蠢く無数の青緑色の眼光から逃れるようにして、カイルと強行偵察を打ち切り、ルマ村へと引き返した。
夜明け前にカイルは全住民へ避難命令を出し、共有地への収容を完了させていた。
それから丸一日、森の変異獣たちは不気味な沈黙を保ち、村の境界を侵犯する動きを見せていなかった。
こちらの説明を受けたカイルは、あの変異獣たちが脳を破壊されて統率を失っているものの、汚染源である禁忌薬廃棄物の原液に高度に依存しており、普段はその高濃度領域から離れることができないのだと判断していた。
そのため、前夜の偵察時も一定の距離以上は追ってこず、昼間の村の周辺は一時的な静寂に保たれていた。
その日の夕暮れ、村の共有地には、張り詰めた緊張感が漂っていた。
村人が能天気に騒いでいるわけではない。実際は、カイルたちの命令によって、村の全住民を防護柵から最も遠く、騎士たちが厳重に周囲を監視できる共有地の中央へ強制的に避難させていた。
村全体の士気の崩壊を防ぐため、村長ゴルドの差配によって、限られた備蓄である塩漬け肉と薄いスープの配給が行われているに過ぎない。
実質的な避難キャンプの光景だった。
騎士たちは防護柵の全周に厳重な篝火を焚き、完全武装のまま交代制で夜間哨戒を続けている。
カイルもまた、その指揮を執りつつ、避難させている住民たちの動揺を抑えるようにして、共有地の端にたたずんでいた。
「おい、こんなところで何をしてやがる」
焚き火の爆ぜる音に混じって、カイルの声が届いた。
彼は金属製の大型ジョッキを片手に持ち、炎の揺らめきに胸甲を赤く染めながら、そばへ歩み寄ってきた。
「調合台の整理を一時的に中断して、避難住民の健康状態を観察している。呼吸不全の兆候を示す者がいないか確認するためだ」
「へえ、冷たいねえ。村長も、村の連中も、てめえに感謝を伝えたくてうずうずしてるぜ」
カイルは隣に並び、手にしたジョッキを突き出してきた。
中には、配給用の薄いハーブスープが入っている。
彼は鎧を纏ったままであり、軍人としての警戒を一切解いてはいなかった。
このスープは、まだ汚染の影響を受けていない最上流の予備井戸から、騎士団が用意した呈色試薬による簡易水質検査を経て、安全を確認した上で汲み上げた水で煮られたものだ。
その陰性結果のデータを確認したからこそ、ジョッキを受け取った。
「水分は体温を維持するのに効率的だ。ありがたく受け取っておく」
スープを口に含んだ。薄塩の、荒削りな滋味だけがある安価な液体が喉を通り抜け、冷えた胃を静かに温める。
「……てめえは、本当に変わった奴だな、リアム」
カイルは火の粉が舞い上がる夜空を見上げ、ぽつりと呟いた。
その声は、哨戒部隊への指揮を執る合間の、きわめて静かな温度を帯びていた。
「どこがだ」
「何でもかんでも数字や理屈で割り切ろうとする。命を救うのも、ただの実験データのためだと言い張る。だがな、俺にはてめえが、誰よりも必死にこの村の連中を死なせないように立ち回っているように見えるぜ。そいつは、理屈だけでできることじゃねえ」
「見誤っている。生体が機能停止に至るプロセスを観察することは、薬学者にとって極めて不愉快な不具合を目の当たりにするようなものだ。デバッグ作業に過ぎない。感情の介入する余地はない」
「デバッグ作業? 何だそりゃ、またわけの分からん言葉を使うな。だが、言葉はどうあれ、てめえがこの村にいてくれて、俺は助かったよ」
カイルは軽く苦笑を交えてそう言うと、ジョッキの中身を飲み干した。
その時、焚き火の向こうから、小さな影が駆けてきた。
トビーだ。その後ろから、マリアがすまなそうな顔をして付いてくる。
「先生!」
トビーは目の前に立ち、背中に隠していた小さな木彫りの塊を差し出してきた。
それは、不器用な刃物の跡が残る、ツユクサの花を模した小さな彫刻だった。
「これ、お礼。避難場所にバルトおじさんが持ち込んでいた端材を借りて、お母さんの目の前の焚き火のところで削ったんだ。先生、いつも薬草を整理するときに、引き出しに目印がなくて困ってたでしょう?
これを置いておけば、ツユクサの場所がすぐわかるよ!」
トビーの差し出す歪な木彫りを見つめた。
ツユクサを象った木彫りから、生木特有の青臭い香りが、夜風に乗って鼻腔を掠める。
カイルの放つ鉄錆の気配や、避難キャンプの喧騒に囲まれた現在の脳は、無意識の戦闘体制
――高度な自衛警戒状態に置かれていた。
それゆえ、その香りは認知システムの外層に留まり、深い内省を誘発するには至らなかった。
木彫り一個で薬草の保管スペースの調湿など非科学的極まりないが、引き出しの目印としてなら合格基準に達している。
利用価値はある。
そう、自らの内で言い訳を構築してから、それを受け取った。
「私の調合台における、ツユクサの保管場所を示すインデックスとして、十分に機能する。利用させてもらう」
「うん! 先生、使ってね!」
トビーは嬉しそうに笑い、マリアの裾を引いて、再び共有地の中央へと戻っていった。
手の中に残された彫刻は、少年の体温でほんのりと暖かかった。静かに外套のポケットに収めた。
「素直に嬉しいって言えばいいのによ。てめえのそういう偏屈なところ、嫌いじゃねえぜ」
カイルが肩を叩き、静かに笑った。
ジョッキをカイルに返し、踵を返した。
「夜間哨戒のシフトに手落ちがないか、十分に確認しておくことだ。私は小屋へ戻る」
「分かってるよ。次の交代時間だ、俺も持ち場に戻る」
カイルは引き締まった表情に戻り、長剣の柄に手を置いて、そのまま外周の防護柵の方角へと歩み去っていった。
*
小屋に戻り、扉を閉めると、共有地の緊張感が一気に遠のいた。
室内には、乾燥させた薬草の乾いた匂いと、自家蒸留したアルコールの揮発臭が静かに満ちている。
作業台の引き出しを開け、ツユクサの木彫りを取り出してしまおうとした。
他者の干渉が完全に遮断された静寂の空間。
その瞬間、生木特有の青臭い香りが、再び鼻腔を満たした。同時に、作業台の上で、手が滑らせた空のガラス瓶がチリ、と硬質な音を立てて互いに擦れ合う。
外界の刺激が消失し、香りと、あの清潔な白磁の研究室と酷似した「硝子の擦れ合う高周波の摩擦音」が完全に重なり合った瞬間、防衛していた脳の奥底に格納されていたトリガーが引かれた。
――視界が一瞬、あの青い光に支配される。
すべての病を終わらせるはずだった完璧な調合。
それが、結果として人々の生を腐食させ、破滅を招いた。
自らの知識を誇り、技術を信じていた。
その結果が、あの無数の瓦礫と、溶解していく人々の絶叫だった。
無意識に、右手の指先で台の上の空のガラス瓶を数え始めていた。
一つ、二つ、三つ、四つ。
数を数える。ただ規則的な数字と硬質なガラスの手触りだけを認識する。
それだけで、暴走しかけた脳は現在へと引き戻される。
今、あの破滅の再現である禁忌薬の影と向き合っている。
そして、村人たちの無防備な信頼を受け取っている。
やっていることは、かつての罪に対する、単なる自己満足に過ぎないのではないか。
いつか、彼らからすべてが奪われるその瞬間が訪れると知りながら、泥の沈没船の浸水を一時的に遅らせているだけではないのか。
「……無駄な思考だ」
独白し、指先でガラス瓶を数えるのを止めた。
作業台の引き出しにツユクサの木彫りを収める。
その感触は、すでにポケットの中で冷え切っていた。
その時、小屋の隙間から、ひときわ冷たい風が吹き込んできた。
風の音に交じって、外界の空気に、物理的な変化が生じているのを感じ取った。
顔を上げ、窓の外に視線を向けた。
共有地の中央に集まった村人たちの話し声が、完全に消え失せていた。
だが、何かが決定的に、狂っている。
静かすぎるのだ。
いつもなら、遠くの森から時折不規則に響いていた、あの地鳴りのような唸り声が、完全に消え失せていた。
ただの野生動物だけでなく、あの変異した捕食者たちまでもが、一切の音を立てていない。
同時に、鼻腔を、あの特有のエーテル臭が突いた。
東の森の上流にある廃棄プラントの貯留槽から流出した大量の原液が、ついに村を囲む低地や水路の全域へと一気に流れ込み始めた可能性が高い。
水面から、極めて揮発性の高いエーテルガスが気化し、湿った夜風に乗って、急速にその濃度を増しているのだ。
そもそも禁忌薬の製造プロセスにおいて、有効成分の精製には高度に可燃性のある有機溶媒(エーテル系化合物)が過剰に用いられている。
高濃度の原液が流出し、気化しているということは、単なる毒性被害以上の致命的な危機を意味していた。
このガスは空気より重く、共有地の低地へと確実に滞留していく。
このまま対流が弱まれば、容易に爆発濃度へ達する危険がある。
共有地で燃え盛る焚き火や外周の篝火が一瞬にして、村全体を吹き飛ばす火種となりかねない。
即座に小屋から外へ飛び出し、共有地の中央へと叫んだ。
「カイル! すべての篝火と焚き火を今すぐ消せ! 大気中に揮発性のエーテルガスが滞留している。わずかな火花でも引火すれば、この低地一帯がバックドラフトを起こして村ごと吹き飛ぶぞ。変異獣を防ぐにしても、火を使った防衛は自殺行為だ。別の手段で足を止める。説明は後だ、今すぐ消せ!」
カイルは尋常ではない剣幕に、一秒の躊躇も挟まなかった。
「消火しろッ! 今すぐ土をかけろッ!」
鋭い怒号が共有地に響き渡り、騎士や村人たちは恐怖を覚えて慌てて焚き火や篝火を砂と泥で埋め立て始めた。最低限の遮光ランタンだけを残し、高所の篝火や剥き出しの焚き火がすべて急速に消火・遮蔽されていく。
共有地は一瞬にして、一切の光を持たない「完全な闇」へと沈下した。
その漆黒の闇の中で、空を見上げた。
雲の切れ間から覗く月光が、大気中を漂う微粒子に乱反射していた。
それは、かつて私が研究した、不揮発性の重金属微粒子(液薬に含まれる薬物のエアロゾル)が、水蒸気とともに空気中に巻き上げられ、それ自体が月光を浴びて淡い青緑色の蛍光を放っているのだ。
地表付近に滞留する可燃性揮発ガスとは異なり、この不揮発性微粒子は上空の湿った水蒸気層に付着し、不気味な青緑色の薄膜となって天空を覆い始めていた。
灰色だったはずの夜空が、まるで禁忌薬の廃液のように、濁った燐光を放って、不気味な色彩へと染まっていく。
そして、その青緑の月光に照らされ、完全な闇に包まれた村の防護柵のすぐ外側――。
汚染水が村の周囲まで到達したことで、彼らを縛っていた高濃度領域そのものが村を包む低地まで拡大したのだ。自らの依存物に従うようにして、水路を伝って村の目と鼻の先まで音もなく進出してきていた変異獣たちの、青緑色に光る無数の眼光が、私たちを包囲するようにして、漆黒の闇の奥から一斉に浮かび上がってきた。
嵐の前の静けさは、最悪の形で決壊しようとしていた。




