第四話 蠢く影
見張りの怒号が夜気を震わせてから、数分後。共有地の東端にある防護柵へ駆けつけたとき、すでに騎士団の面々が抜刀した状態で、無残な死体を囲んでいた。一連の混乱は、彼らの初動の速さによって、すでに収まりつつあった。
引き裂かれていたのは、防護柵のすぐ内側、頑丈な丸太に繋がれていた一頭の駄馬だった。 村で農作業や運搬に使われていた、大人しい老馬だ。
血の温もりがまだ残る死体の傍らに、カイルが渋い顔をして立っていた。その剣先からは、どろりとした赤黒い液体が滴り、地面に吸い込まれていく。
「チッ、手遅れだった。見張りが気づいたときには、影のような奴が馬の首に食らいついて、そのまま防護柵を飛び越えて森へ消えた。……信じられねえ跳躍力だ」
「カイル百人隊長、そこをどけ」
木箱から自家蒸留した粗製アルコールで消毒した革製の手袋とピンセットを取り出し、跪いて死体の傷口を検分した。素手で触れるリスクを避けるためだ。
馬の組織は、単に牙で裂かれたというよりは、強塩基性の物質を直接注入されたように、肉組織が急速に変性して融解を起こしているような、不自然な痕跡を残していた。
脂肪分が白濁した液となってドロドロに溶け崩れている。
傷口の縁からは、ジュクジュクと泡を吹く異様な反応とともに、揮発性アルカリに特有の、鼻を灼くツンとした臭いが漂っている。
禁忌薬が自壊する際と同じ揮発臭だ。
「噛み傷の周辺組織が、急速に化学的な融解を起こしている。ただの捕食行動ではない。襲撃者はその口腔内に高濃度の汚染物質そのものを分泌液として滞留させ、それが牙を通じて直接獲物の肉体へと侵入したのだろう。体液や分泌液のすべてが、あの廃棄原液そのものに変質している可能性がある」
「何だって? 毒だと?」
「この馬の肉は使い物にならない。すぐに焼却処分しろ。他の家畜や村人が傷口に触れれば、深刻な接触汚染を引き起こす」
カイルは言葉に不審な顔を向けたが、部下に
「おい、言われた通りにしろ。この馬をすぐに燃やせ」
と指示を出した。彼は直情的な男だが、実戦における衛生管理の重要性は肌で理解しているのだろう。
*
馬が襲撃されてから、わずか六時間後。夜間は危険が大きすぎると判断し、夜明けを待って、東の森の境界線を越えた。
本来なら、本隊への応援要請や追加装備の調達という防衛手順を踏むべき局面だ。
しかし、カイルたちに課されているのは、アルダーク伯爵からの「競合派閥の非正規禁忌薬密輸・密造ルートの極秘調査」という、公にできない政治的任務だった。
下手に大々的な増援を要請すれば、情報が他派閥に漏洩するか、神殿に証拠を横取りされるリスクがある。
カイルは昨夜の内に見張りを倍増させ、防護柵の補強を終えると、本格的な戦闘を避け、まずは敵の移動ルートと汚染源の規模を特定する「強行偵察」に限定するという現実的な軍事的決断を下した。
私は、以前トビーが採取してきたツユクサから、余分な不純物をあらかじめ濾過・精製しておいた数種類の簡易検知試薬のボトルを木箱に詰めた。
いくつかのガラス試験管や携帯用の小さな真鍮製の乳鉢とともにそれらを抱え、カイルが指揮する調査隊へ同行した。
前方には、長剣を抜いて周囲を警戒するカイル。そしてその後方には、一定の距離を置いて周囲を哨戒している二名の精鋭騎士が従っていた。
カイルは私への猜疑を解いていない。容疑者である私を部下の監視下に置き、前方の盾として扱いながら、同時にその知識を利用する。
合理的で、隙のない実戦的な配置だった。
*
森の中に一歩足を踏み入れると、外界とは明らかに大気の重さが異なっていた。
肌にまとわりつく、重く湿った空気。木の葉からは灰色を帯びた露が滴り、地面の腐葉土からは、薬品の焦げたような臭気が立ち上っている。
そして、トビーの言った通り、鳥のさえずりも、羽虫の羽音すら聞こえなかった。ただ、ブーツが濡れた泥を踏みしめる音だけが、不気味なほど鮮明に響く。
「てめえ、本当についてくる気か」
カイルが前方を凝視したまま、背中越しに低い声で話しかけてきた。
後方の騎士たちにも聞こえぬほどの声量だ。
「手伝ってやると言ったはずだ。この辺りの植生と、土壌に含まれる成分に最も詳しいのは私だ。戦力にはならないが、道案内としては最適だろう」
「フン。もし怪物が目の前に現れたら、てめえを盾にするからな」
「最も適した戦術だな。戦力価値の低い人間を切り捨てるのは、部隊の生存率を高める。異論はない」
カイルは呆れたように首を振ったが、その歩幅は、私が遅れないように僅かに調整されていた。
森の奥へ進むにつれ、地面の様子が奇妙に変色していった。
立ち枯れた大木の根元や、岩の隙間から、どろりとした青緑色の粘性液体が染み出している。
足を止め、その液体の前で屈んだ。
木箱から一本のガラス試験管を取り出し、粘性液体のサンプルを採取する。
「おい、薬師。これがあの『光る水たまり』の正体か?」
「その可能性が極めて高い。これは、禁忌薬の調合プロセスで生じる、高濃度の重金属や有機アルカリを含む廃棄結晶が、酸性の雨水によって液化したものだ。この数日、村に降っていたあの肌をピリピリと刺すような奇妙な雨――酸を含んだ雨水によって、地中の毒素が急速に溶け出したのだろう。これほどの量が地表に露出しているということは、上流に小規模な密造設備か、あるいはその廃棄プラントのようなものが存在する可能性が高い。
おそらく、上流のプラントにある廃棄物の一次貯留槽か、それに類する排液の堰が、何らかの原因で決壊し、地表に流出し始めた。普段は地中の泥や落ち葉に遮られ、一部がじわじわと地下水に染み出す程度だったのだろう。だから村への被害はごく低濃度で済んでいた。……カイル、上だ。足元ではない」
警告した瞬間、頭上の樹冠から、濡れた肉体が落下してくるような鈍い音が響いた。
地面の泥を跳ね上げて着地したのは、皮膚が半分崩落し、剥き出しの赤黒い筋肉が蠢く、異形の四足獣だった。
元は野生の猪だったのだろう。
だが、その頭部は肥大化し、口からはあの馬の死体を引き裂いたときと同じ、青緑色の泡が絶え間なく滴り落ちている。
変異によって異常に発達した前脚の鉤爪を、大木の樹皮に深く食い込ませて樹上に潜んでいたのだ。
脳を破壊され狂暴化しながらも、野生動物が持つ捕食の本能
――音を立てずに高所から奇襲するという「狩りの反射」だけは、異常なアドレナリン分泌によって鋭敏化していた。
「下がってろ、薬師!」
後方の二名の騎士が瞬時に防衛線を形成するより早く、カイルが鋭い踏み込みと共に長剣を薙ぎ払った。
実戦訓練に裏打ちされた無駄のない軌道。
鋼刃が吸い込まれるように獣の脇腹を深く裂き、青黒い体液が飛び散る。
だが、獣は悲鳴すら上げなかった。
通常の野生動物であれば、内臓を裂かれれば即座に戦闘不能になる。
しかしその変異獣は、裂かれた脇腹から体液を流しながら、何事もなかったかのように再び低い姿勢を取った。
「チッ、手応えがねえ! 痛くねえってのか!」
「痛覚が極端に鈍化、あるいは消失している! だが、反射弓や小脳の運動制御システムは生きている! 脳を侵食した汚染物質が、その肉体を異常な興奮状態に置き続け、限界を超えた運動を死ぬまで止めさせないのだ。動きを止めるには、四肢の腱を直接断ち切るか、運動中枢である頚椎の根元を破壊しろ!」
カイルの目が、一瞬で鋭く細まった。極極限状態での、身体感覚のみに依拠した反射。
後方の騎士たちが変異獣の側面を牽制する中、カイルは獣の突進を、最小限の歩法で回避した。
すれ違いざま、カイルの長剣から風切音が二度、聞こえた。
獣の右前脚と左後脚の腱が正確に断ち切られ、巨体がバランスを崩して泥の上に倒れ込む。激しくのたうち回る獣の頚椎の根元に、カイルは体重を乗せた一撃を迷いなく突き立てた。
ぐじゅり、と鈍い音がして、獣の動きが完全に停止した。
カイルは剣を引き抜き、荒い息を吐きながら、その場に片膝をついた。
緊迫した実戦の緊張から解放された瞬間、彼の顔から、徐々に血の気が失われていく。
剣身を拭う彼の指先が、微かに震えていた。
「……てめえのアドバイスがなきゃ、無駄に体力を使うところだった。上等だ、薬師。てめえの観察眼、確かに役に立つ」
彼はそう言って私を見上げたが、その瞳には、今しがた撃退した魔物への恐怖ではなく、もっと昏く重い疑念が宿っていた。
「……俺たちは、何を追わされているんだ。これほど異様な化け物を生み出す毒を、帝都の奴らは……配給だの、利権だのと呼んで奪い合っているのか」
「私はただ、生体の機能的弱点を指摘しただけだ。実際にそれを正確に断ち切ったのは、あなたの技術だ」
私は彼を慰めるような言葉をかけず、木箱から昨夜準備した、ツユクサの青い花弁から抽出した精製液のボトルを取り出した。
手袋をした手のまま、慎重に変異獣の傷口からピンセットを用いて青緑色の体液を空の試験管に採取し、そこへ精製液を数滴、滴下する。
試験管を軽く振ると、青緑色の液は特有のエーテル臭を放ちながら、私の想定通りの確実な塩基性(アルカリ性)反応を示し、一瞬でどす黒い紫へと変色した。
帝国薬学においても古くから、ある種のツユクサの抽出液はアルカリを検知するインジケーターとして知られているが、この目の前の急激な強塩基(高pH)反応こそが、何よりの証拠だった。
「……やはりな。すべてに論理的な因果が通る」
「おい、何が分かった」
カイルが剣の柄を握り重しながら、私の手元を覗き込んできた。
後方の二名の騎士も、一定の距離を保ったままこちらを注視している。
「カイル、これまで村で流行っていた『原因不明の熱病』の真因が判明した。水が汚れている、その汚染源がこの物質だ」
「熱病の真因だと? だが、あの熱病はただの微熱や下痢だ。この毒を飲んだら、この化け物みたいに中身が溶けちまうはずだろう」
「濃度の違いだ。この変異獣は、上流から露出した高濃度の未希釈原液を、直に多量摂取したために、急性の全身壊死と代謝の暴走を引き起こした。だが、ルマ村の水源に混入していたのは、大量の河川水によって数万倍に薄められた超低濃度の汚染水だ。村人たちはそれを数ヶ月にわたって摂取し続けた。
結果として、胃腸の軽微な慢性炎症だけでなく、就寝時、胃から逆流した胃酸とともに揮発性の毒素ガスが気管支へと吸い込まれ、肺粘膜をただれさせて急性の呼吸不全を引き起こしていたのだ。そこに二次的な細菌感染が合併することで、高熱と呼吸困難を伴う肺炎を発症する。これが、熱病の正体だ。トビーの症例もまさにこれだ。私が抗炎症剤と抗菌生薬を併用したのは、化学的傷害と細菌感染の二重の病理に対してアプローチしていたからだ」
人々を殺していた疫病と、この森に徘徊する狂暴な魔物は、すべて同じ「禁忌薬の廃棄物」という共通の根から生じていた。
「この汚染源を断ち切らなければ、ルマ村も、あなた方の部隊も、いずれこの森の変異獣に食い殺されるか、あるいは毒水によって全滅する。それが現実だ」
立ち上がり、森のさらに奥、青緑色の光がより濃く漂う方角を見つめた。
夜が近づいていた。樹幹の隙間から、まるで霧のようにかすかに漏れ出す、青緑色の不自然な光の粒子 そして、その闇の奥深くから、無数の木の葉が不自然に擦れ合う音。
太い幹の影から、こちらの動きを値踏みするように青緑色に光る複数の眼光が、じわじわと現れ始めていた。




