第三話 客人
蹄の音が村の共有地で止まり、甲冑が激しく擦れ合う音が響いた。
村人たちが家々の窓や扉の隙間から、怯えたような視線を外へ送っている。
この最果ての辺境において、武装した帝国騎士の一団が訪れることは、決して歓迎すべき訪問ではない。
彼らは常に、徴税、徴兵、あるいは神殿に逆らった罪人の連行という、奪う役割だけを担ってやってくるからだ。
小屋の窓から、彼らの様子を静かに観察していた。
日没直前の薄闇の中に現れたのは、十数名の精鋭からなる騎兵。
帝国正規軍第三部隊「銀鷲騎士団」
――制度上は帝国の公的な正規軍だが、その維持費と実質的な指揮権は配給の差配を握るアルダーク家が丸抱えしており、実質的には宮廷貴族の私兵として機能している部隊だ。
先頭の馬から降りた指揮官は、兜を外して小脇に抱えた。短く刈り込んだ赤茶色の髪が、西日に照らされて微かに燻ぶったように見える。
男の胸当ての隅には、銀色の鷲の紋章のさらに下、鋭い爪に三対の薬瓶を握らせた副紋が刻印されていた。
帝都において、その薬瓶三対の副紋はアルダーク家だけが使用を許されていた。
かつて帝都のヴォルテ家で宮廷薬学の研究に関わっていた頃、彼らの利権構造と、その裏にある複雑な政治的背景を幾度も目にしてきた。
だが、その素性は誰にも明かしてはならない。本名はリアム・ヴォルテ。かつての家名は、この最果ての地で完全に捨て去ったはずだった。
やがて、ゴルド村長が腰を低くしながら彼らの前に進み出た。
指揮官は腰の剣に手をかけたまま、低く唸るような声で村長を睨みつけた。
「おい、とぼけるなよ。この村の熱病が急に収まりつつあるのはどういうわけだ? 領主の許可なく、神殿が独占する『正規の禁忌薬』を闇ルートで仕入れたな?
あるいは、この中に密輸組織の足がかりがあるのか」
「め、滅相もございません! 薬など買う金がどこに……!」
「なら、なぜ特効薬もなしに病が消える。……そこの貧相な薬師。てめえ、何を使って病を抑え込んだ?」
指揮官の視線がこちらを射抜く。
ゴルドは釈明のために、怯えながら私の小屋を指し示した。
彼らにとって、禁忌薬の関与しない「病の治癒」などあり得ず、ゆえに非正規の薬師こそが密売組織の有力な容疑者に見えていた。
男は顎をしゃくり、数名の部下に馬の引き手を任せると、硬いブーツの足音を響かせてこちらへと歩き始めた。
避ける気はなかった。
作業台に戻り、以前トビーの往診時にも使用した、木箱に収まる携帯用の小さな真鍮製の乳鉢を収め、調合用の生薬をガラス瓶に移す作業を再開した。
ここでただの農民のように怯えて平伏せば、不審者として問答無用で連行される。身を守るためには、彼らにとって下手に触れば政治的な火の粉を浴びる「中央の学術にアクセスできる、厄介な背景を持つ専門家」として自分を位置づけ、対等な交渉の土台を構築するしかなかった。
自らの生存確率を最適化するための、計算されたパフォーマンスだ。
数秒後、乱暴に木扉が押し開けられた。
夕暮れの風と共に、鉄錆と、馬の脂、そして彼らが吸ってきたであろう乾いた街道の砂埃の匂いが狭い室内に流れ込んでくる。
「てめえが、この村で勝手に薬を配り歩いてるっていう不審者か」
開口一番、指揮官の低く、押し殺した声が室内の空気を震わせた。
男は小屋の低い天井に頭が届きそうなほどの体躯で、入り口に立ちはだかっていた。腰の長剣の柄に無造作に右手を置いたまま、鋭い眼光で部屋の隅々を見回している。
「不審者ではない。ルマ村に正式に登録されている薬師だ。本名はリアム」
「神殿の認可も受けてねえ流れ者が、薬師を名乗るか。上等だ。てめえ、禁忌薬の密売人だな。その調合台の下に隠してあるブツを全部吐き出せ」
「そんなものはない。この寂れた辺境で神殿の目を盗んで禁忌薬を密売するなど、利益に対してリスクが大きすぎる。私はただ、その辺の畑に生えている野草をすり潰して、村人たちに施しているだけだ」
男は鼻で笑い、大股で作業台へと近づいてきた。甲冑の金具が金属音を立てて鳴る。
調合台の上に並ぶ土鍋や蒸留管、ガラス瓶を太い指先で手荒に弾いた。瓶同士がカチカチと高い音を立てて揺れる。
「野草だと?
神殿の薬も使わずに、熱病で死にかけたガキを立たせたって聞いたぞ。ただの草の汁でそんな奇跡が起きるわけがねえ。何か細工をしたはずだ。神殿の倉庫から盗み出した禁忌薬の原液でも混ぜたんじゃねえのか、あぁ?」
詰め寄る男の息は熱く、鉄の胸当てからは戦場特有の張り詰めた温度が伝わってくる。
胸の紋章に視線を落とした。
「アルダーク伯爵の刻印か。……少々急ぎすぎではないか」
「てめえ、何だと?」
「禁忌薬など、治療において盗み出す価値はないと言っている。あれはその場しのぎの対症療法に過ぎない。適切な水分と塩分の補正を行えば、人体はあのような代物に頼らずとも自律的に回復する。私とは薬学の前提が異なっているようだ」
一瞬、小屋の中の空気が完全に凍りついた。
男の目が驚愕に見開かれ、次いで、長剣を握る右手の拳に青筋が浮かび上がる。
帝国の富の源泉である禁忌薬を「その場しのぎ」と言い切る人間など、この辺境にはおろか、帝都の宮廷にすら存在しない。
私の発言は、彼にとってただの不敬罪を通り越し、世界そのものへの侮辱に聞こえたはずだ。
「……てめえ、口の利き方に気をつけろ」
男の声から、一時的な怒りが消え、本物の殺気が立ち上った。
「俺は帝国騎士団、第三部隊百人隊長のカイル・ドラグーンだ。今ここでてめえを捕縛して、禁忌薬の密売人として帝都へ送ることだってできるんだぞ」
「カイル・ドラグーン百人隊長」
視線をカイルの目へと戻した。温度を完全に排除した、乾いた視線を。
カイルは剣の柄に置いた手をぴたりと止め、値踏みするように睨みつけた。
沈黙が数秒間続き、カイルの呼吸が微かに変化する。彼は直情的な男だが、百人隊長という実務指揮官としての冷静な判断力を持っている。無知な密売人であれば即座に斬り捨てていたはずだが、こちらに「中央の学術や宮廷の内情に通じる、何らかの政治的背景がある」と察したことで、彼の冷徹な判断基準が働いていた。殺し損ねて政治的問題に発展するリスクと、目の前の薬師の利用価値を、自らの内で天秤にかけていた。
「捕縛する前に、ご自身の足元を見直すことをお勧めする。百人隊長ともあろう者が、本来の配下をすべて連れず、わずか十数名の精鋭だけを率いて隠密裏に動いている。それが何より、今回の任務が表沙汰にできない隠密調査であることの証左ではないか。馬を十数頭も走らせ、こんな辺境の小さな村へ直行してきた。その任務の本質は、魔物の退治でも、私のような無名な薬師の検挙でもないはずだ」
「何が言いたい」
「禁忌薬の配給バランスが揺らいでいるのだろう。アルダーク家は、禁忌薬の配給差配を委託されている中枢だ。そのお抱え騎士団がわざわざ辺境の村にこれだけの精鋭を直接送り込んできた。
三日前の徴税官の来訪と、本日のあなた方の到着は完全に表裏一体だ。アルダーク伯爵が禁忌薬の不法な密輸を疑ってあなた方を差し向ける際、その露払いとして先に徴税官を巡回させ、村の備蓄や不審な薬師の存在をあぶり出させた。村長の口から出た『配給削減』という神殿の脅しは、あなた方の来訪によって村人に強引にヤミ禁忌薬を吐き出させるための、アルダーク派による周到な心理的包囲網だったのではないか。つまり、あなた方の派遣は、競合派閥の密輸ルートを潰すための極秘調査が本命だ。違うか?」
カイルの身体が、かすかに強張った。
帝都の派閥構造と、彼らの具体的な政治的思惑を一瞬で見抜いたこと。
その事実そのものが、目の前の薬師がただの農民ではない証拠となり、彼の軍人としての警戒心を跳ね上げていた。
「……てめえ、本当にただの薬師か?」
カイルの声は低く、深い猜疑に満ちていた。
「ただの薬師だ。だが、宮廷の浅薄な綱引きに巻き込まれて、私の静かな研究環境を荒らされるのは、きわめて不快だ。あなた方がここで禁忌薬の神話に縋っている間にも、村の外では別の、より深刻な現実が動いている」
「別の現実だと?」
「村の東の森だ。夜になれば、あの樹冠の隙間から、禁忌薬が自己崩壊する際に見せる固有のスペクトルと同じ、青緑色の光が漏れ出している。中央の学術院に残されている精密な光学記録を紐解けば、私の言っていることが戯言ではないと理解できるはずだ。あの森から放出されている光は、その崩壊スペクトルと一致している」
万能薬の基本構造を崩さずにその触媒比率だけを歪めた劣化コピー(禁忌薬)は、自己崩壊を起こす際、万能薬が持つ固有のスペクトル(青緑色)の特定周波数を、そっくりそのまま引き継いで放出する。
不完全な劣化コピーだからこそ、本家と同じ崩壊のシグネチャを帯びているのだ。
かつて帝都のヴォルテ家で宮廷薬学を学んでいた頃、私はそのスペクトルを幾度も計測した。
もちろん、その本源がかつて世界を滅ぼした「万能薬」の崩壊プロセスそのものであることは、脳内の領域にのみ秘匿している。
「森の野生動物や虫の鳴き声は完全に消失し、不気味な静寂が支配している。あなた方の言う『治安維持』が本物なら、密輸ルートの妄想を追うより先に、あの森の異変を調査すべきではないのか」
カイルは鋭い視線で私を睨みつけたまま、しばらく言葉を失っていた。
実は彼らも、道中で森の気配がおかしいことには気づいていたはず。
すでに部下の偵察兵からも、東の森で不審な光の目撃例が上がっていたはずだ。
だが、第一命令である「密輸調査」に縛られるあまり、その確実な異変から目を逸らし、後回しにせざるを得ない葛藤を抱えているはずだった。
その痛い図星を、正確に突き刺した。
やがて、カイルは長剣の柄からゆっくりと手を離した。
「……上等だ」
カイルは低く吐き捨てるように言った。
「てめえが密売人かどうかは、俺がこの村に滞在してじっくり見極めてやる。もし一枚でも神殿の薬が隠してあるのを見つけたら、その時は本気で引きずり回してやるからな」
「証拠もないのに人を拘束するのは、軍のリソースの無駄遣いだ。賢明な判断だな」
「だがな、薬師。その森の異変ってやつが、もし俺たちの任務の妨げになるようなら……てめえにも手伝ってもらうぞ。この村で一番生薬の分布に詳しいのは、てめえのはずだ」
「私の調合の邪魔をしないことが前提だ」
「フン、調子のいい野郎だ」
カイルは踵を返し、今度は少しだけ静かに扉を開けて出ていった。
夕闇が完全に村を支配し始めていた。
カイル・ドラグーン。乱暴で直情的な軍人だが、その優先順位の根底には、上官への忠誠だけでなく、騎士としての実務的な判断力と、奇妙な義務感が残っている。
彼がこの村に留まることは、私の静寂を脅かすノイズではあるが、同時に、あの不気味な森の調査を進めるための強力な盾になり得る。
作業台に散らばった生薬を片付け、真鍮の薬瓶を指先で数えた。一つ、二つ、三つ。冷たい金属の手触りが、思考を冷静に引き留める。
「――敵襲ッ! 東の境界線からだッ!」
突如、外から見張りの騎士の、引き裂くような怒号が響起した。
甲冑の金属が激しく軋み合い、抜刀する音が共有地に波及していく。
直後、それに重なるようにして、悲痛な馬のいななきと、何かが現実的に引き裂かれるような鈍い音が響いた。
夜の静寂を切り裂く、新たなる驚異の幕開けだった。
これまでの予兆的な沈黙とは異なる、実体を持った何かが、ついに村の境界を侵犯したのだ。




