第二話 積み重なる信頼
トビーが肺炎の危機を脱してから、二週間の時間が流れた。
その間、ルマ村の空気は少しずつ、部分的な変化を見せ始めていた。トビーの回復劇を目の当たりにした母親のマリアが、指示した「水を沸騰させてから使う」という手順を近隣の数世帯に熱心に伝え、彼女たちはそれを忠実に守り続けた。
結果として、トビーの家と同じ水路の最下流を使用し、慢性的に下痢や微熱を訴えていた三つの世帯において、それまで日常的に発生していた消化器系の症状が綺麗に消失した。
因果関係はきわめて明白だ。水源に混入していた病原体の、最も基本的な汚染水の摂取経路を物理的に一つ遮断しただけに過ぎない。
当初は半信半疑だった村人たちも、トビーたちの劇的な回復と、その後も健康を維持している実績を目の当たりにし、少しずつ態度を変え始めていた。その限られた範囲においてのみ、病を「目に見えぬ呪い」としか捉えていなかった人々の間に、風変わりな薬師への関心が不気味な噂話となって伝播しつつあった。
朝の薄明かりの中、小屋の作業台に向かっていた。
木箱の中に並んだ生薬の残量を点検する。サリシンを含むヤナギの乾燥皮は残りわずかであり、ツユクサの貯蔵も底を突きかけていた。
この辺境において、前世由来の薬学理論は、常に「材料不足」という物理的制約にぶつかる。精製された抗生物質もなければ、滅菌された注射器もない。有効成分の抽出には、土鍋と安価なガラスの蒸留管を組み合わせて代用している。生薬の有効成分濃度は個体ごとに激しくばらつき、調合のたびに目視と嗅覚による危険な微調整を強いられた。
「先生、おはようございます!」
粗末な木扉が開かれ、トビーが背中に背負った竹籠を床に置いた。
中には、濡れた土の匂いをさせた新鮮な植物の根や葉が詰まっている。ツユクサなど、指示したありふれた野草だ。もちろん、危険な防護柵の近くには近づかせず、マリアが必ず付き添って周囲を警戒していることが、毎朝の採取を許す条件だった。
「村の畑の裏にあるあぜ道に、たくさん生えてました。指示された通り、村の防護柵の外側には一歩も出ていません」
「ツユクサと、それから……あっちに生えてた、葉っぱの裏が白いやつです。合ってますか?」
籠の中に手を差し入れ、植物を一つずつ手にとって検分した。
ツユクサのようなありふれた野草であっても、いざ調合に用いるためには、適切な洗浄と乾燥、さらには特定温度下での数日間の除湿処理という手間を要する。トビーが毎朝新鮮なものを持ってきてくれるからといって、調合台にある「乾燥処理済みのすぐに使える備蓄」の不足が即座に解決するわけではない。だが、彼を採取に走らせることで、マリアからの「薬礼」の体裁を整えつつ、簡単な生薬の備蓄を維持するには好都合だった。
「三割はただの雑草だ。特にこの鋸歯状の葉は有毒なアルカロイドを含む。混入させれば患者の心拍数を跳ね上げることになる」
「う……ごめんなさい」
「だが、ツユクサは正確だ。根の洗浄状態もいい。合格だ」
トビーの顔に安堵の色が広がる。
午後になると、小屋を訪れる者の足音がいくつか重なった。
「先生、ちょっと見てくれ……膝が痛くて、まともに歩けないんだ」
現れたのは、老木こりのバルトだった。腫れ上がった膝頭を、不安そうに指し示している。
関節を触診し、稼働域を確認する。長年の過酷な労働による軟骨の摩耗と、それに伴う滑液包炎。
「加齢と機械的な摩耗が原因だ。元の状態に戻すことはできない」
「そんな……仕事に行けなくなっちまう」
「痛みを一時的に麻痺させ、局所の炎症を抑える消炎の湿布を出す。だが、これは対症療法に過ぎない。痛みが消えたからと動けば、軟骨はさらに摩耗し、やがて完全に歩行不能になる。村長に事情を話し、一時的に若い者に仕事を代わってもらうように頼め。休養こそが唯一の治療だ」
処置を終えたバルトは、持参してきた乾燥した薪の一束を作業台の脇に置いた。それが彼の払える、精一杯の「代償」だった。
入れ替わりに鍛冶屋の妻ヘルガがやってきた。右手の指の付け根が赤黒く腫れ上がり、脈打つような激痛に顔を歪めている。作業中の刺し傷からの細菌感染。閉鎖空間に膿が滞留していた。
指関節の閉鎖空間に膿が滞留した状態を放置すれば、確実に周囲の組織の壊死や骨髄炎を誘発する。このまま何もしないリスクと、局所切開による排膿のリスクを天秤にかければ、選択の余地はなかった。もちろん、抗生物質のないこの環境での切開と洗浄のみの処置は、一歩間違えれば敗血症を誘発する重大な二次感染リスクを伴う。それでも、これが今採りうる最も確実な苦肉の策だった。
「切開する。感染を全身に広げないための処置だが、相応の痛みを伴う」
「はい……おねがいします」
真鍮の小刀の刃先を火で炙り、十分に消毒する。ヘルガの手首を固定し、最も皮膚が薄くなっている箇所へ、迷いなく刃先を数ミリ滑らせた。
膿が排出され、ヘルガが短い悲鳴を上げる。即座に、十分に沸騰させて無菌に近づけた水で創部を深く洗い流し、抗菌効果のある生薬を塗布して清潔な布で包んだ。
「その布は毎日取り替えろ。創部は絶対に乾燥させ、不潔な手で触るな。それと、明日もう一度見せに来い。傷がふさがるまでは毎日の経過観察が必要だ」
「ひ、ひい……わかりました、絶対に守ります」
彼女は顔を青くしながらも、お礼として持ってきた古いリネンの切れ端を数枚、静かに作業台に置いて帰っていった。包帯として再利用できるものだ。
バルトが残した薪と、ヘルガが置いた古布を冷淡な視線で検分した。
彼らが薬師を無償の救済者と勘違いしないこと。その最低限の社会的距離感を維持するために、何かしらの物資を置いていくよう求めていた。
トビーの治療は、この世界で初めてとなる貴重な調合理論の検証だったからこそ、あのデータそのものが法外な情報的対価として成立した。しかし、彼らの慢性疾患や一般的な感染傷の処置は、すでに検証が完了している既存の術式だ。検証価値のない日常の治療に対しては、彼ら自身の負担となる現物の対価を厳格に要求しなければ、ただの「施し」に堕してしまう。代償なき治療は、いつか彼らの「甘え」となって破綻する。代償を支払うことで初めて、人は治療という選択に責任を持つ。それが薬を扱う者が遵守すべき、最も基本的な原則だった。
夕刻近く、小屋の影が長く伸び始めた頃、普段とは異なる重々しい足音が近づいてきた。
現れたのは、ルマ村の村長ゴルドだった。
立派な髭を蓄えた老人は、普段の威厳を削ぎ落としたような、どこか焦燥の混ざった面持ちでたたずんでいた。この村へ来た当初、真っ先に「怪しいよそ者」として排斥しようとした男だ。
「……リアム殿」
ゴルドは重々しく口を開いた。
本名はリアム・ヴォルテ。宮廷薬学の研究者として与えられたかつての家名は完全に捨て、ここではただの「名もなき薬師リアム」として村に登録している。彼がそのファーストネームを呼ぶこと自体には何の不都合もない。かつての素性を完全に隠し通せていることの証明でもあった。
「村の者たちから話を聞いている。トビーの件だけでなく、バルトやヘルガの処置についても……。そして、マリアの周りの数世帯では、下痢をする者がいなくなったと」
「衛生環境を改善させた結果だ。因果が通れば病は去る。それだけだ」
「……実は、三日前に帝都からやってきた徴税官に、酷く脅されてな」
ゴルドは顔を歪め、声を低めた。
「疫病で納税者が減れば、次の秋の配給から、村に割り当てられる『禁忌薬』の優先枠を減らすと宣告されたのだ。神殿も宮廷も、辺境の貧民が何人死のうが関心はない。だが、税が減るのだけは許さんというわけだ。……悔しいが、このままでは村が潰れる」
老村長は帽子を脱ぎ、私に向かって頭を下げた。
「お願いだ。村全体の共有井戸と、川からの引き込み水路の検分を正式に依頼したい。そして、病が出た者の処置を、お主に任せたい。村長として、相応の報酬は約束する」
ゴルドが頭を下げたのは、薬師を心の底から信頼したからではない。帝国の過酷な徴税システムと、神殿の冷酷な切り捨てに追い詰められ、藁にもすがる思いでよそ者の不気味な技術に賭けるしかないと判断したからだ。
しかし、目の前の死を防ぐという絶対原則において、村全体の水質管理権を得ることは極めて好都合だった。
「二つ、条件がある。私の指示に一切の反論を挟まないこと。そして、私の許可なく、井戸や水路に薬や供物、その他一切の異物を投げ込まないこと。神頼みや呪術の類を私の領域に混入させるな」
「分かった。村の者には徹底させる」
「いいだろう。明日の朝から共有井戸の調査を始める」
ゴルドは安堵の表情を浮かべ、去っていった。
一人になった小屋の中で、小さく息を吐いた。 村人たちが寄せる無防備な信頼
――あるいは、結果に盲従するその姿勢は、極めて危うい動的平衡の上に成り立っている。彼らは調合理論を理解して従っているのではない。ただ「治った」という目の前の結果に縋っているだけだ。もし一度でも治療に失敗すれば、あるいは彼らのドグマに反する現象が起きれば、この「信頼」は瞬時に「敵意」へと転化する。
その脆さを、嫌というほど理解していた。だからこそ、彼らの向ける温かい視線に、一切の安らぎを感じることはできなかった。
その時だった。
遠く街道の方角から、規則的な蹄の音が響いてきた。十数頭の馬が、足並みを揃えて硬い土を蹴る音だ。それに混じって、甲冑の金具が擦れ合う微かな金属音が風に乗って届く。
小屋の窓から外を伺った。
日没直前の薄闇の中、村の入口に一団の騎兵が現れていた。彼らが纏う胸甲には、銀色の鷲を模した紋章が刻まれている。帝国正規軍第三部隊
――銀鷲騎士団。
先頭に立つ馬の上で、一人の若い男が手綱を引き絞っていた。引き締まった体躯に、鋭い眼光。帯剣した長剣の柄に置かれた手には、無駄な力が一切入っていない。
なぜ、この最果ての貧しい村に帝国軍がやってくるのか? 窓枠に手をかけながら、冷徹な計算をめぐらせた。
三日前の徴税官の来訪。そして本日の軍の到着。この二つが無関係に重なったと考えるのは不自然だ。
あの森を調査する部隊なのか。あるいは徴税官が要請した、治安維持のための護衛なのか。いずれにせよ、偶然の巡り合わせではない。
徴税官が減収をネタに禁忌薬の配給減少を脅し、その直後に騎士団が乗り込んでくる。これはただの偶然や脅迫ではない。帝都の政治的・経済的な都合
――禁忌薬の配給バランスをめぐる利権争いの一端が、この最果ての辺境の村へと具体的に波及し始めた証拠だ。
そして、トビーの語った、あの万能薬の崩壊スペクトルと同じ色を放つ森の光……それと彼らの不穏な動きが、内側で暗く結びついていた。もし宮廷の権力者たちが、あの光の正体を「禁忌薬」のさらに奥にあるものとして追っているのだとすれば、この騎士たちの来訪は、より巨大な因果の始まりに過ぎない。
男の視線が村を流れ、その途中で小屋の窓にも一瞬止まった。こちらの姿が網膜に映ったのか、相手の眉が僅かに動いたのが、遠目にもはっきりと分かった。
平穏だった村の空気に、明確な亀裂が走り始めていた。




