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第一話 名もなき薬師


 湿った空気が肺を圧迫する。


 ここ数日、ルマ村の空はずっと灰色を帯びていた。雲の隙間から差し込む光すら、どこか濁っている。

 手元で薬草の葉をすり潰した。大理石の乳鉢の中で、細い繊維が引きちぎられ、粘り気のある暗緑色の汁に変わっていく。

 鼻腔を突くのは、青臭い植物の匂いと、それを上回る腐敗の臭気だ。この辺境の村を囲む土壌は、すでに健全な代謝機能を失っている。

 乳棒を置いた。陶器の乾いた音が、静かな室内に響く。


 誰もが死にかけていた。理由は単純だ。水が汚れているからだ。

 だが、村の人間はその単純な因果関係を理解しようとしない。このエリュシオン帝国において、病とは「悪霊の呪い」か「神罰」、あるいは神殿の「禁忌薬」を摂取しないことによる生命力の枯渇と定義されているからだ。水の中に肉眼で見えない微小な病原体や毒素が存在し、それが粘膜を通じて内臓を侵食するという論理は、彼らの未開なドグマには存在しない。


 この世界に生を受け、都近郊の貧民街で泥を啜って育った身だ。十四歳になるまで、ただの平凡な子供だった。

 だが、ある日、神殿の禁忌薬を買う金がないというだけの理由で、目の前で幼い少年がなす術なく息絶えた瞬間、脳内に「前世」の全記憶と、かつて世界を破滅へと導いた禁忌の調合理論が、あの悍ましい光景とともに一気に蘇った。

 蘇った知識で貧民たちを密かに救い始めたが、それは神殿の禁忌薬独占を脅かす不穏な「異端」として宮廷の査察対象となり、都の監視網から逃れるようにしてこの最果ての村へ逃げ延びるしかなかった。素性を隠して薬師の真似事を始めてから、まだ数ヶ月しか経っていない。


 朝を迎え、目を覚ますたびに、また薬草を毟り、乳棒を握っている。目の前でシステム(人体)が不合理に機能停止していくのを見過ごすことは、本能が、あるいは薬学者としての悪癖がどうしても許さなかった。


「先生、トビーが……トビーの息が、また荒くなって……!」


 木製の扉が勢いよく叩かれ、隙間から走るようにして一人の女が駆け込んできた。マリア。この村で小作農を営む寡婦だ。

 無言で立ち上がり、猫背の身体を少し揺らしながら、作業机の上の薬瓶と、携帯用の小さな真鍮製の乳鉢を木箱に詰めた。説明を省き、ただ


「案内しろ」


とだけ短く告げて、彼女の先導に従う。


 外に出ると、大気はさらに湿っていた。

 耳を澄ませば、遠くの森から、時引いたように地鳴りのような唸り声が不規則に響く。野生動物のものではない。金属が軋むような不快な低周波だ。村人たちはそれを「山の神の怒り」と呼んで恐れているが、地中に溜まった汚染物質を吸い上げて狂暴化した生物の咆哮に過ぎない。

 マリアの家は、村の端にある朽ちかけた木造の小屋だった。屋根の隙間から差し込む灰色の光が、寝台に横たわる小さな身体を照らしている。


 トビー。八歳になる彼女の息子だ。


 少年は安物の毛布に包まれ、小刻みに震えていた。


 寝台の脇に膝をつき、観察を始めた。

 額に触れる。皮膚は熱を帯びて乾ききっていた。少年は苦しげに喉を鳴らし、肺の奥から搾り出すような、湿った空咳を繰り返している。呼吸数は毎分二十五回を超え、喉元からはケトーシス(急性代謝異常)の初期段階を疑わせる、かすかなアセトン臭が漂っていた。肺炎を起点として、体内の水分バランスが著しく崩れている可能性が高い。このまま放置すれば敗血症へと移行しかねない段階だった。


「先生、トビーは……助かるんでしょうか」


 マリアが背後で、祈るように両手を握りしめている。


 彼女の問いに直接答えず、トビーの胸の動きを注視した。呼吸のたびに、彼の胸が浅く波打っている。


「水を沸かせ」


「え……?」


「それも、ただ温めるのではない。泡が底から激しく湧き上がり、五分以上その状態を維持した水だ。それを一度沸騰させた清潔な布で濾せ。それと、この塩と、乾燥させたサトウキビの粉末を正確にこの比率で混ぜろ」


 木箱から、塩と糖をあらかじめ調合した小袋を取り出した。経口補水液の簡易処方だ。重篤な脱水状態にある肉体には、ただの水を飲ませても吸収されず、かえって電解質バランスを崩す。


「水を……沸かす? そんなことで, トビーの熱が下がるのですか? 神殿の禁忌薬でなければ、この病は治らないと、街の神官様が……」


 マリアの視線に、落胆と不信が混ざる。

 帝都の神殿が宮廷貴族と結託し、独占的に配給する「禁忌薬」。それは一瞬で病を消し去る奇跡の薬として信仰されているが、本質は使用者の寿命と生命力を前借りして強制的に免疫を活性化させるだけの、極めて粗悪な劣化コピー品だ。法外な価格で貧民を縛り付け、若くして老い衰えさせる搾取のシステム。


「無駄口を叩いている時間があるなら、火を起こした方がいい。合理的に考えて、そちらの方が生存確率は上がる」


 木箱から真鍮製の乳鉢を取り出し、ヤナギの皮をすり潰した粉末を中に入れた。解熱鎮痛成分サリシン。

 マリアが沸かした白湯の一部を少量、空の遮光瓶に注がせ、そこに粉末を落として強く振る。完全に溶解しきらない白濁したサリシンの懸濁液が、ボトルのガラス越しに揺れた。


 そこに、抗菌作用を持つ野生種の薬草から抽出した、暗緑色の濃縮液をガラスのピペットで吸い上げる。

 通常の風邪や軽い熱病であれば、この高濃度の抗菌抽出液と、サリシンの強酸性溶液を組み合わせる必要はない。しかし、トビーが感染しているのはおそらく普通の発熱病ではなく、この村の汚染に由来する特異な急性肺炎だ。

 前世の記憶が蘇ってから初めて行う、特定の有機アルカリと酸の複合調合。


 ピペットから、暗緑色の滴を遮光瓶へと落とした。


 混ざり合った瞬間、液体の極性が変化し、不自然なほど鮮烈な、澄んだ「青色」へと一瞬だけ変色した。


 その色を目にした瞬間、胃の底が凍りつく。


 ――視界が、その青に染まる。


 一滴の青い液体が、シリンダーの中で静かに震えていた。

 すべての病を駆逐するために私が生涯を捧げて構築した、完璧な調合。それが、私たちの開発実験におけるわずかな制御喪失によって暴走を始めた、あの集大成たる『万能薬』だった。

 次の瞬間、記憶は爆発的な光に塗りつぶされる。白磁の壁が剥がれ落ち、自らの設計した薬液によって、人々が肉体から崩壊していく人災の惨劇。救うために構築したはずの論理が、生存の土台そのものを腐食させ、世界を滅ぼした――。


 喉の奥が急激に乾いた。心拍数が跳ね上がり、呼吸が極端に浅くなる。


 無意識に、指先で木箱の中の小さなガラス瓶の丸い胴体をなぞり、数えていた。  一つ、二つ、三つ、四つ。

 数を数える。ただ規則的な数字と硬質なガラスの手触りだけを認識する。それだけで、暴走しかけた脳は現在へと引き戻された。

 ただの、過去の残像だ。あるいは、失われた前世の記憶の破片。深く息を吐き出し、調合を終えた。


「飲ませろ。少しずつ、喉に流し込むんだ」


 マリアが恐る恐る、調合液を、私が指示した沸騰水に溶かしてトビーの唇に運ぶ。


 少年は小さく喘ぎながらも、ゆっくりとそれを飲み下した。

 マリアにとって、私の指示する「煮沸」や「電解質の調整」は、理解不能な呪術の儀式に見えているに違いない。だが、それでいい。手順さえ守らせれば、結果はついてくる。


「お代は……」


 彼女は躊躇いながら、使い古された数枚の銅貨を取り出そうとした。


 首を横に振った。


「いらない。今回の症例に対する、投薬後の脱水補正に関する実験データは回収した。対価としてはそれで十分だ」


 マリアに支払いを求めず、薬草採取に費やした時間と、自分自身の労働をただ一方的に消費した。代償なき救済など、この世界には存在しない。その公理を理解しているからこそ、「実験データの回収」という仮想の等価交換をでっち上げ、自分が一方的に不利益を被った事実を論理的に隠蔽しようとしていたのだ。


 木箱を抱え、逃げるように小屋を後にした。


 *


 五日後、経過観察のためにマリアの家を訪れた。


 扉を開けると、そこには寝台の上で自ら上体を起こし、薄い粥を口に運んでいるトビーの姿があった。

 肌の乾燥は消え、呼吸のたびに波打っていた胸の動きも、今は平坦に保たれている。

 幸いにも感染は初期段階であり、生薬が持つ強力な抗菌作用と去痰作用が、少年の呼吸器に十分に機能した。そこに適切な補水が加わったことで、彼の肉体は速やかに危機を脱したのだ。


「先生!」


 トビーが私を見て、小さな声を上げた。


 マリアが慌てて立ち上がり、何度も深く頭を下げた。


「本当に、ありがとうございました。神殿の薬でもないのに、まさかこんなに早く良くなるなんて……」


「当然の結果だ。適切な解熱成分の投与と、病原体の増殖を防ぐ衛生環境の維持。これらが揃えば、人体は自然と回復に向かう。奇跡でも何でもない。沸騰させた水を飲む習慣を続けることだ。それが最大の予防になる」


 トビーの熱が下がった額に手を置き、体温が完全に平熱に戻っていることを確認する。


 少年は粥の器を置くと、外套の裾をそっと引いた。


「ねえ、先生。最近、森が変な感じなんだ」


「変とは、どういう意味だ?」


「すごく静かなんだ。いつもは夜になるとうるさい、虫や鳥の鳴き声が、全然聞こえないんだ。それにね……」


 少年はそこで言葉を切り、少し声を潜めた。


「森の奥の、川とか湿った地面があちこち光っているんだ。夜になると、青くて、少し緑っぽい、じわじわした光」


 少年の言葉から、一つの仮説を組み立てた。


 青緑色の燐光。

 もしそれが、不法な廃棄や蓄積によって生じたエネルギー反応だと仮定すれば、すべてに説明がつく。神殿や宮廷が独占配給する「禁忌薬」は、そもそも私の前世の万能薬の不完全な複製だ。その基本構造には、不完全に崩壊する際、特有の青緑色の光スペクトルを放出するという物理的性質が内在している。高濃度の禁忌薬廃棄物が土壌で自己崩壊を起こしているとすれば、トビーの目撃した光と完全に辻褄が合うのだ。


 だが、なぜ帝都の貴族や神殿しか所有していないはずの禁忌薬の廃棄物が、この最果ての辺境の森に蓄積しているのか。

 川の水から検出されたのは、禁忌薬そのものではなかった。正確には、禁忌薬を製造する化学プロセスにおいて生じる、超高濃度の重金属と有機溶媒を含む「猛毒の副産物(産業廃棄物)」だ。

 宮廷や大公家が独占する富の源泉。その製造現場から出た致死性の泥を、人目のないこの辺境の森に不法投棄しているわけか。これなら、あの法外な価格の薬が、なぜここで「川を汚染するほど溢れているか」の辻褄が合う。


 汚染された水を試験管に収め、冷徹に唇を歪めた。


「情報提供の対価としては十分だ。安静にしておけ」


 少年の額から手を離し、無表情のまま小屋を後にした。


 外に出ると、夕闇が村を包み込み始めていた。


 西の空は灰色を通り越し、紫がかった暗闇へと沈みかけている。


 地平線の彼方、森の広がる方角を凝視した。

 そこには、肉眼では判別し難いほど微かな、しかし確かに、樹冠の隙間からスリットのように漏れ出す、あの「万能薬」の崩壊光が、青緑色の不自然な燐光の帯となって薄く漂っていた。


 風が吹いた。運ばれてきたのは、夜の冷気ではなく、さらに濃度を増した薬品と、何かが焦げ付いたような、嫌な臭気だった。


 理性は、あの森に近づくことを危険だと警告している。それでも、視線はあの青緑の闇から離れようとしなかった。


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