第十四話 潰えた影
翌朝。
ヴィオラの求めに応じ、彼女とともに貧民区の北端へと向かっていた。
近侍の店へ踏み込む際、万が一の医療的対応要員として同行を頼まれたためだ。
カイルは日中の点呼と部隊待機を課せられており、日が高いうちは兵舎を離れられない。
空からは、灰白色の粉塵が朝霧に混じって絶えず降り注いでいた。
喉の奥が微かに痛む感覚は、もう慣れ始めている自分に気づく。
目指す場所は、かつてローゼンバーグ公爵家に仕えていた古い近侍が営む、小さな薬種問屋だった。
都の防衛線を極秘裏に回避し、プラントの中枢へ迫るための内部動線
――その中継役として、ヴィオラが最も頼りにしていた協力者の一人だ。
だが、路地の突き当たりに見えてきた木造の店舗は、不自然な静寂に包まれていた。
看板は傾き、扉の隙間からは生薬の乾いた匂いではなく、内臓を冷やすような、澱んだ埃の臭気だけが漂い出している。
「鍵が開いていますわね」
ヴィオラは、丁寧な口調を維持しながらも、その歩幅を僅かに狭めた。
他の護衛は拠点の防衛に残し、背後に従う黒衣の特務騎士の一人が、音もなく腰の短刀の柄に手をかける。
扉を押し開け、店内へと足を踏み入れた。
作業台の上は荒らされ、生薬の入った麻袋はことごとく切り裂かれて中身が床に散乱していた。
だが、その荒らし方は奇妙に秩序立っていた。
棚の奥の金目の物には一切手がつけられておらず、ただ、仕入れの帳簿と、顧客の記録だけが綺麗に抜き取られている。
そして何より、部屋の中央、梁から吊るされた太い麻縄の下には、すでに冷たくなった一人の老人の遺体が、力なくぶら下がっていた。
首を吊った状態の死後硬直。
衣服には、不自然なほど丁寧に整えられた形跡があり、足元には、踏み台となったはずの木箱が、わざとらしく転がされていた。
倒れた木箱の角度と、梁のロープの摩擦傷、および遺体の頚部に残る傷の走り方を観察した。
踏み台の転がり方と首の傷の角度が物理的に合致しない。
垂直に引っ張られた絞り傷のほかに、水平に締め上げられた痕跡と、本人が抵抗して自らの首をかきむしったであろう爪の傷が残っている。
首を絞められ、機能停止した後に、自死を装って梁から吊るされた可能性が極めて高い。
死後、およそ二日は経過している。
ヴィオラが都でこの近侍を頼る可能性は、ローゼンバーグ家の過去の交友記録から、あらかじめ容易に予測されていたのだろう。
だからこそ、神殿側は二日前という微妙に早い時点で先回りして処理し、都へ入った時点で、その予測が正しかったことを確認したのだ。
自殺を装うには雑すぎる痕跡。
だが、それは隠蔽の失敗ではなく、むしろこちらに気づかせるための意図的な粗さだった。
隠蔽する気なら遺体ごと処理できたはずだ。あえて残したということは、こちらへこの事実を見せること自体が目的だった。
「『お前たちの動きはすべて見えている』。
……そういう、無言のメッセージですわね」
ヴィオラは、散乱した薬草の葉をブーツの底で踏みしめ、遺体を見上げた。
彼女の薄い唇の両端が、不自然な角度で引き絞られている。
「宮廷の、あの凡愚どもが、これほどの手際を見せるはずがありませんわ。
彼らはただ、神殿の意向に従って動くだけ。
……つまり、私たちが都へ入ったその瞬間から、神殿の監視網はすべてを把握していたということですわ」
「姫様、危険です。ここは一度退き、拠点の防衛を……」
特務騎士が、焦燥を帯びた声を上げ、彼女の体を庇うように一歩前に踏み出した。
「下がって!」
ヴィオラの鋭い叫び声が、狭い木造の店内に突き刺さった。
それは、いつもの修辞に満ちた丁寧な響きを完全に欠いた、彼女の剥き出しの「素の口調」だった。
「今更、そんなもので私を庇うつもり?
我が一族が嵌められ、処刑台に送られたあの日も、あなたたちはそうやって私を庇い、安全な場所へと引きずり回したわ。
その結果が、これよ。
私のために動いた者が、一人ずつ、このようにして冷たい肉の塊に変えられていく。
今更、これ以上何を私から奪い、何を護るというの!」
彼女は、庇おうとした特務騎士の手を、嫌悪を露わにして激しく振り払った。
彼女の叫びは、部下への怒りではないはずだ。
近侍が殺された事実が、かつての粛清の記憶を呼び起こしたのだろう。
「自分のために動いた者がまた死んだ」という因果が、何かを抉ったように見えた。
守るべき者を何一つ守れなかったという深い孤独が、彼女を支配しているように思えた。
激情のままに言い切ったヴィオラの呼吸が、不規則に上下していた。
数十秒。
誰も声を掛けず、彼女の呼吸が整うのをただ静かに待った。
その沈黙の時間のなかに、彼らの中にあった長い空白の歳月が重く横たわっている。
作業台の引き出しの奥から、汚染を免れていたツユクサの乾燥葉を数枚、ピンセットで回収して木箱へと収めた。
この乾燥葉だけは、神殿が厳重に流通管理しているため下層では入手困難な、この店が最後まで密かに扱っていた希少な生薬だった。
「敵の目的は威嚇ではなく、行動予測の誇示だ。
こちらの動線を完全に読めているという事実そのものが、最大の圧力となる。
動揺は、計算式の誤差として即座に利用される。
感情を優先させるのは非合理的だ」
「……見苦しいところを、お見せしましたわね。
この忠臣の死、無駄にはいたしませんわ。
神殿の凡愚どもに、必ず相応の代償を払わせて差し上げます」
深く息を吸い込むと、彼女の瞳から激情の濁りがゆっくりと引いていった。
いつもの冷淡な美貌が戻るまでに、数拍の静寂が必要だった。
冷たくなった老人の遺体をその場に残し、静かに店を後にした。
この遺体を動かした時点で現場が改変され、神殿の検知術式に触れる可能性が高い。
それゆえ、ただ静かに店を後にするしかなかった。
都の自警団や衛兵に不審な通報をされれば、それこそ認証プレートの偽装が露見しかねない。
遺体を弔うことすら許されない、ただ泥を啜るような無力感が、灰色の霧とともに首筋にまとわりついていた。
路地を出た瞬間、中央広場の方角から、神殿の伝令たちの鳴らす鐘の音が響起した。
「神殿の、大いなる慈悲の日が近づいている!
三日後、神殿の広場にて、すべての大気汚染を防除する『特別配給』の儀式が執り行われる!
住民は漏れなく、登録プレートを携えて広場へ集え!
不参加者は即座に配給資格を剥奪し、『廃棄処分』とみなす!」
拡声の術式を通した伝令の声が、下層の街並みに不気味に反響していた。
三日後の特別配給。
それは単なる儀式ではなく、神殿が住民の肺機能を一斉に検分し、全員の登録を強制的に中枢照合する日だ。
日常の簡易照合であれば、カイルが細工した認証プレートの偽装術式で十分に通り抜けることができる。
だが、この特別配給の日だけは、神殿本体に繋がる大がかりな中枢照合の術式が作動する。
つまり、私たちの偽装プレートも逃げ場なく再照合される。
逃れられない因果の舞台が、強制的にそこへ設定された。




