第十五話 配給の日
宣告された特別配給の日、つまり三日後の朝が来た。 都の広大な神殿前広場へと、灰色の泥の川のようにうねる下層民の列が吸い込まれていく。
広場の入口には、鉄柵で区切られた検問の列ができていた。
神殿の下級神官たちが、住民一人ひとりの認証プレートに携帯用の照合水晶をかざし、青緑色の光の点滅だけで通過を許可していく。
簡易照合
――日常的に使われている、最低限の生体波長の一致を確認するだけの術式だ。
順番が来る。懐のプレートを差し出す。
照合水晶が、プレートの縁をなぞるように光った。
一拍の間。
神官の視線はこちらの顔すら見ていない。 ただ光の点滅の色だけを機械的に確認している。
緑色の点滅。通過。
拍子抜けするほどあっさりと、鉄柵の内側へ足を踏み入れることができた。
カイルの偽装術式は、この程度の簡易照合であれば完璧に機能する。
だが、これはまだ入口に過ぎない。
待機命令のまま、配給日の警備任務だけは通常通り割り当てられていた。
カイルの部隊が警備する防衛線のすぐ背後――。
軍医補佐官には広場全体の衛生監視が任されるため、高台への立ち入りも許可されている。
カイルが用意した「軍医補佐官」の偽装認証プレートを外套の内に隠し、高台の石段の上から、その濁流の一部を観察していた。
空から降る白灰色の粉塵は、平時の数倍に達していた。
神殿の塔からは、汚染物質を沈降させるための別種の散布剤が放たれており、霧と混ざり合って視界をさらに濁らせていた。
口内には、乾いたセメントを噛み砕くような不快なアルカリの味が張り付いて離れない。
広場の中央には、何十もの頑丈な鉄格子の窓口が並び、神殿の徴収官たちは、住民管理の基幹台帳と認証プレートの術式を照合しながら、淡々と耐性維持剤を配っていた。
その場で服用しなければ、帝都の空気を吸い続けることはできない
――それが、この都の絶対規則だった。
その列の最前線、一つの窓口で、小さく不自然な滞りが発生した。
「……これでは、これでは少なすぎます」
白髪の混ざった、痩せ細った老婆が、泥に汚れた背を丸め、鉄格子の隙間から身を乗り出すようにして、配給の木匙を見つめている姿は、都の不条理な日常そのものだった。
老婆の指先は、すでに化学性肺障害の初期症状で激しく震えている。
「規定では、私のプレートに登録されている量は、この倍のはずです。
これだけでは、肺が……
今夜の霧を越せません。どうか、規定通りの量を」
窓口の奥に座る徴収官は、表情を一切変えず、分厚い基幹台帳の紙面をめくった。
羽ペンの軋む音だけが、老婆の懇願を冷酷に遮っていく。
「配給前日に一斉に実施された術式測定の結果に基づき、昨日付けで肺機能等級が下限に更新されている。
したがって、割り当てられる耐性維持剤の量も、それに対応して減少する。
……規則ですので」
徴収官の言葉は、老婆の訴えを切り捨てるだけでなく、神殿が住民の呼吸データを常時監視している事実を冷酷に示していた。
「そんな……。
それでは、私たちはここで、ゆっくりと息を詰まらせて死ねと言うのですか?」
「死ねとは言っていません。
ただ、規則に従って配給しているだけです。
次の方、前へ」
事務的な、一切の感情を排した声。
老婆は、絶望に顔を歪めながら、窓口の鉄格子を掴んで激しく揺さぶった。
「頼みます!
これでは、今夜の配給まで持たない!
私の台帳の記録をもう一度確認してくれ!」
徴収官は、老婆のその必死の手元に視線を落とした。
ただ、紙にインクの滴が落ちるのを眺めるような、退屈な目だった。
「神殿への公的威嚇、および不法な異議申し立てと認定します。
……認証プレートの無効化を、即座に執行します」
徴収官が術式を起動すると、老婆のプレートからパチ、と乾いた放電音が響き、青緑色の光が完全に消えた。
認証術式の死。
それは、帝都で最も冷酷な処罰
――生存に必要な「呼吸を許される資格」の剥奪だった。
老婆はその場に膝をつき、力なく石畳の上にへたり込んだ。
石段を下りようとした。
昨日近侍の店で回収したばかりのツユクサの中和成分があれば、老婆の急性呼吸不全は数日だけ延命できる。
だが、上空の監視水晶がこちらを向いた瞬間、危険を告げる警鐘が脳裏で鳴った。
『廃棄処分者』への未登録医療行為は、重罰の対象だ。
ここで手を伸ばせば、偽りの立場ごと崩れる。
踏み出しかけた一歩が、一瞬、空中で静止した。
動け、という信号と同時に、もう一つの声が制止をかけた。
ここで薬師としての正体を晒せば、それは救済ではなく自己満足の英雄願望に成り下がる。
最悪の場合、この場にいる全員を巻き込む。
二つの計算が同時に脳内でせめぎ合い、後者がわずかに優位に立った瞬間、その肩を、背後に立っていたカイルの大きな手が、骨が軋むほどの力で強く掴んだ。
彼は何も言わず、ただ力任せに身体を引き留める。
彼の瞳には、ルマ村でこちらの警告を受け入れた時と同じ、現実を直視するための厳しい色が宿っていた。
彼自身も、騎士団の「番犬」としての無力さを噛みしめながら、ここで動けば全てが終わることを理解していた。
石段から足を、静かに引いた。
衛兵たちは、抵抗する気力すら失った老婆を、広場の外へと無造作に引きずっていった。
その後のことを、誰も口にしない。
住民たちは、自分が次の「規則」に触れないことだけを祈るようにして、無言で列を詰め続けていた。
――と、その直後だった。
広場全体の空気が、一段階変わった。
神殿の塔の頂から放たれる光の質が変わり、青緑色から、より深い翠色の帯へと変化する。 中枢照合。
特別配給の日だけの本格的な検査だ。
光の帯が、広場の石畳を舐めるように、こちらへと近づいてくる。
懐のプレートが、じわりと熱を持ち始めた。
今度は、先ほどの入口の簡易照合とは比較にならない密度の走査だと、肌で分かった。
終わった。
一瞬、そう確信した。
ここまでか。
この潜入計画が一瞬で終わる。
光の帯は、こちらの上でぴたりと静止したまま、数拍のあいだ揺らめき続けた。
まるで、判定に迷っているかのように。
やがて、翠色の光は何事もなかったかのように、隣の列へと滑るように移っていった。
プレートの熱が、ゆっくりと引いていく。
「……お前の分の照合は、俺が先に潰しておいた」
隣に立っていたカイルが、前を向いたまま、押し殺した声で言った。
「潰した?」
「今日この広場に配置されてる軍医は、本来もう一人いる。
北方守備隊から臨時招集された奴だ。
そいつの当番記録に、お前の照合波紋を重ねて登録させた。
神殿の台帳の上じゃ、今この瞬間、お前は『既に確認済みの北方守備隊軍医』ってことになってる」
「本人はどうした」
「今頃、宿舎で高熱にうなされてるはずだ。
昨日の夜、飯に一服盛った。今日一日、奴が表に出てこなきゃそれで済む」
感情の起伏を感じさせない声だった。
だが、それを成立させるためにカイルが払った手間
――内部の当番表を調べ、対象を選び、毒を用意し、記録を書き換える権限を持つ者に接触する
――その全工程の危うさを思うと、安堵より先に、彼の背負った代償の重さが胸に沈んだ。
一つの綻びでも見つかれば、北方守備隊の軍医本人が目を覚まし、名乗り出た瞬間にすべてが崩れる。 薄氷の上に立っていることに変わりはなかった。
最適解であると理解しているからこそ、その痛みは否定できなかった。
胸の奥を灼く敗北の摩擦だけが、物理的な事実として残った。
石畳に刻まれた老婆の白い爪跡。
空から降る粉塵の味。
カイルの胸甲の冷たい鉄。
それらが、感覚の底に深く沈んでいった。
広場を支配する沈黙のなか、神殿の回廊から、再び高らかな伝令の声が響いた。
「住民は心して聴け! 明日、神殿大礼拝堂にて、大司教ゴダール様による『聖女の祝福儀式』が執り行われる!
神の恩寵をその身に宿す聖女エレナ様の祈りを、全員、敬虔な心で受け取るべし!」
「聖女エレナの祝福儀式」――。
大司教ゴダールの名とともに告げられたその言葉は、神殿が次に動く領域が、単なる配給管理ではなく“信仰と権力の中枢”であることを示していた。
聖女エレナ。
まだ見ぬその名を、記憶の奥で反芻した。




